すれ違い【ショート・ショート78】

 キッチンから聞こえる『Bitter Sweet Samba』のメロディが、夢の世界から現実の朝へと戻した。楓はもう起きているようだ。ベッドの上で眠気眼を擦りながら、今朝の出来事を思い出す。楓に甘えてしまったことに恥ずかしさを抱いてしまうけれど、充実感が全身を巡っていた。ベッドから起き上がり服を探す。折り畳みの机の上に綺麗に畳んであるラジオ番組のオリジナルTシャツとスエットが置かれている。思わず頬が緩む。クローゼットから下着を取り出して、机の上の衣服に袖を通す。洗面所で最低限の身だしなみを整えてから、キッチンに向かう。壁掛けの時計の針は十六時を過ぎていた。
「おはよう」
 楓を見るなり声を掛けた。外出用の恰好をしている彼女は、キッチンで忙しない様子だ。
「おはよう。うなされてたけど、大丈夫?」
 不安そうな表情で尋ねるので、寝ている間に心配を掛けていたことに後ろめたさを感じる。
「大丈夫だよ。心配かけてゴメンね」
「大丈夫ならいいんだけど。朝からちょっと様子が変だったから、気になっちゃったよ。悩んでることがあったら言ってよね」
 楓が片手で割った卵がフライパンに落ちる。食欲をそそる音が耳に届き、眠気が冷め始める。適度に塩コショウをまぶすと、香ばしい香りが嗅覚を刺激した。フライパンを片手に持ちながら、目線はオーブンに向いている。器用だなと毎回感心してしまう。それに手際良く料理をこなす楓の一挙手一投足は、見ていて飽きない。普段、どこか抜けている印象を受けるけれど、キッチンでは人が違うかのような動きを見せる。同棲して初めて気付いた長所は、今のところ独り占めだ。
「うん、ありがとう。コーヒー、淹れるね」
 胸に秘めた感想を口にせずに、極めて平静を保って言った。二人しかいない秘密の空間なのに、一体何を演じているのだろうか。
「ありがとう。甘いやつが良いな」
「分かった」
 楓の横に立ち、コーヒーメーカーを起動させる。棚からコーヒー豆を二種類取り出して、ミルで削っていく。ガリガリ、と音を立てて粉末状になるコーヒーの香りが、ゆっくりと朝を実感させた。実際は夕方だから、互いの体内時計は確実に狂っている。
「今日もね、オープニングから若ちゃん節全開だよ」
 楓はスマホを操作して、オープニングトークから再生した。いやぁー参ったよ。そんな導入から会話を組み立てていくオードリー若林に適度に相槌を打つ相方の春日の小気味よいやりとりが耳に届く。
 顔を見なくても楓の声が弾んでいるので、笑顔であることは想像できた。客観的によくできたワンシーンだと思うけれども、オードリーのオールナイトニッポンが心地よい朝に深夜の風を送り込む。なんだか変な感じだ。
「一昨日、聞かなかったの?」
「うん。寝ちゃった。昨日もバタバタしてて聞けなかったから」
「ゴメン」
「ん? 謝ることなんてないでしょ。帰ってくるまで忙しかったし、帰って来てからは翼くんと一緒だったけど、聴くタイミングなかったし」
 楓は少し恥ずかしそうに言う。頬が僅かに赤くなっていて、まだ彼女は少女の心を持ち合わせているようだ。
「そうだね」
 今朝、もしも楓の描いた絵通りにならば、一緒にコレを聞いていたのだろか。それはそれでラジオで繋がったボク達らしいし、楽しかっただろうと想像してしまう。
「でもタイムフリーで聴けるから助かるよね。昔だったら、YouTubeとかで探さないといけなくて大変だったし」
「そうだね」
 お互い定期的に深夜勤務のあるシフト制という共通点があり、日常に溶け込んでいた。
「今日も仕事だよね?」
 コーヒー豆を入れたフィルターにお湯を注ぎながら訊く。
「うん。それに昨日も言ったけど、急きょ研修が入っちゃったんだよね。帰ってくるの9時過ぎちゃうかも。それになんだか嫌な予感がするんだよね」
 楓はため息をこぼしてから呟いた。そういえば「嫌な予感」という言葉によって今までも何度もデートの予定がつぶれていた。
「今日も代打?」
「かもしれないんだよね。一昨日の話なんだけど、高橋さん調子悪そうだったんだよね……」
「楓の予感当たるからな」
「そうなんだよね。翼君は休みだよね?」
「うん。明日の夕方から仕事」
「折角の休みだからって遊び過ぎないようにね。また国分さん誘って、日が変わわるまで飲み歩かないでね」
「国分は所帯持ちだから大丈夫だと思うよ」
「絶対だよ。私も代打に指名されないように逃げるから」と返事した楓は何度も頷いていた。のんびりとした幸福の断片に触れたような時間。気付けばブラックコーヒーとカフェオレが出来上がっていた。

『予感当たっちゃって今日宿直になっちゃいました。変な予感は口にするもんじゃないね。だから夕飯一緒に食べれないや、ゴメンね』というメッセージの後にクマのキャラクターが謝っているスタンプが届いている。その後、他愛もないやり取りを繰り返して、時間を共有し続けた。ボクが電車に乗っている時間と楓の休憩時間が重なった稀有な展開だ。
 看護師というのは激務であり、予想していないことが度々起きる。付き合い始めてから思い知ったけれど、今では慣れてしまっていた。一緒に時間を過ごせないことよりも、楓の身体や精神が限界を超えないかと心配になる。何度かその件について話したことはあった。でも楓はいつも笑って言うのだ。眩しい過ぎる笑顔で。
「大変だけど楽しいこともあるから大丈夫だよ。それに子供の頃からの夢だったからね、頑張れるんだ。それに、恥ずかしいんだけどね、心配してくれる翼君がいてくれる。頑張って仕事して疲れても、凄く嫌なことがあってもね、翼君は真剣な顔で話を聞いてくれるし、私には勿体ないくらいの優しい言葉貰えるから、大丈夫。一緒にいると不思議とね、すぐに元気になれるんだよ。だから私のことは心配しないでも平気だよ。弱った時はすぐに甘えるから、その時は優しく頭撫でてね」
 人生という道で大きな過ちを犯したボクには勿体ないくらいよく出来た彼女だと思う。何より好きになった女性にこんな言葉を言われるなんて夢にも思っていなかった。だからこそ、自分は幸せ者だと自覚的になることができた。しかし、幸せだと感じれば感じるほどに胸が苦しくなる。フラッシュバックする映像は、全身から暖色を奪う。
『今日は帰れないから、久し振りに夜遊びしてきてもいいよ。でも他の女性と遊びに行ったりしたら、すっごく怒るからね』
 返信を打っている最中に再びラインが届いた。こんなに良い彼女がいるのに浮気まがいなことをする奴なんているのだろうか。世の中にはいるのかもしれない。けれど少なくともボクは、そちら側の人間ではなかった。
 楓以外からのラインも会社からの電話やメールも届いていない。年齢を重ねていくことに疎遠になっていく友人たちがいることに、一抹の悲しさと寂しさをブレンドした複雑な気持ちを抱いてしまう。年末や夏休みに会える喜びが増すことを知ってしまったからこそ、顔を出せない現実は苦しい。
『ありがとう』
『優しい私に感謝してよね。明日は夕方まで休みだよね? 私が帰ってからは、ユウ君の淹れてくれたカフェオレとおやつ食べながら旅行の話しようね』

 時計の針が進むにつれて次第に乗車客が増え始めた。二十分が経過した頃には身動きが取れない程度に込み始めていく。社会の縮図のような狭い箱の中は、加齢臭とアルコール、そして化粧品や香水が漂っている。誰かが開けた僅かに開く窓から届く外気によって辛うじて吐き気に負けないで済んでいる。もしもジップロックのような完全密閉空間であれば、耐えきれずに胃の内容物を戻していることだろう。そんなどうでもいい想像を浮かべてしまい、気持ち悪くなった。楓と過ごす時間に酔える自分もいるけれど、作業着を身に纏い昼夜逆転日々を過ごすが、生活の一部として馴染んできている。不思議だなと思う反面で、安定なんて抽象的なもの求めてやりたくもないことに勤しんでいる日常が般化して、楓のために大義名分を掲げて身を投じている自分自身に情けなさを抱く。多分、昔描いた未来図との誤差のせいだ。それともあの音楽番組のせいだろうか。あの時の映像とメロディを求めている自分がいた。気付けばYouTubeの検索窓に『オーバードライブ 醒めない夢』というワードを打ち込んでいた。
 車内にアナウンスが響き、歓楽街が近くにある駅に電車が停まった。ダムの放流のように勢いよく飛び出す乗客はおらず、代わりに下車する人達は足に鉛でも埋め込まれているかと思うくらいに重たい足取りだ。
 帰宅ラッシュで賑わうホームを歩く。でも発車時に駆け込んだ元気は、もう無かった。まるでアルコールを摂取し過ぎて、自我を失いつつあるどうしょうものないような大人の姿を体現しているようだった。まだ飲んでいないのに、と自嘲してしまう。
 改札を抜けて、一目散に向かったのは喫煙所だった。喫煙所内でタバコを吸っている人間で溢れていた。その場所に辿り着けずに区画外でタバコを吸う人間も同じくらい溢れている。そういうマナー違反のせいで、愛煙家が窮地に陥っていることを自覚してほしい。
 名ばかりと言っても過言ではないパーティション四枚で囲われた喫煙所のヒップバーに腰かけ、ポケットからタバコを取り出す。クシャクシャになっている箱は、どこか哀愁のようなものが漂っている。慣れた手つきで、一本取り出して火を付ける。ホタル族と揶揄される儚げな光が口元で灯った。タバコの煙は体内に入り込んで、血管を収縮させていく。身体が重たくなり、毒々しい煙に身体が犯されていく感覚に浸る。吐き出した煙は、静かに星の見えない空へと立ち上り、そして夜空に溶け込んだ。
「さて、行こうかな」
 掠れた呟きは、タクシーの走行音にかき消された。吸っていたタバコを煙の上がる灰皿に入れて、喫煙所を後にした。待ち合わせの時刻には余裕がある。暇を潰せる場所なんて知らなかったからこそ、夢遊病者のようにあてもなく歩き始めた。
今を表現するのであれば逃避行動だろうか。それ以外に今の行動を形容する言葉など持ち合わせていなかった。どうやら本気で捨てることができない一念が、再熱しそうなんだと実感した。
 おもむろにスマホを取り出し、ツイッターを開く。久し振りに裏アカウントで感情を清算するかのように拙い詩を紡いでいた。
 いつの間にか住み着いた習慣。夢や可能性と自分を繋ぐか細い糸は、もう十年くらい切れていない。覚悟の無さを思い知る残骸だと思い込んでいた。でもフリック入力で紡ぐ文章にワクワクしている。そして会いたいと思った人の顔が浮かんだ。でも一人で行く勇気は持てなかった。空白の時間は距離を遠くするものだ。
「国分に連絡するかな」
 ラインを開き、国分に向けたメッセージを送った。

文責 朝比奈ケイスケ


胸騒ぎ【ショート・ショート77】

「ねぇ、今度京都行こうよ」
 夕食で使った食器をキッチンに持っていくタイミングで楓は呟くように言った。今日は僕が当番なのにと思ったけど、そのことには触れずに「いいね、京都」と答えるボクはきっと幸せ者だ。
「本当に? じゃあ、桜が綺麗に咲く時期に行こ。絶対だからね、約束だよ」
 キッチンの向こうから無邪気な声が聞こえる。水道が流れ落ちる音も聞こえたから、どうやら今日の洗い物は免除らしい。意図しているのか、天然なのかは未だに捉えきれないけれど、手持無沙汰になったボクはテレビの電源を入れた。
 画面に映し出されたのは、平日昼間に見なくなったサングラスを掛けた芸人と落ち着いた表情で番組進行を行なっている女性アナウンサーだった。この情報だけで、金曜日の二十時台と分かるくらい、この音楽番組は国民的な番組だ。子供の頃から、どんなに忙しくても、好きなアーティストが出ている時は欠かさず観ていた。青春時代を彩った音楽の多くを教えてもらったし、翌日学校の話題にもなっていた。今ではネットが発展して、探そうと思えば時間が経ってからでも見ることができるから、生放送ということを忘れがちになってしまうけど、生放送だからこその魅力は健在だった。そんな思いれのある番組の時間帯が変わるニュース記事を読んだのは少し前。未だに信じられないけれど、これも時代なんだと飲み込めるくらいには大人になっていた。
「翼君らしくない番組見てる」
 コーヒーカップを二つ持った楓がキッチンから戻ってきた。当たり前のように、僕の座るソファーの横に腰かけて、青いカップを僕に差し出した。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 カップの中にはコーヒーとミルクが混ざったカフェオレが丁度良い量で注がれている。少し息を吹きかけてから、口へと運んだ。甘さが口の中に広がっていく。楓は両手でカップを包んでいる。思わず可愛いなと思ってしまったのは、惚れた男の性のようなものだろうか。
「どうしたの?」
 楓は不思議そうな表情を浮かべて尋ねた。
「いや、なんか可愛いなって思って」
 本音を言うか誤魔化すか一瞬迷って、前者を選んだ。
「そういうことは、もっと言ってほしいな」
 甘えた口調で呟いた楓は僕の左肩に甘えるようにちょこんと頭を乗せた。髪の毛から漂うシャンプーの香りが、不意に胸を高鳴らせる。条件反射のようにキスしたいと思った。
「洗い物、ありがとう」
「うん。でも今日は、私の当番だから当然のことだよ」
「やっぱり」
 僕は思わず笑ってしまった。テレビのスピーカーからは、アイドルグループのキャッチーなメロディが流れ、テンポの速いダンスを舞っている。毎回アイドルの歌っている映像を見ると、踊りながら歌うという離れ業を平然と行なっていることに感心してしまう。カメラが向けば、ウインクなどのファンサービスも怠らないあたり、相当な努力をしているのだろうとなと素直に凄いと思う純朴さは残っていた。
「何、急に笑い始めて。ねぇ怖いんですけど?」
「今日の当番はボクだよ。気付いてないのかなって思ってたら、本当に気付いてなくて笑っちゃった、ゴメン」
「もう言ってくれればいいのに意地悪。明日と明後日は翼君が洗い物当番だからね。絶対だよ。サボったら怒るからね」
 全然怖くない楓の強迫に笑みを浮かべながら、黙って頷いた。
「同棲してからボクが当番をサボったことあったっけ?」
「ないから信用しているよ。それに私の方がサボってるし」
「確かにそうだ。一年半の間に楓と当番を何度変わったことか」
「それは言わないでよ。私だって働いてるし、疲れることもあるんだから」
「知ってるよ。無理して当番やるくらいならさ、変わるからね」
「うん、ありがとう。ユウ君は優しいし、約束を守る人だから甘えちゃうかもしれないけど、私もあんまりサボらないようにするね」
 約束を守る人。楓の言葉に引っ掛かった。確かに間違ってはいない。今までの人生の中で、止む負えない事情を覗いて約束を破ったことは一回しかない。その一回があるからこそ、より約束という単語に敏感になっていることは想像に容易だった。たまに思い出すあの瞬間、約束を守る準備を本気でしていれば、と後悔することもある。寝る前、夢の中、一人でタバコを吸っている時。不意にやってくる後悔は、ある意味ボクの核であり、日常に般化されたものでもあった。
 楓に視線を移す。彼女は上目使いで僕を見つめていた。肩に頭が乗っているから普段よりも至近距離で、その破壊力は未だに言語化できない。ボクは慣れた手つきで左手で髪の毛を撫でる。この距離感は、僕らが付き合って三年、同居して一年半の関係性を表している。恋愛経験が乏しかった僕には、恋人の当たり前とされている行為や行動が当たり前にならなくて、いつだって試合開始時に受け取る真新しいボールのような綺麗さを含んでいる。それが浮かれない要因だと自己分析する気持ち悪い側面もまた変わらないままだったけれど、それでもいいと時間は掛かったけれど飲み込めた。
「好きなアーティスト出るの?」
 甘い雰囲気が流れる部屋の中で、唐突に楓は訊いた。キスしようと画策していたボクは、彼女の質問を聞いて一時的に断念した。感情に従って行動を起こす積極性は、身に付けきれていないようだ。
「そういう訳じゃないんだけど、テレビ付けたら流れててさ。なんか懐かしいなとか思ったら、チャンネル変えられなくなっちゃった。あとゴメン、タバコ吸うね」
 頭の中を整理するために、テーブルの上に置いたラークに手を伸ばし、ジッポーで火を付けた。煙が立ち昇る。頭がクラッとした。楓はボクの肩に預けた頭を戻し、立ち上がって窓際まで歩いた。
「そっか。センチメンタルなお年頃?」なんて言いながら、窓を開けてから再び座っていた場所に戻った。
「センチメンタルって、もうそんな年齢でもないだろ? お互いにさ」
「私ね、よく観てたんだ。ミスチルとかポルノとかハマったのもこれきっかけだし。今だとYouTubeとかで簡単に見れるけど、昔はそうじゃなかったから凄く大事な番組だった。紅白とかと一緒で欠かさず観てたかも」
「ボクも一緒だよ」
「同い年だもんね」
 楓が笑ってカップを口に運ぶと同時にアイドルの曲は終わり、ボクは短くなったラークを灰皿に押し付けて完全に火を消した。そのタイミングでトークへと画面が切り替わる。他のチャンネルを変えようとリモコンを手に取り画面に向けた瞬間、全身が硬直する感覚が襲ってきた。
「それではオーバードライブで『醒めない夢』」
 ダサい名前だなと毒づく。しかし、画面に映し出された映像を見た瞬間、えっ、と動揺した声が口からこぼれてしまった。そして目を疑った。画面の向こう側に、見たことのある立ち姿が映っていたせいだ。まるで体内の神経系への指示が途絶えたかのように、指一本すら動かせなくなった。金縛りとは違う硬直。原因はテレビの向こう側にあると理解するまで、時間が掛かってしまった。数秒で身体の硬直が解けたボクは、気持ちを落ち着かせるために再びラークに火を付けた。頭が重くなった感覚が巡ってきて、余計に状況を把握するのに時間が掛かった。他人の空似である可能性は否めず、防犯カメラの映像を検証する警察捜査官のように映像を見つめた。
 ギターの音で演奏が始まると同時に、暗かった舞台に照明の光が差した。明るくなった中心にアイツに似た男が立っていた。シンプルな舞台の上、ドラムとベース、キーボードという編成の中心で構えるボーカル・ギタースタイル。右手で弦を押さえ、左手で弾き始めるボーカルの姿を映し出す。曲が始めると顔がアップになり、左耳で光るピアスが目に入った。そのどれも見覚えがあった。背中に冷たいものが走り、再び動きが止まる。左手に持ったラークはゆっくりと燃え、灰の量が増えていく。自然と意識は、酒が無くても熱くなれるものに視野狭窄になっていた淡い想いが詰まった過去へと飛んでいきそうになる。だが必死に堪えた。親友かもしれない男が晴れ舞台に立っているのだ。見逃すわけにはいかない。でも腑に落ちずに他人の空似の疑いは拭えない。ボクの知っているアイツであれば、決して取ることのない選択肢だったからだ。
「オレはオレにしかできない音楽を貫きたい」
 高校生だった彼はバンドを組むことを拒み、ギター一本で路上に立っていた。そして自分の音楽だけで世界と向き合い、全力で戦っていたからだ。
 仮に目の前に映る男がアイツであるとして、男の演奏は大学生最後の日に新宿の路上で歌っていた時よりも上手くなっていた。確かに学生時代から歌唱力には定評があったことは知っている。勿論、同級生やライブを見た見知らぬ人たちの感想だ。プロの目から見れば違った印象を受けるのかもしれないけれど、それでもバンドを組んでいた同い年くらいの奴らと比べれば頭一つ、いや三つくらいは飛び抜けて巧かった。 
 その歌声の代償と思ってしまうくらい音楽を始めた頃のギターはひどかった。ろくにメロディを刻めず頭を悩まして、弱音を吐いていた記憶は今でも覚えている。しかし画面に映る男のギターの音色は、あの頃の面影は全くない。むしろ同一人物とは思えない程上達している。素人のボクでも分かるくらいに。会わなくなった期間に彼が積み上げてきた努力の成果なのかもしれない。だとすれば時間の使い方や密度の違いを見せつけられた気がした。でも聞けば聞くほど他人のような気もするボクは、冷静は判断ができなくなっていた。
 ダセーバンド名だな、なんてバンド名を見た時に抱いた邪なことなど忘れ、気付けば叫ぶように歌う姿に見惚れていた。言葉にできない違和感を胸に抱えながら。
 何かを話していた楓の声が耳に入らないほど、ボクはテレビ画面を見つめていた。雰囲気や顔つきに年相応の変化はあった。でも間違いない。直感と言えば、恐らくそれであるけれど、正確には長年肩を並べてきた親友の姿に反応するスイッチみたいなものが知らぬ間に埋め込まれているのかもしれない。
 音楽を生業にする人が出演したいと口にする音楽番組にアイツが出ている。嬉しいけれど、素直に喜べない複雑な感情が胸を染めていく。心の中で呟いた声には嫉妬心が混ざっていた。そして無理矢理押し殺した一つの感情が、溢れだそうとしていた。
「ねぇ、翼君?」
 楓がボクの肩を揺らしたことで、我に返った。
「あっ、ゴメン」
「大丈夫だけど、どうしたの?」
「いや何でもないよ。あのさ、このアーティスト知ってる?」
 ボクは画面を指さして問い掛けた。すると楓は不思議そうな表情をしながら頷いた。
「知ってるよ。最近、よく深夜の音楽番組とかフェスとかにも出てるよ。この前行ったフジロックにも出演してたから聴いたよ。凄くカッコいいバンドで、多分これから今以上に有名になると思ってるバンドの一つなんだよね。どうしてそんなこと聞くの? あんまりバンドとかに興味がないのに」
「いや、単純にカッコいいなって思ってね」
「今度ライブ会ったら行こうよ。でもその前に京都で桜を見に行くのが先だけどね」
「うん、そうだね」
 この瞬間、楓が横にいてくれて良かったと改めて思った。手に入れられなかったガキの絵空事の代償で失った幸せの断片は、一定期間影を落とし続けていた。レントゲンや超音波検査といった医療技術でも発見することのできない穴が胸の辺りにできた気がした。決して目には見えない大きな穴だ。でも塞ぐ術を知らなくて、自然治癒を期待するかのように開きぱなしのまま放置していた。その期間は、過敏になり過ぎていて治っていないキズみたいに掛ける消毒液みたい色々な感情が染みて不甲斐ない自分を責め続けた。そんな壊れかけていたボクを救い、心にできた穴を埋めてくれた彼女という新しいピース。手に届く幸せのおかげで、ボクはなんとか立っていられる気がした。
 楓。ボクは無意識に彼女の名前を口にしていた。楓は普段と変わらない笑顔をして、まっすぐボクを見つめた。楓を左手で引き寄せて静かに顔を近付ける。何をするのか悟ったのか、何も言わずに目を瞑ってくれた。楓の優しさに甘え、自分勝手なキスをした。唇の柔らかさと温かさに涙がこぼれそうになった。
 同時に頭の中でこだまする声が響いた。
「幸せって、自分の好きなことを感情に純粋にやることだと思うんだ」
 果たして本当にボクは幸せなんだろうか。計ることのできない感情への疑問符を抱きながら、楓の温かく柔らかな身体を抱きしめた。

文責 朝比奈ケイスケ 

トリップ【ショート・ショート76】

 久々に歩く新宿周辺の夜の散歩は、気付けば二時間も経過していた。目的地を敢えて迂回して彷徨っているうちに疲れてしまった。大学生の頃は悩んでいることがあると、頭を冷やすために最寄りだった中野駅から東京駅まで夜通し歩いたこともある。あの時も疲れたけれど、今は疲れの質が違う。不用意な形で年齢を重ねていることを実感してしまう。
 腕時計を見て、時刻を確認する。気付けば、草木も眠る丑三つ時。言葉通り、街は明日の為の英気を養うかのように静かで、深夜0時まで立っていたキャバクラや風俗、居酒屋へと誘うキャッチの兄ちゃん達は姿をくらましている。歓楽街を彩る人間が消えて、残ったのは無駄に眩しいネオンが虚しく光を灯し続けている。終電を逃したのか、それとも行き場を無くしたのか、未成年と思しき若者や泥酔し道端でクダを巻いている中年のおっさんなどがちらほら視界に入る。親と子ほど離れた男女がホテル街へと向かう姿だって、何度か見かけた。警察官だって何人もすれ違った。混沌とした街を守り、不純異性交流に目を光らせ、精神を鋭い鉾のように尖らせながら勤務に従事する彼らの顔には疲労の色が濃く現れ、心労や気苦労が透けて見えてしまうと、同情してしまう。国民の義務である納税の意味をぼんやりと理解したりもする。
 不気味という表現がピッタリと当てはまる道中を進み続ける。オレの姿は他者の目にどのように映るのだろうか。考えても仕方がないことを考えながら、ようやく目的へと繋がる歩き慣れた道を進んでいく。
「殺すぞ、おい」
 甲子園に出場する学校の応援団に匹敵するくらいのボリュームの怒号は路地裏まで響き、そして夜の街に溶け込むように消えていった。幽霊の存在よりも恐怖感を煽る異様な空気が漂っている歓楽街の姿は、エゴと個性が混在していた。なんでか分からないけれど、居心地の良さを感じている。何かしらの篩に掛けられて、細かい網目からこぼれた人間でも居場所があることを知れるこの独特な風景が案外好きなのかもしれない。
 路地裏にある雑居ビルの地下1階に目指した場所があった。煌びやかな光が差し込まない漆黒の闇を彷彿とさせる暗さは、世の中に陰と陽という概念が存在していることを教えてくれるようだった。
 重厚な扉を押し、店内に足を踏み入れた。カラン、と鈴の音が出迎えた。人間の欲望が浮き彫りになっている外とは一線を画している静寂が包むオーセンティックバー。店の雰囲気とスピーカーから流れるピアノ協奏曲の影響か、安堵した気持ちになる。どんなに外が荒れていても落ち着いて場所は存在していると伝えてくれるからだろうか。流れている曲は、モーツァルトかバッハだなんて中学生から飛躍しない音楽の知識が頭に浮かんだ。別に生きていく上で必要なものではなかった。仮に持っている知識以上の知識があったところで世界の見え方が今とは僅かに異なるだけ。きっと今後もクラッシクについて知ろうとしないだろうと思った。
「久し振りだね」
 白髪交じりの前期高齢者に該当するバーテンダーの岸上が声を掛けてきた。クリーニングの行き届いたシャツの上にベストを着て、黒い蝶ネクタイをする姿はバーテンダーそのものだった。何も変わっていないような錯覚を受けたが、優しい笑顔には以前見たよりも皺が多かった。
 オレは彼に応えるように軽く会釈し、店内を見回す。誰も客は居なかった。そしてゆっくりと店内を歩いてバーカウンターの一番奥の席に腰かけた。岸上は次にオレが起こす動作を読み取ったかのように、何も言わずに灰皿を出してくれた。極めて物腰優しい顔。町内会で愛され続ける会長のような表情をしている。
人間のエゴで肥えた街、その大元である水商売という弱肉強食で成り立つ社会で、何十年も店を存続させている強者というフィルターのせいで、何度顔を合わせても、チューニングをしてピンと張ったギターの弦のような緊張感のようなものを抱かせる。こういう善人風の老人が実は闇世界を牛耳るフィクサーだったという創作物は、この世界には飽和するほど蔓延している。そんな創作物に触れたことが影響しているからだろうか。
「何を飲まれますか?」
「マッカランのロックを」
 渋めの声で尋ねる岸上に対して、一拍置いて答えた。「かしこまりました」と告げて酒瓶の並ぶ棚から注文した物を手に取っている背中を眺めた。懐かしさを抱きながら胸ポケットからラークとライターを取り出し、火を点けて煙を吐き出した。カウンターの向こう側からグラスに氷を入れる乾いた音が聞こえ、いつかに描いた理想の大人像を演じていることに自覚的になる。
 昭和と平成の境界線で生まれた身としては、消費税導入やバブルの崩壊、ベルリンの壁崩壊のニュースは後々学ぶ過去のニュースだった。それでも流行していたトレンディードラマの影響は少なからず受けている。戦隊ヒーローものですら、その要素が詰め込まれていたのだから仕方がない。一人でバーに行き、タバコを吸いながら、バーボンをロックで飲む。もはや無意識レベルで吸収したカッコ良さの価値観であり、言い方を変えれば、それは洗脳と言っても過言ではなかった。拙い記憶しかない幼少期に得たカッコいいと思わせる姿と価値観は一生ものだ。
「マッカランのロックです」
 岸上は、オレの目の前に黄金色したマッカランの入ったグラスを差し出す。アイスピックで丁寧に削られた丸い氷が、グラスの中で存在を主張するように浮いている。
 美しい。少し遅れてチェイサーも置かれた。タバコとウイスキーの組み合わせは、禁煙ブームの中で時代遅れかもしれない。時代遅れで構わないと思ったのは、恐らく今の時代に心の底からカッコいいと思える大人像がなかったからだろう。
「相変わらずのラークかい?」
 岸上は感慨深く呟いた。
「はい。何度か浮気しましたが、結局これに戻ります」
 テーブルに置いたラークの箱を手に取り、若干の笑みを浮かべた。
「そういうものは大切にするといい。どんな時代でも試行錯誤を繰り返し、自分の価値観を見つけて信じることができる人間は逞しさを身に付けることができる」
 岸上は真っ直ぐ、オレのことを見て言う。なんだか頭の中を覗かれているようだった。誤魔化すようにグラスを傾け、マッカランを一口飲んだ。氷とグラスがぶつかる音を聞きながら。強いアルコールが、焼けるような刺激を喉や食道に残して身体の中に入ってくる。身体が熱くなるのを感じながら、ぼんやりと過去のことを思い返しそうになった。酒が無くても熱くなれるものに視野狭窄になっていた淡い記憶を。
 その時、重厚な扉が開く音を耳が拾う。このタイミングで誰かがやってくることを踏まえると、待ち人が来ないうちから過去の記憶に飛んではいけないという暗示だろう。半分ほど吸ったタバコを灰皿に押し付けて、二本目のラークに出を伸ばした。
「いつ以来でしたっけ?」
 別にこの質問に意味はなかった。ただ、何かを喋っていないといけない使命感のようなものに思考を委ねていた。
「記憶が曖昧ですが、二年前くらいの冬ですかね。確か大学時代の演劇仲間と一緒にいらっしゃいました」
 その返事で紀藤と一緒に来たことを思い出す。当事者ですら忘れていたことを岸上はしっかりと覚えていて、その記憶力には驚いた。同時に後悔の言葉を並べる情けない自分自身が蘇る。あの時のオレは人生において一、二を争うくらい無様だった。
「よく覚えていましたね。もう忘れていましたよ」
 平静を装って言葉を紡ぐ。
「接客業というのは、お客様の顔を覚えるのが非常に重要です。それに街の特性上、覚えておかないとマズい場面もありますから」
 岸上は柔和な笑顔を浮かべながら答えた。歌舞伎町という街の裏側を少しだけ垣間見た気がする。
「あれからどうしていましたか?」
 その質問には多くの意味が込められ、本質を炙り出すのには十分な程の破壊力があった。
「なんとか就職して、社会人に戻りました。それにその頃に支えてくれた彼女と同棲しています」
「そうですか。それは良かったです」
「ありがとうございます」
「しかし、もう辞めてしまったのですか?」
 岸上は全て覚えていることを確信する。岸上と亮廣に語った絵空事と紀藤に愚痴った劇団のこと。そして罪を懺悔したことを。
「才能がありませんでした。やっぱり凡人には越えられない壁ってのが、世の中には存在しているのだと痛感しました」
 煽るようにグラスのマッカランを飲み干す。喉が熱くなり、視界が揺れる。すぐにチェイサーを口に含んだと同時に目を瞑る。瞼の上に差す間接照明の光で真っ暗ではなかったけれど、世界が透けて見えることはなかった。何を期待していたのだろうか。頭の中で自嘲しながら、ゆっくりと瞼を開く。
「大丈夫ですか?」
「すみません。ちょっと色々と思い出してしまって」
「そうでしたか。私も少し踏み込んでしまったようですね。申し訳ありません。今日は、どなたと待ち合わせでしょうか?」
 速やかに岸上は話題を変えた。それだけオレの表情は絶望を体現していたのだろう。そのことに申し訳なさが芽生える。
「大学時代に知り合った友人です。初めてここに来た時に後から来た奴です」
 そう言った瞬間に、頭のスイッチが現在から過去へと切り替わる。もう止めることはできない。過去の回想は、オレの悪い癖だ。

 文責 朝比奈ケイスケ

愚か者【ショート・ショート75】

 キーボードを叩く音が狭い部屋の中に響く。多くの人が寝静まる丑三つ時、オフィス街の一角で眠りを忘れた愚か者は、社会に取り残されたように画面と向き合う。朝と夜の概念を忘れて生きるなんて、思えば大学生以来だ。
 酒とタバコを片手に夢や希望で溢れた明るい未来を語ったのは遠い過去。あの頃描いた景色をひと時だけ見ることはできたけれど、長くは続かなかった。現実は甘くはないと身を持って知った。夢見心地だった時間をセピア色にでも編集すれば飲み込めるのかもしれないけれど、悪意に満ちた真っ黒さと諦めを表すかのような灰色で編集をして飲み込んだ。
 失敗は成功の基と能弁に語った奴を全力で殴りたいと思った時期もあったが、怒りは長期的に続くものでは無い。気付けば、全ての事柄を都合の良く切り取って、自分ではない誰かの事柄として俯瞰するしかできなかった。
 たった一つの失敗が人生を狂わす。社会に蔓延る悪しき風習を反面教師として伝えられたことだけが唯一の救いか。
 十畳ほどの広さの守衛室には似つかない大きなサーバーが幾つも並んでおり、静かにネットと現実を繋ぐために活動を続けている。左腕にパソコン乗せ、右手だけで器用に操作する。真っ黒な画面に浮かぶ文字は無機質で温かみが抜け落ちている。プログラムが出題する設問に対して何度も解答しているけれど、返答はナンパやキャッチを無視する街中の女性のように冷たい。まるで自分が拒否される存在であることを鋭角な角度から突きつけられているみたいで気持ちが萎える。何度繰り返しても拒否されるうちに、問題の深刻さに気付いた。
「これは朝までコースか」
 ため息交じりに小言を呟く。左手に乗せたパソコンをテーブルの上に置き、一個千円くらいの安いパイプ椅子に腰かける。両手でタイピングしないといけない状況に陥るのは想定外だった。どうやら最近入った相棒の不手際が影響しているようだ。
 頭を掻き毟りながら、タバコが吸いたいと思った。それを許してくれる状況では無いのは明白だ。仕方がなく頭に浮かぶ可能性を潰していくことが最善の一手だと知っているからこそ、欲望を律して手を動かす。プログラミング相手では無く、生身の人間との会話や創作活動であれば、多少なり充実感を得られるかもしれない。でも結局は白か黒かしか判断できない機械との会話だ。こちらは歩み寄って向こう側の言語で対応しているのに、うんともスンとも言わない。まるで独り言じゃないか。なんて寂しいのだろうか。そして自分自身がひどく切ない場所で生きていることを実感した。

「すみませんでした」
 後輩の井上が事務所で頭を下げたのは、午前五時を過ぎた頃だった。空腹と寝不足が相まってひどく機嫌が悪いけれど、平静を保って大人の対応を心掛ける。相手はまだ二十三歳。失敗して当然だ。この失敗が社会の暗黙のルールを違反せず、人生のレールから踏み外さないのであれば貴重な経験になるだろう。
「ミスは誰にでもあるよ。同じミスを犯さないように反省して、次に生かせばいい」
「本当にすみませんでした」
 井上は頭を上げない。初めてサーバー保守の業務に入った時に、高校で野球部に所属していたと話していたことを思い出す。甲子園にも出場する名門校だったからこそ培ってきた体育会系の系譜が身体に刻まれているのだろう。穿った見方をすれば、頭を下げ必死に謝っているように見せていれば、物事は勝手に解決すると思っている節があるとも捉えられる。正直、どっちでも良かった。さっさと頭を上げ、日報と報告書を書いてくれれば、オレはタバコを吸いに行けるのだ。
 いつまで経っても頭を上げない井上に付き合うことに我慢できず、頭を下げ続ける井上の肩を叩き、守衛室を後にした。本来であれば業務時間でタバコを吸いに行くなど本来であれば御法度だが、今日は休憩時間を丸々プログラムの修正に取られてしまったから構わないだろう。守衛室のある地下階から地上へと繋がる階段を登り、灰皿のある業者用の搬入口を目指した。誰もいない静かで薄暗い廊下に足音が虚しく響く。この場所にいてはならない幽霊みたいな存在だと言わんばかりの規則正しい音。重たい足取りが、より重たくなる。しかし習慣は裏切らない。毎週のように足を運ぶからこそルートは明確で、何も考えなくても最短ルートで進むことができる。恐らく、このビルで日中働いているエリートサラリーマンよりも詳しいなんて虚しいことを思った。
 地上に出ると申し訳ない程度の朝日がオフィス街を照らしていた。スーツを着たサラリーマンやOLの姿は見当たらず、閑散とした街並みはシャッター商店街を想起させた。不意に吹き付けてきた風には、冬の特有の冷たさは生み出す痛みを感じる。自然と身体が震えた。もう冬だな、と呟いた声は白く色付く。作業着だけではと心許ないと守衛室を出る時に手に取ったダウンジャケットを羽織った。
 ビルとビルの間、通行人から完全に死角になるポイントに立ち、胸ポケットからラークの箱とライターを取り出す。疲労なのか、寒さなのか、原因不明の手の震えが気になった。タバコを咥えて火を点けようとしたが、上手く手に力が入らない。自分の腕が自分の腕ではないような感覚、まるでマリオネットみたいだ。
 締め切り間際の中、徹夜で脚本を書いた時に味わった感覚に似ていた。それだけ集中して、パソコンと向き合っていたと気付く。簡単に火が付かないように調整された百円ライターにイライラが募る。このままタバコを吸えないのは生き地獄だ。
 なんとか火を点すことができた。さっきまでの悪戦苦闘が嘘みたいに、瞬く間に先端が燃え、ゆっくりと空へと向かう煙が漂い始める。特有の毒々しさが全身に巡っていく。貧血かと思ってしまうくらいに視界が揺れた。ヤニクラに陥るなんて、相当疲れているのだと自覚的になった。
 高層ビルのせいで見た目よりも遠くに感じる空を眺めながら、煙を吐き出す。吐息よりも濃い白、いや灰色が目の前に浮かび、そして消えていく。あと数時間も経過すれば、街は表情を変える。色が落ち始めた作業着は異物になり、代わりにスーツ姿や巷でオシャレだと評価を受ける服装を身に纏った男女が溢れ出す。そしてオフィス街特有のスタイリッシュな雰囲気が漂う。朝と夜の雰囲気が異なるのはどの場所でも常だが、この場所は歓楽街と学校と同じくらいに劇的だ。不意に女性と過ごした夜と朝の違いが脳裏に浮かんだ。
 煙を吸っては吐き出すという般化した一連の流れを何度か繰り返していると、ポケットに忍ばせたスマホが、ヴッ、と震えた。震えの短さから推測するにラインの通知だ。短くなったタバコの火を携帯灰皿の淵で消して押し込んだ。ゆっくりと地下へと向かい歩き出す。地上を徘徊する数匹のカラスの姿が目に映った。

 憔悴し切った表情を浮かべる井上の横に立ち、ぼんやりと部長の説教を聞いていると、何だか学生時代に戻ったかのような錯覚に陥る。中学時代、陸上部に所属していた頃は、昭和の根性論と平成のエビデンスを元にした科学的な理論が共存していた。殴られたことは数えるほどだし、練習や試合中に水分補給をすることもできた。しかし、部活に所属していることから発生する集団論、連帯責任論は健在だった。こうして誰かが起こしたミスについて共犯者だと言わんばかりに説教を受けることは思い出すのも億劫なくらい記憶にある。場数のせいか、無意味で儀式めいた時間を過ごすことへの抗体は、根強く身体に残っていた。
「今回は灰谷が対処してくれたから問題なかったけれど、次はないと思え」
 怒りで顔を赤くした部長は、持っていた日報を机に叩きつけて怒鳴った。激しい衝突音と耳障りで仕方がない大声は、静かな事務所に響いた。朝から元気だと感心してしまうし、立派なパワハラを無関係の職員の前で実施できる時代錯誤の行動に拍手の一つでも送ってやりたいとすら思った。
 従順なフリを演じる部員のように直立不動の姿勢のまま目だけを動かして職員の様子を伺う。誰もが下を向く中で、入社時期がほぼ一緒であり同期の位置づけにあたる笹崎は笑いを堪えていた。オレとは違うビルでオレと同じように深夜勤務をしていたとは思えないくらい疲れていなかった。そんなことを感じてしまうと、自分が大人になってしまったことを思い知る。
 そういえば、こういう奴ってクラスに一人はいたよな。他人の不幸は蜜の味ということを子供ながら知っている性格の悪い、それでいて立ち回りの上手い奴。すぐに三井の顔が浮かんだのは、オレが説教を受けている時物陰に隠れて三井が笑いを堪えていることが多かったからだろう。アイツは修学旅行で男子生徒と女子生徒が同じ部屋で話していることなどのゴシップや誰かが怒られているといった情報に敏感で、現場には高い頻度で姿を見せていた。笹崎と初対面の時に三井と同じ匂いがしたのはあながち間違いではなかったようだ。
「で、灰谷」
「はい」
「お前は何で注意しなかったんだ?」
 虚を突かれて、笑いそうになった。部長は自分の言ったことを覚えていないのだろうか。お前が「井上は前途ある若者だ。とりあえずは何も言わずに見守ってやれ」と言ったんじゃないか。喧嘩腰で言い返したくなるが必死に堪える。経験上、愚策でしかないし、余計に時間を取られる。それは勘弁してほしい。
「すみません」
 謝罪の言葉を口にしてから、静かに頭を下げる。何のために頭を下げているのか分からなくなる。頭を下げることに躊躇いなんてのはないけれど、何十、何百と頭を下げる動作を繰り返していくうちに効果や意味を失っていると感じることがある。本来であれば、頭を下げることには相応の覚悟や意思が必要なのだ。そのことをここ最近忘れかけていることに気付く。
「頭を下げとけばいいと思っているな」
 部長の声は、さっきの激しさが嘘みたいに落ち着いている。なんだか嫌な予感がした。ジャンプする前にしゃがむ動作のようだ。
「そんなんだから、お前は前職を追われるんだよ。この犯罪者が」
 パワハラの次は個人情報漏えいと名誉棄損か。今すぐ罪名を口にして、手錠でも掛けてやりたくなる。でも真実は変えることはできない。罵詈雑言を飲み込んで、喪に伏せるしかできなかった。それがひどく悔しかった。
「お疲れ様です」
 タイムカードを切る音と共に事務所に響いた陽気な声には、寝ていないなんてことを感じさせない力強さがあった。部長の目が暢気な声を吐き出した笹崎に向く。火に油を注ぐという諺が、不意に浮かんだ。
「おい、笹崎」
 怒りの矛先が笹崎に向くと事務所にいる誰もが抱いたはずだった。だが笹崎は違った。満面の笑みで口を開く。
「えっ、なんですか? 勤務も終わったし、日報も書き終えましたよ」
 あまりに能天気な笹崎の発言に驚いてしまい、思わず頭を上げた。笹崎は不思議そうな様子で事務所を一瞥する。そして何かに気付いたかのように頷き、再び口を開いた。
「灰谷さんのとこ、東和ビルでしたっけ? そこで何があったかは知りませんけど、問題なく済んだんですよね? じゃあいいじゃないですか。それに部長、ずっと今のテンションで怒ってると血管切れちゃいますよ? 高血圧、悪化しちゃいますよ?」
「なんだ、その口の利き方は?」
 怒鳴った部長の圧など気にしない笹崎は、平然と続ける。
「だから怒り過ぎは良くないでっすって、部長。オレ、部長のことを心配して言ってるんですから。なんなら気持ちを落ち着ける為にハーブティー淹れましょうか?」と言ってから笹崎は時計を一瞥してから、再び口を開いた。
「ってそんな時間なかったんだ。今日、何の日か知ってますか? って、まぁ部長は知らないか。早く行かないと開場時間に間に合わないんで。失礼します」
 笹崎は普段通りのテンションで、何もなかったかのように事務所を後にした。静まり返っていた事務所にクスクス笑いが広がる。オレを吊し上げるという見せ場に気合を入れたはずなのに、笹崎の自由奔放な言動に水を差されてしまい、バツが悪そうだ。劇的に雰囲気を変えることができる力、好きなものの為ならば、今後の事など気にしない強さが眩しかった。
「ったく、今どきの若者はこれだからダメなんだ」
 先人たちの手垢がびっしりついた常套句を呟く部長の姿は、野球部時代の監督によく似ていて、成りたくない大人像そのものだった。
 さて、どう逃げようかと思考を巡らす。サンドバックのように殴られ続けるしかないという絶望的な答えに辿り着いた時、事務所の電話が鳴った。電話の近くにいた佐藤が受話器を取る。
「お電話ありがとうございます。あっ、はい。どうもお世話になっております。えっ、藤野ですか? はい、分かりました。少々お待ちいただけますか?」
 見事なまでのテンプレート対応を繰り出した佐藤は、電話の保留ボタンを押してから、少し焦ったような感じで部長とオレの顔を確認してから言った。
「あの部長。お電話です。東和ビルの方からです」
 笹崎のおかげで緩んだ緊張感が再び事務所に漂う。部長の表情が固くなる。オレと井上の顔を鬼の形相で睨んでから、自分のデスクの電話に手を掛けた。
「お電話変わりました、部長の藤野です。どうもお世話になっております」
 さっきまでの怒りをかき消す見事な声変り。社会人マナーよろしく丁寧な口調で応対する姿は呆れるほど内弁慶。どうしようもない場所に就職してしまったなとため息が出そうになる。職が選べる身分ではないから仕方がないかと自嘲する。
「この度は、ご迷惑をお掛けしまして大変申し訳ございま、えっ、あっ、はい。そうですか。はい、はい、はい。いえいえ、当然のことですから。はい、そのようなお言葉を頂き、大変恐縮です。はい、はい、こちらこそ、よろしくお願い致します。はい、それでは失礼いたします」
 電話の途中から部長の表情が緩んでいた。それに声のトーンが上がっていたのは、見聞きしていて明白だった。何が理由かは分からないけれど、部長の変化から判断して、どうやら再度説教を受けることは無さそうだ。
「灰谷、井上、次の勤務から襟を正せよ」
 部長は上機嫌を隠しきれず、でもさっきまでの説教を引きずるように強い口調は言った。さっきまでの怒りは消えている。表情と言葉のトーンの不一致に笑いそうになるのを我慢したのは、少なからず大人になっている証明だった。

「いや、災難だったな」
 ロッカールームに入るなり、先輩の諸星から声を掛けられた。
「何年か振りに説教を受けましたよ」
 オレは苦笑しながら答え、ロッカーに手を伸ばす。いつもの指定席は空いていなかったから、危うく間違えそうになる。事務所の規模と職員の数が合っていない職場のロッカーには自分の場所は無い。オレに限らず職員全員が、空いているロッカーを探すことから仕事が始まる。職員のデスクを定期的に動かして、不正防止、クリエイティブな発想を導こうとする前向きな理由など存在しておらず、単純に社長がロッカーを買うつもりがないだけ。社長自身は社長室があり、役職を担っているクラスの職員は指定だから気にもしていなのだろうけれど、末端にいる人間としてはこの動作が面倒で仕方がない。さっきの説教を始め、不平不満が空気と同化している職場にすがるしかできない状況としては、これくらいの面倒は飲み込まないといけないのだろう。
「あの人、新人いびりが趣味だからな。とばっちり受けてる途中に戻ってきたけど、あれはいつ見ても気持ちの良いもんじゃないな」
「そうですね」
 諸星はその後も延々と愚痴をこぼしながら、退勤の準備を進めていく。オレも同じように着替えをしながら、適当な相槌を打ってやり過ごす。
「飲みにでも行こうか」なんて銃口を向けられないように慎重に言葉を選びながら。諸星と酒を飲みに行くと奢ってはくれるが、ひたすら社会、家庭、仕事の愚痴を聞かないといけない。暴言、暴力が向くことは無いけれど、心にある程度の余裕がないと辛く、家に帰った頃にはどっと疲れることは経験で知っていた。
「そういえば笹崎、やけに元気でしたね?」 
 誘われそうな雰囲気を感じ、急ハンドルで話題を変える。よく見ると諸星の目の下には真っ黒なクマができている。恐らく自分もそうだろう。昼夜逆転の生活というものは、夜勤手当、自分の時間を創り出し、人との関わりを最小限にするメリットを得る代わりに生きていくために最重要項の健康を差し出す。学生時代にやっていたコンビニや居酒屋の深夜バイトとは訳が違う。大人になってヒシヒシと感じる割の合わなさ。これからもこの生活を続けていくのかと思うと、ため息が口からこぼれそうになる。
「アイドルのライブに行くらしいぞ」
 アイドルオタクである笹崎らしい動機で思わず笑ってしまう。たったそれだけの理由で、大胆な行動に移せるバイタリティとアイドルへの熱中加減に呆れと眩しさを感じた。
「若いっていいですね」
 自然と出た本音よって、ロッカールームに沈黙が訪れた。
 三十一歳の自分、笹崎は二十六歳。五つしか変わらないのに笹崎のことを若いと捉えてしまったことは、自分が老いたことを容赦なく突きつける。たった五年しか違わないのに、その五年には恐ろしいほどに差があることを伝えるかのような自分の発言だったからか、機能していなかった神経が過敏に反応する。ここで働く前は十個下くらいの若者を相手に仕事をしていた時には感じることは無かったのに。寝不足は、大敵だ。
「だな」
「それじゃ、お勤めに行きますかな」
 諸星はおどけたトーンで呟いて、ロッカーのカギを閉めた。
「ムショでも行くみたいな口調ですね」
「似たようなもんだろ?」
 そう言い残した諸星は、そそくさと事務所から出ていった。彼の背中を見送って、自分の名前を記したタイムカードを切る。ガチャ、と音を立てて刻まれた時刻。自分が働いたことを示す唯一の証明書。生きる為の金銭は、この薄っぺらい厚紙が握っていると思うと、腹立たしい。
 帰り支度を整えてから、足音を立てないようにして事務所を後にする。雑居ビルから外に出ると、朝日が街を照らしている。闇夜に生きる自分を否定しているような光が、自然と背中を小さくさせた。最近、下を向いてばかりだ。
 気持ちを切り替えるように顔を上げる。ビル街から見える青い空を眺めていると、欠伸が出た。目に入った自動販売機で缶コーヒーを買い、見慣れつつある街を進む。細い路地から大通りに出ると、急にテレビなどのマスメディアによって作られた都会像が顔を出す。高層ビル街を歩くスーツ姿の男女。誰もが同じような格好をしている。その統一性に抗うかのように可能な限りにオシャレをして、大都会東京に負けないように個性を主張している。恐らく何気なく身に付けているアイテムは、有名なブランドものなのだろう。無言のアピール合戦を横目に駅へと向かう。オシャレなオフィス街に相応しくない色が剥げた作業着を着る姿は、パーティー会場に飲食物を納品する一端の業者みたいだった。

文責 朝比奈ケイスケ

余波【ショート・ショート74】

 同じ道を歩いている。いつもそうだ。オレは変われないのか?
弱々しく呟いても、声はすぐに消える。だから、いつも同じ姿がくっきりと脳裏に浮かんでしまう。反射的に目を瞑ってしまう。でも結果はいつも同じ、視界が奪われて真っ暗になるだけだった。気持ちを紛らわせてる為に覚えて数年が経つ青春の産物を取り出して火を付けて、息を吐き出す。先端はオレンジ色に着色され、ホタルのようにささやかな明かりを灯し、同時に浮かんでいる紫煙。ゆらゆらと上へ上へと登り、いつの間にか視界から消えてしまう。それ様を見つめていると、なんだか全ての出来事が嘘のようにすら思えてしまう。だからこそ、全てが夢の中の脚本であって、そこに溺れる姿はどうしょうもなく愚か者だ。頭の片隅で何かの警告で在ってほしいと半ば本気で、思考を進める。無意味だと知りながら。繰り返した行動は習慣として、根付いていることに自覚的になる。
 住み慣れた街並み、やけに静かだ。一本道の両側には住宅が立ち並ぶ。その中を歩いていると、お前には家族も仲間もいないんだと突き付けられているようで、なんだか弾かれた存在に感じてしまう。頼れる場所がないからこそ、 頼れる何かが欲しいと願って、模索していた。隠したい本質は悪戯な顔をして不意にやってきて、そして蟻地獄によく似た絶望へと繋がる同じ道へと誘ってくる。
 夕食後にコンビニへと買い物に行く時に浮かんだ今の感情を描写したような文章。詩人にでも成りたいのか、はたまた表現者として存在を提示したいのか。その根本は見えないままだけど、言葉にして残したいというちっぽけな欲求だけが脳内を支配しては、吐き出すように踊る。考えれば考える程に深みに嵌まる厄介な存在と言うことは、重々、承知しているのに未だに止めることが出来ない。独りになった弊害としてかつての残り火が、より厄介な方向性と密度を生み出して、歪んだ価値観を生み出すことを最近になって知った。いや、正確には目の前に現れては暴れることが増えた。色々な要因が重なった一つの結果。でも制御できたのは昔の話。今は、どんどん誇大化していく。人間が生み出した経済みたいに無機質なのに意志を持った化け物になったかのように。
 耳に突っ込んだイヤホンからは、青い大学時代の記憶とリンクする音楽が鳴り響いており、何度も通った後悔という傷口にを再び塩を塗る。これが意識的であるから救いようがないと自嘲する。いつからか精神的な痛みには疎くなったけれどもその反面で、かつてできた傷口を塞いでいた瘡蓋が取れるような、好奇心に似たものが溢れている。
「今、見えている景色も好奇心に溢れていれば救われるのに」
 そんな風に囁く優しい声が聞こえた気がした。

 学生時代から住んでいる部屋は、時間が止まっているかのように変わらないまま。ただ、いつも誰かが騒いで賑やかだった雰囲気が消えて、代わりに本棚の上に置かれたスーツ姿と晴れ着姿が入り混じった切なくも忘れられない一枚の写真が増えてたこととハンガーラックに仕事用のスーツが掛けられている以外は。
 ネクタイを緩めながら、リモコンを取り、テレビを起動させる。画面にはいかにも金がかかっていそうな大がかりなステージで歌っている3ピースバンドが映った。一瞬、かつての友人の姿が浮かんだ。
「アイツもステージでは輝いていたな」と呟きならが、ネクタイをベットに放り投げた。そのままベッドにダイブしたい気持ちを我慢して、冷蔵庫から缶ビールを取り出して、人差し指をプルトップひっかけて開けた。炭酸が抜ける音と共に白い泡が小さな口から溢れそうになる。瞬時に唇を近づけて、泡の洪水を阻止した。
 半分以上が無くなり軽くなった缶ビールをテーブルの上に置き、パソコンの電源を入れる。押されることを待っていたように起動した画面は見慣れたアイコンを表示される。同時に耳障りなファンの音が鳴り響く。もう何百回と打ち込んだパスワードを打ち込むと、いつかの夏休みにカメラで撮った風景をバックにアイコンが散らばるディスプレイが表示された。青く着色された「e」のアイコンを
クリックする。数秒で世界的に有名であり、シンプルを突き通す質素な検索エンジンが 映し出された。検索窓に『ダブル・バインド』と打ち込み、エンターキーを押す。すぐに多くの候補が探し出された。
 検索内容を確認していく。『ダブル・バインド』という理論で、誰かが説いた小難しい造語とWikipediaは説明していた。その他候補をクリックする。日本のバンドという説明が表示された。詳細を綴っている画面をスクロールしながら一つひとつの文章を読み進めていく。欲しい情報は、掴めなかった。そのままツールバーに表示されたYoutubeをクリックする。トップページの検索窓に再び
『ダブル・バインド』と打ち込み、エンターキーを押した。すると、幾つかの動画が表示される。 一番上に挙がったPVであろう動画をクリックし、 映像が流れるのを待った。最近、流行のユーチューバーがメインキャラクターになっているCMが流れ始めた。スキップせずCMをぼんやりと見ながら、缶ビールを口に運びながら待った。
 PVが始まり、歌声が聞こ始めると何だか不思議な感覚に陥った。会社の同僚に勧められて、初めて知ったはずのバンドなのに聞いたことのある声が耳に届く。懐かしさと共に生まれて初めて行ったライブハウスの記憶が脳裏に浮かんだ。

 ライブハウスというのは、もっと広いものだと思っていた。
 受付でチケットとドリンク代を支払い、階段を下った先にある客席に足を踏み入れる。50人が入れば、いっぱいになる位の狭い空間。描いた会場とは異なる空間に正直戸惑った。
 4つほどの一本足のテーブルが置かれた先に申し訳ない程度の段差があり、幕が下がっている。恐らく、それがステージであることを理解するのには時間が掛かった。その幕を見つめていると、幕の向こうではスポットライトが当たるのを
待っている楽器や人がいるのだろうと思った。
 ステージから視線を外して、周囲に目を向ける。このライブハウスのキャパ限界にも達していない30名くらいの人たちがテーブルを囲み、手にスマホやらコップを持ちながら談笑していた。それぞれが、ライブが始まるのを待っている様子を眺めた。
 初めて来る場所と言うこともあり、どうしていいのか分からなくて、最終的には人が一番少ない壁に背を預け、見覚えのある金髪頭を探した。
 大学生のライブイベントというが影響しているのか、予想以上に金髪が多くて、驚いた。でもすぐに探していた金髪頭を見つけた。向こうもオレに気付いたようで右手を挙げている、満面の笑みで。そして次の瞬間には、こちらに向かって歩き出しているのが分かった。
「久し振りだな、ユキオ」
  声が聞こえる程度の距離のところでオレから、声を掛ける。
「二週間前に飲んだだろ、新宿で」
 ユキオは笑顔のまま、ツッコんでくる。
「じゃあ、なんて言えばよかった?」
 本心ではない冷たいトーンで問う。ユキオは、そんなオレの声のトーンなどお構いなしに「レンが本当に来るなんて、帰りは雨か?」なんて風に茶化してくる。絶対、ユキオには言わないけれど心地が良い。
「うるせぇよ。晴れ男」と返しながら、飲んで以降の会わなかった二週間という短い期間で起きた出来事を簡潔に伝えながら、お互いの近況を確認し合った。
「ってか、完全アウェーなんだけど?」
 オレは周りを見ながら、呟く。
「仕方がねぇよ、大学のサークルだぜ?」
「いや、そうだけど。外部はオレだけか?」
「全員把握してないけど、名簿的には他にもいた。でも少数派は確実」
「だよな。ここの雰囲気、シャボン玉みたいに軽すぎだわ」とこぼす。皮肉が聞こえたのか、周辺に居た数名の人間がこちらをチラリと牽制するように一瞬だけ見て、すぐに視線が戻るのが確認できた。やっぱ軽い、と今度は声に出さないように、頭の中で留める。
「お目当ては、2番目」
 ユキオは言った。オレは黙って頷く。そして、ユキオから受け付けでもらった
ライブハウスの名前が入ったピックの使い道を教えてもらう。ろくに説明をしない受付には、何か意味があるのあろうかと疑問符を抱きながら、逆側にあるバーカウンターへと二人で向かった。ユキオは、すでに3杯ということらしく、財布から現金で支払い筒状のグラスのジントニックを手にする。それに倣おうと思っていたが、飲み口に刺さる下手くそに切られたライムに飲み気が薄れて、小瓶のビールをピックと交換した。
 ユキオがライムを絞るのを待ってから乾杯をした。そして、それぞれが手に持った酒を飲み始めた。
「ユキオ」とユキオはオレの知らない大学の仲間に呼ばれた。面倒だなと言わんばかりに頭を掻きながら、「あとでな」と言い残して男女が5人で談笑しているグループに 入っていくのをユキオの背中を見送る。
 再び1人でも過ごせそうな場所を探す。辿り着いたのは、ステージから一番遠いスペースだった。飲み慣れないビールを片手に客席を眺めた。

 19歳のボクやユキオに簡単に酒を出す程度の緩く、そして他大学の主催という空間は、正直、居心地が悪い。そもそも、場違いなのが理由だろうけれど。試験に受かっていれば、こんなアウェーな感覚を抱くことはなかっただろうな。と思った。 高校3年の冬に受けたセンター試験で、ユキオは見事に法徳大学に合格した。ボクともう一人の友人であるタケルは見事に落ちた。でもセンター試験後に予定されていた一般入試でタケルは合格した。オレは、ここでも見事に落ちた。
二人の学部は違うけれども同じ大学で過ごすことができている。全く知らない場所に友人がいるのは心強いことをオレは知っていた。そういう関係性は、のちのち重要な意味を持つように思っていたし、何より羨ましかった。
 センター試験と法徳大学の一般入試にも落ちたオレはその後の入試も倒れたドミノのように受験した大学は軒並み落ちた。浪人覚悟で藁をも掴む思いで受けた二次試験で東京の大学になんとか滑り込めた。そうして中・高と一緒に進学していた友人と進路が交わることない道を進むことになった。それから三ヶ月が経過して、ユキオから連絡が入った。法徳大学軽音サークルのライブにタケルが出るというのだ。行かない選択肢よりも好奇心が勝って、居心地最悪の場所にいる。
 溜息をこぼしそうになるのが分かり、吸い慣れないタバコのパックを取り出す。 バーカウンターのスタッフが親切で、わざわざ喫煙可と教えてくれたことは
ラッキーだった。インディアンのイラストが描かれた黄色いソフトパックから一本取り出し、口にくわえて、火を付ける。少しは慣れつつある行為だが、やっぱり、まだ少しぎこちない気がする。吐き出す煙が目に入ってしまい思わず、目を瞑ってしまった。数秒だったけれども、その数秒の間にステージを隠していた幕が上がり始めた。

 ステージの上にはハットを被った4人の姿が目に入る。まだ、照明は薄暗いままだ。恐らく演出だろうと思ったけれど、これなら、イントロが長い曲で演奏している間に幕が上がっていき、Aメロの時に一気に照明を当てて、存在を表したほうがよいのではないか? なんてことを考えてしまった。
 ギターの音が鳴る、そして始まる演奏。ボーカルが歌い始めた。知ってるアニソンだったが、音楽をやっていないオレでも分かるくらい音程を見事に外した入りだった。それに笑いがこぼれる。失笑ではなかった。出だしに音を外すのが恐らくこのバンドのボーカルの個性のような物なのだろうし、観客もそれを承知しており、むしろ求めているように見えた。気持ち悪い。
 どうやらライブハウス同様にイメージが違ってしまったようだ。その後、中学時代に流行ったドラマの主題歌など、有名な曲のカバーが数曲続いた。演奏自体は正直微妙だったけれど、 観客を盛り上げるには申し分のない内容だった。
 最後の曲の前、ボーカルがMCをしている時に「俺らは、盛り上げる為にバンドをしている」とかなり寒いことを言っていて、盛り上がる観客に気持ち悪さは加速していく。吐き気を覚えたのはタバコのせいでもビールのせいでもなかった。
 これは、ライブイベントと名前を借りた自己顕示欲を吐き出す場所だ。今すぐにでも去りたいという欲求が芽生える。これが内輪と外野の違いかと状況を整理して、盛り上がる雰囲気とは温度差が異なっていることを認識する。そして条件反射で半分くらい残ったビールを一気に飲んだ。最後の曲が終わると安堵感が巡った。どうやら、こういう場面にそぐわない人間性だと突きつけられたようで、思わず苦笑した。
 気持ち悪さを飲み込もうと思い、バーカウンターで飲み気すら湧かなかったジントニックを購入して、元の場所に戻った。目だけでユキオを探したが、見つからなかった。もしかしたら幸いかもしれない。多分、この状況であったら、胸に溜まる嫌悪感を一気に吐き出しそうな感覚があったから。
 帰る選択肢もあった。でも帰らなかった。このお遊戯会のような場所でタケルがどういう姿で音楽を演奏するのかに興味が生まれていた。5分も経たない間に、再び幕が上がっていく。暗闇に、2人の人影が見えた。幕が上がり切ると同時にギターの音が聞こえる。照明が2人を照らし出す。ギターを持ったタケルが見えた。タケルの顔は、やけに無表情で、それでいてどこか苛立っているようにも見える表情を浮かべている。いつも見えていた姿とは異なった。対照的に隣のギターリストは笑顔だ。正負のコントラストがはっきりしている。にしても違和感は拭えなかった。タケルの相棒にしてはキャラクターが違いすぎるし、タケルが大人しすぎる。オレは胸に抱いた違和感の正体を探すことにした。音楽は鳴り響き続ける。1曲目のカバー曲が終わると、違和感の正体を掴めた。タケルはギタリストより数歩、後ろにいること。そして一言も歌わなかったこと。そんな感じなのに何もなかったように2曲目に入っていく。気持ち悪さは症状にすら出てきそうで咳き込んだ。気付けばタバコに火を点けていた。無意識でタバコを吸っていることに驚いて、戸惑った。
 オレと同じ違和感をユキオは感じただろうか?
 今、タケルは何を思っているのだろうか?
 色々な疑問符が浮かんで、脳内を支配する。2曲目が終わると、タケルではないギターを持った男が話し始めた。
「今日はありがとうございます。俺らの音楽を聴きに来てくれて!!」
 テンションの高まりを止められないようだ。耳障りだ、黙れと本気で思った。
 その言葉に応えるようにイエーイと声が聞こえた。うざい。思わず、チッ、と舌打ちをした。 そしてステージに背を向けて出口に繋がる階段を目指して歩き始めていた。すると、右手が誰かに掴まれる。
「なんだよ」と苛立った声を発すると、そこには固い表情をしたユキオが居た。
何も言わないユキオは掴んだ手を離さない。オレは掴んだ手を外そうとするが、む力が強くなる。
「帰んなよ」というユキオの声が耳に届く。
「なんだよ、ユキオ」
「これからがおもし・・・」
ユキオの声を遮断するように ギターの音が狭い空間に響いた。オレの視線は、ユキオからステージに向いていた。さっきまで後ろにいたはずのタケルがギタリストよりも前に出ていて、ステージの真ん中に立っていた。何かが起きる気がした、少し心拍数が高まる。
「どうした、タケル?」という戸惑った男の声がスピーカーを通して聞こえる。
 タケルの表情は、無表情から怒ったような表情に変わっているのが、分かった。ステージから目が離せない。そう思った。
 タケルは無言のまま、さっきまでの手を抜いていたと言わんばかりの勢いで弦を弾いて音楽を奏でた。楽しいという印象よりも怒りと切なさを感じさせる。
タケルの動きに対してざわざわしていたが、少しずつ客席が静かになりギターの音になる。何も声を発さないでギターを弾くタケルの姿に恐怖を感じた。迫ってくる恐怖だ。
どれくらいの時間が経ったか分からないけれど、浮かれていたライブハウスの雰囲気をこれでもかと、ぶっ壊した。でも、観客は何も言わない、言えないのだろう。完全に空間をジャックしたタケルの目は何かを訴えている。そんな目をしていた。
隣にいた男は、タケルの音楽に飲まれたようで、茫然とギターを持ったまま突っ立ている。不意打ちを食らう人を見事に表現している滑稽さだった。
 ギターを弾き終えたタケルは黙ったまま、ニヒルな笑みをしながら下手へと向かう。そうして姿を消した。一瞬の花火のようだ。
「面白かっただろ?」と笑みが隠しきれないユキオは、オレに向かって、そう言った。オレは小さく笑いながら頷いた時に右手が拳を作っているのに気付いた。
「確かに、面白かったよ」と後から付け加える。
 タケルの音楽に圧倒されて、静まっていた客席から少しずつ、拍手が聞こえ始めていた。

文責 朝比奈ケイスケ

選択【ショート・ショート73】

 テレビを眺めていると感染症の猛威について報道されている。日常に溶け込んだ報道、もう般化して感情が麻痺している。ソファーに腰掛けながらスマホのカレンダーアプリを開き、予定を確認する。クリスマス、大晦日、正月三が日。年末のイベントについて、本気で頭を悩ませる未来は、もっと先のことだと思っていた。けれど現実は悠長に構えていた僕をあざ笑うかのように、目先に突き付ける。考えることが面倒になり、テレビを消して、外出の準備をする。
 例年の十一月では考えられないような薄着、それでも震えるようなことはないことに感謝しながら、ゆっくりと玄関のドアノブを下げた。
 外に出ると今にも雨が降り落ちそうな曇天だった。駐輪場に置いたロードバイクの場所まで歩く。コンクリートに落ちる紅葉した葉を眺めた。今は秋なのか、冬なのか。
 ボロボロになった青のバーテープを握り、見慣れた走り出す。平日の午前中、人は少ないが夜とは異なる層の人が歩いている。大きい道路に出れば、呆れるほどの車が走っている。まるで何も起きていないと主張するように。
 時より信号に捕まりながらも進んでいく国道一号線。このまま進み続ければどこに行けるのだろうか? ふと抱く疑問は積み上げた知識であっさりと答えに辿り着く。東京方面に行けば日本橋だ。でも西に向かったら? 答えは出なかった。きっと大阪か京都辺りまでは行けるのだろうなと漠然と思った。なんだか気持ち悪い。信号待ちでスマホを見たいという欲に溺れそうになる。ポケットに入る世界と繋がる窓がいかに必需品へと変化しているのかを思い知る。指先を動かせばおおよそのことが分かる現代。刺激は過剰化している気がした。そんなことはネットを覗けば、すぐに分かることだった。だけど、その全ては手応えも肌触りもない。無機質で温度もない文字の羅列か、レンズ越しの画だから、当たり前なのかもしれない。
「オレ、何か自分の五感で感じた刺激ってあったか?」
 ペダルを規則正しく回す。速度が上がっていき、景色の見え方も変わっていく。吹き付ける追い風が見えない壁となり、進行を制止しようとする。ロードバイクに乗っているだけは五感に正直になれることを、文字通り肌で感じるように。
 このままどこかに行きたい、まだ見ぬ世界を自分の眼で確認したいという衝動が芽生える。立ち漕ぎに切り替えようとした時、ポケットのスマホが震えた。自分のではなく、業務用のスマホが。胸で生まれた熱が冷めていく、そして冷静になっていくのを感じる。
 目に見えた赤信号で右折して、さっきまで走った道を折り返す。目には見えない未来を開拓するよりも、今、目に映る現実を放棄できるほど器用な人間じゃないことを自覚しながら、立ち漕ぎで駆けた。夕暮れが眩しくて、綺麗だった。
 どうやら身近な美しさを僕は見逃していたみたいだ。

文責 朝比奈ケイスケ

帰り道【ショート・ショート72】

 大人になるってどういうことだろうか?
 自転車を漕いで進む帰り道、そんなことを抱いた。子供の頃に描いたり、見ていた大人の姿とは乖離した自分。何が違うのだろうか。足から伝わる力を推進力へと変えてスムーズに動く手入れの行き届いたペダル。でも頭の中は錆び付いて、耳障りな音が響くチェーンのようだ。
 一番に浮かんだのは外的な要因だった。ステレオタイプと笑われるかもしれないけれど、大人はスーツを着ているイメージが強い。学生時代、満員電車には疲れた顔したスーツ姿が溢れている空間を見続けてきたし、ドラマなどのフィクションの世界でも見た記憶がある。でも時代は変わって、スーツじゃない人間でも大人として仕事をしている。現に自分自身もラフな格好で職場までの往復をしているのだ。
 少し先の信号が黄色から赤に変わった。ペダルを回す力を緩めて、慣性の法則に頼る。静かな夜に響く気持ちよいラチェット音に耳を傾けながら、横を過ぎ去る乗用車を一瞥した。無表情の中年男性が目に入る。僕を抜き去ってすぐにブレーキランプが赤く光った。暗い夜に映える赤に対して、自分の持ち物が子供じみているのかと頭に過る。
 童顔な顔と体型、格好、乗り物も、もっと言えば趣味や聞いている音楽も学生時代からさして変化がないことに気付いたからだ。大人になったと呼ばれる歳になっても公私問わずユニクロや無印商品の低価格のTシャツは着ているし、腕に巻いた時計は学生時代から使い続けているG-SHOCKだ。乗り物もママチャリからシティバイクへと変化しているけれど、自転車には変わりが無い。趣味だって変わってない。大人になればゴルフでもやるのかなと思っていたけれど、その気配は全くない。音楽も未だにロックバンドを聞いているし、むしろ若者のトレンドもしっかりと確認している。むしろ真っ直ぐな歌詞の音楽に学生時代よりも惹かれている節すらある。
 信号が青になり、再びペダルを回す。次第に速度が上がり、顔に当たる冷たい風の勢いも強くなっていく。見えない壁にぶつかっているように、露出した部分だけが冷えていくのを感じる。重ね着で覆われている部分には熱がこもっているけれども、少しずつ頭の中も落ち着きを取り戻そうとしていた。
 ずっと大人になりたかった学生時代に描いた大人像は、悲しいほどに虚像だったのかもしれない。いや、そうなるための通過儀礼を悲しい程度には、見逃している気がした。未だにこんなことで悩む自分の青年具合に呆れながら、きっと本当の意味で大人になるまでには途方に暮れる時間が掛かるように思えて、ため息が出た。冬の訪れを示すように白く着色された息を置いていき、情けない自分自身から必死に逃げるように全力でさっきよりも重たくなったようなペダルを回した。
 どうやら僕は過去に囚われすぎているのかもしれない、という核心的な答えを胸に抱きながら。

文責 朝比奈ケイスケ

休日の朝【ショート・ショート71】

 窓を閉めた部屋にも入り込む冷たい風は、冬の訪れを静かに伝えていた。普遍的な日常にも顔を出す四季。歳を重ねるごとに有り難みを感じるようになっているのは、きっとおじさんになっている証拠だ。天窓から引っ張り出した布団と毛布に包まりながら、眠気眼で天井を見つめる。朝日でしっかりと分かるクリーム色。もう数えるのも嫌になるくらいに見つめた天井は、代わり映えのない僕の姿を投影しているようだった。
 手を伸ばしてスマホを掴む。相変わらず誰からの連絡は無い。人生においての必要性で言えば、きっと誰にとって僕という存在は大したものではないのだろう。正直なことを吐露すれば、欲する部分はある。でも社交的な人間ではないから、連絡が無くてもやりくりが出来る程度には耐性が出来ている。褒めるべきか悲しむべきかは、この際気にしないでおこうと思い飲み込んだ。
 Yahoo!のトップページを開き、話題の情報を眺めていく。変わらない日常を過ごしていても、自分の知っている範囲外の世界では毎日何かが起きている。でも眺めているうちに、全ての出来事の対象物が変わっているだけなのだと思い知る。ここ最近、メディアを賑わす不倫騒動や不祥事を見ていると余計にそんなことを感じる。誤字脱字が目立つ辛辣なコメントに目を通す。まるで見世物小屋だ。不幸は人間の根源で求めているのだろうか。それとも暇を潰すためか、自分よりも不幸な人間を見て、安堵感を得たいのか。どちらにしろ、普段聞かないような文言が活きの良い魚のように舞っている惨状は見るに堪えなかった。
 ブルーライトと朝日の光で次第に覚醒していることを自覚しながら、何も予定のない休日の過ごし方をぼんやりと描き始める。必要必至な出来事なんて数えるほどで、大半のことは時間を空き時間だ。テレビでよく話されるドラマの待ち時間によく似ている。時間を持て余していることに対して、埋めるほどの術と熱意がない。なんだかしょうもない自分の内面を浮き彫りにされているようだ。
「このまま寝ていたい」
 誰に言う訳でもない独り言が部屋に浮く。シャボン玉のような脆い言葉。消して見えることはないけれども。眠ろうと試みるも夢の世界には誘われなかったこともあり、ため息交じりにベッドから起き上がり、素足でフローリングに触れる。冷たい。その触覚が身体を動かそうとしていることを自覚させる。
 一歩一歩、冷たさを噛み締めながら台所に向かう。近いうちにスリッパを購入することを決め込んで。シンクのカランを動かして、蛇口から水柱を作り出す。給湯器が働き始めて次第に湯気が立ち上る。人肌よりも温かなお湯で顔を洗い、歯を磨いた。習慣は思考停止していようとも機能して、現時点で最適とされた行動を導くのだろうなと思った。
 朝の習慣を終えるとすっかり目が覚めた。一人がけのソファーに腰掛けて、冷蔵庫から取り出した飲みかけのカフェオレを口に含む。冷たさと甘さが共存した感覚が口の中に広がる。マスクが必需品になって、外に出ることに対して、幾ばくかの危機感を抱くようにならなければ、きっとどこかに出かけていたのだろうな。リモコンの中で、一際目立つ赤い電源ボタンを押して、テレビを起動させる。すぐに映し出される映像を見つめながら、何もやることのない贅沢であり虚しい休日を過ごすことを噛み締める。
「まるで消化試合だな」
 消極的な言葉を反芻しながら、今日やるべき数少ない必要必至なことを挙げていく。どう抗ってみても、やはり午前中には終わってしまう。でもやらないことには面倒なことになることを経験則で知っているからこそ、洗濯カゴに溜め込んだ衣類について考えた。
「あぁ、めんどくせー」
 重たい腰を上げて、脱衣所に向かう。洗濯カゴに入った三日分の衣類を洗濯機に入れる。用法用量を守るように集中して洗剤を計って、洗濯機に回し入れた。スタートボタンを押すと同時に音を立てる洗濯機、もう何十何百と聞いた騒音に蓋をするように、脱衣所の扉を閉めた。音量が小さくなったとはいえ、聞こえる起動音。かき消すようにテレビのボリュームを上げる。最近になって見る機会が増えた芸能人の当たり障りのないコメントが部屋で大きくなっていく。その芸能人の声には聞き覚えがあったけれど、なかなか思い出せない。記憶を辿りながら理由を探す。同時進行で値上がりして、買うことが億劫になり始めたセブンスターに火を点す。吐き出す煙を見つめながら、また面倒なことを思い出してしまった。
 寝癖で逆立った髪の毛を掻きながら、仕事用のカバンを手に取る。社会人になった時から使っているカバンには、思ったよりも汚れと傷が目立った。でもどうでもよかった。営業職ではないことの利点なのかもしれない。手指の脂で塗装が剥げ始めているチャックを動かして口を開く。仕分けしたクリアファイルの束から、青い色したファイルを取り出す。給与明細と年末調整、保険の書類が入ったファイルだ。未記入であったことと提出日が迫っていることを思い出したのだ。書類に目を通しながら、毎年変わる細かい記入方法にため息が出た。近くにあったボールペンで必要事項を記入していく。もうこれで十回目くらいの記入だろうか。慣れた手つきで書き進めていく。
 独身だからか慣れたからか記入はあっという間に終える。あまりにも呆気なく、そして淡泊に。全て書き終えた後、記入漏れやミスの確認をするためにもう一度、書類に目を通した。十年前までは扶養されていた。こんな書類も書く機会はなかった。でも形式上、独り立ちしたとされることで扶養ではなくなった。自分のために生きている。嬉しかったのは、もう遠い昔。今では自分のために生きていると強がりを口にしながら、自分ではなく、社会やいつ消えるか分からない会社と社会の為に生きている。顔も名前も知らない誰かのために税金を納める人生。そのおまけで自分のことに使える金が少しだけある人生。面白みのない冴えない人生だなと笑いたくなる。そして悲しさが胸を染めていく。
 誰かに必要とされる理由が税金と人口維持。
 きっと扶養することのない甲斐性なしの自分の愚かさに呆れながら、ゆっくりと書類を専用の封筒に入れた。
 テレビからは相変わらず不倫と不祥事についてのコメントが流れている。不要な情報を垂れ流しながら、扶養できない自分の存在をあざ笑うかのように。

 文責 朝比奈ケイスケ

不用意な一言【ショート・ショート70】

 風に含まれる冷たさには冬の匂いが紛れている。夜が来るのが早くなり、通勤通路の住宅街の外灯も合わせて点灯するのが早い。ひどく寒がりの僕には苦手な季節がやってきた。まだ吐息も白くならない季節の中間地点を歩きながら、今年も残り少ないことに自覚的になる。
 コンビニで買ったカフェオレで暖を取りながら歩いていると、幾分感傷に浸る。歳を取ったと自虐的に笑ってみても、年齢ほどの深さが皆無だからこそ、余計に虚しくなる。押しているロードバイクがなんだか重たく感じた。
「今日はありがとう」
 そんな僕を現実に戻したのは、横を歩く同僚の声だった。スーツの上にコートを羽織い、マフラーを首元に巻いている自分とは同じ季節にいるとは思えない秋のファッションを着こなす君は、感謝の意をい表情に出しながら訊いた。君も僕と同じように自転車を押している。街乗り用のシティバイクだ。
「そんな大したことしてないよ」
「私だけだったら直せなかったし、何より手が真っ黒だよ」
 僕はその言葉で右手を確認する。確かに夜でも分かるくらい手が黒くなった。

 帰宅途中、君に声を掛けたのは、速度の出せそうな国道なのにも関わらず、綺麗に整備されたシティバイクを押していたからだ。別に声を掛ける必要性などはなかった。でも気になる相手が目の前に居れば、声を掛けたくなるのは男性の性のせいだろう。それに今日は満月。少しはらしくないことをしようと背伸びをした結果だった。僕の顔を見て開口一番「パンク直せる?」と訊かれた時は面食らったけれど、君の頼みならば断る理由はなかったし、幸い、自転車に飲め込んだ時期に身に付けたスキルがあった。
「簡単なパンクくらいなら」
「じゃあ、お願いしていい?」
 僕らは目に入ったコンビニの駐車場に向かい、歩き出した。5分も満たない僅かな時間で事の顛末を確認した。どうやら道の段差を通ってしまったようだ。しかも昨日タイヤの空気圧を少し多めに入れたと早口でしゃべる君の声は、新鮮だった。トラブル自体そこらへんに転がっている路傍の石のような自転車トラブルだ。視界が制限される夜には多いし、何度か僕も同じトラブルに出会ったことがあった。
 コンビニに着き、明かりが差し込む駐輪場で、君のシティバイクを確認する。見た目でも分かるくらいに空気の抜けたマヌケな姿をしたタイヤに触れる。どうやらガラスの破片などの鋭利な物を踏んだ様子はない。
「換えのチューブ持ってる?」
「持ってないな。いつも修理するときは自転車屋さんに行っちゃうから」
「そうだよね、それが一番正確だもんな」
 僕は背負っていたカバンを下ろして、中身を確認する。パンク用に持ち合わせているチューブとコンパクトな空気入れを取り出した。
「多分、サイズは合うはずだから10分もかからないうちに直せるよ。寒いからコンビニの中に入っててもいいよ」
 マフラーを外し、スーツの上着を自分のロードバイクのサドルの上に置く。ワイシャツ姿ではやっぱり肌寒い。でも作業効率と汚れる可能性を踏まえて、袖を捲る。そしてシティバイクを逆さにした。サドルとハンドルを支点にした姿は、僕にとっては見慣れた光景だったけれど、君は心配そうな表情を浮かべていた。でも何も言わずに作業を始める姿を確認してから、僕の言う通りにコンビニの店内へと足を運んだ。その後ろ姿を見つめながら、ひとつ深呼吸をする。安堵の深呼吸だ。君に見られた状態では、思うように手が進まないと思える程度には僕の恋愛偏差値は低い。中学生にも負けそうな程度に。
 誰もいない駐輪場で、店内の光だけを頼りに作業を進めていく。タイヤを外して、専用の道具を駆使して、タイヤとホイールの間にあるチューブを抜き取る。少しずつ気持ちが高揚していく。きっと、久し振りの修理だからだろう。自転車の修理や電子機器の配線などの作業は楽しいと感じるなんて一人暮らしをするまでは知らなかった。因果なもんだと思う。もし知っていたら、人生は違ったものになっていたはずだ。のめり込んだら長い性格であり、苦手だった理系の授業もちゃんと受けていたかもしれない。どうでもいいことを考えながらも、慣れた手つきで工程をこなしていく。
 宣言通り、10分も経たないうちに修理は完了した。君が両手に紙コップを持っていることに気付くのは、その時だった。

「カフェオレご馳走様です」
「カフェオレで解決するなら、安い修理代だよ」
 君は笑って、紙コップを口に近づける。緩やかな上り坂を進みながら、僕はラッキーな展開であることを本当の意味で自覚する。そしてトラブルが近づけた好機に浮かれてしまったのだろう。夜空で存在感を放つ満月を見て、思わず口が動いた。
「月が綺麗だね」
 不用意な一言だった。僕が口にした言葉に隠れた意味を君が知らないことを隣で歩く君が知らないことを願った。僕は臆病者であることを再認識して、そして妙な和訳をした夏目漱石を恨んだ。
「そうだね」
 君は普段と変わらない声で答えた。どうやら知らないらしい。或いは知っていても、隠れた意味を掬わずに、事実として受け取ったみたいだ。僕は君にバレないように胸をなで下ろして、君の横顔を盗み見る。君は僕の言葉に誘われたようで、夜空を見上げていた。丁度、坂の頂上だった。平坦な道が続くベッドタウン、きっとこの辺に君の家があるのだろうなと推測する。僕の部屋がある場所は、もっと先にある丘の入り口だから、この辺で別れるのだろうと思った。
 夜空を遮る障害物のない場所で光る満月が二人を照らす。ふとした瞬間、君の右手が僕の左手に触れた。「死んでもいいわ」と口にしながら。
 僕は混乱した。そして不用意に口にした言葉が粋な返事で肯定された。  
 どういうこと? えっ、もしかして? 次々と頭の中で疑問文が錯綜する。
 整理の追いつかない僕の姿を見て呆れたのか、君は僕の油で黒く汚れた左手を握った。もう言及するのは無粋だった。僕は君の右手を握り返した。君の手から伝わる温度を感じながら、ゆっくりと歩き始めた。そんな二人を静かに祝福するように夜空は澄んでいて、綺麗だった。

 文責 朝比奈ケイスケ

タイムトライアル【ショート・ショート69】

 目覚まし時計の音が部屋に響いた。布団から出たくない思いを抱きながら、音の鳴る方へと右手を伸ばす。スイッチの感触を感じながら、弱々しい指の力で押す。音が止まり、静まりかえる部屋。眠気眼をこすりながら、止めた時計の時刻を確認する。八時半を少し過ぎた時刻を示す二本の針を見た途端、さっきまでの弱々しさが嘘のように、身体を起こした。
「やべー」
 放った独り言に追いつこうとするように、ベッドから出る。冬の入り口に入った部屋は思っていたよりも寒い。そんなことを気にしている暇も無い。僕は普段の三倍程度の早さで着替えを済まして、昨夜に食べようとしてテーブルに置いた封の開いていない菓子パンを口に咥えながら、リュックを背負い外に出た。朝日が眩しい。まだ起きてから五分も経過していないからこそ、その光は暴力にすら感じた。
 小走りで駐輪場へと向かう。チェーンが錆びて、カゴもボロボロの高校時代からの愛車のステップを上げる。自転車を取り出してすぐにサドルに跨がり、ゆっくりとペダルを回す。アパートの駐輪場を出て、すぐの通りの状況を確認する。車やバイク、自転車、そして歩行者の確認をしてから、一気にペダルを踏んだ。耳障りな音を鳴らす。どんどん目が覚めていくのを感じる。全身が固く、起き抜けの状態にも関わらず、自分の身体に鞭を打つ。まっすぐな一本道を進みながら、道沿いに店を構える床屋の時計を一瞥する。
 八時四十三分。出勤時間まで残り十七分。
「ギリギリだな」
 静かに呟きながら、速度を上げるようにサドルから腰を上げた。立ち漕ぎの姿勢で、身体を前傾させる。冷たい風が無防備な顔に触れたことで、速度が速くなったことを自覚する。積み重ねてきた経験値は、いらない場面や不意に急に顔を出した。
 ったく、久し振りのタイムトライアルじゃねぇか、と心で毒づきながら、高校時代の朝を思い出していた。高校生の頃から朝が弱くて、起き抜けで自転車を漕いでいた。いつもギリギリで生きていたけれど、無遅刻無欠席の三年間だった。そして毎朝のタイムトライアルは生きていることを体感できる数少ない機会だった。社会人になってからは歳を取ったせいなのか、朝、寝坊することはなくなった。代わりに十分前には目的地にいることが当たり前になった。それなのに、今日は寝坊した。不思議な違和感を抱いていることに自覚的になったとき、目の前の信号が赤になった。条件反射で両手を握る。チェーンよりも甲高い錆びたブレーキ音が聴覚を刺激して、そして道中に広がった。でも誰も気にしない。そんなもんだ、社会なんて。
僕の前を過ぎ去る車の窓に自分の姿が映る。跳ねた寝癖は、自分の状態や体調とは裏腹に、元気だった。滑稽な状況に笑いが込み上げる。でも押さえ込む。ブレーキ音のように誰も気にしないなんてことはないからだ。きっと変人か何かに誰かの目には映るだろう。ブレーキ音と自虐的な笑い。音声という共通点があるのに、物か人間かで見方は大きく変化を生む。自由なんてないように思えた。多分、自由に見えるものも、きっと不自由さを孕んでいるのだろうな。憂鬱な朝、まだ冴えてない頭は本質を無防備にさせる。整えなきゃ、まっとうな人間になるために。
 信号が青に変わった。僕は無表情でペダルを回した。マヌケな音を全身に背負って。誰かの目を気にして怯えることで得る心地悪い生きた感覚よりも高校時代のように純粋に生きていると体感できる機会が欲しいと思った。切に、強く思った。そしてそんな自分を振り切るように、全力でペダルを回した。何かかか逃げるように。ただ、目的地は職場だ。何かから逃げようとしているのに、その先は労働という逃げられない義務だ。あの頃は教育であり、目的地は学校だった。おおよそズレていないのに、印象は大きく違う。改めて、成りたくない大人になっちまったなとため息をこぼした。
 職場の外に設置された時計は八時五十五分を示していた。間に合ったと思った。でも扉は閉まったままで、電気は付いていない。その時、僕は気付いたんだ。今日が定休日の土曜日であること、そして、自由よりも習慣と義務に従順だったことに。

文責 朝比奈ケイスケ