紫煙【ショート・ショート62】

 敷地の端に追いやられた喫煙所。灰皿も撤廃され、今はボロボロになったベンチが二つ並んでいるだけの空間に立ち上る紫煙を見つめながら、ピーマンみたいな会議で挙がった話題を思い浮かべた。
「五年目を対象とした研修の内容は何が良いですかね? 皆さんは五年目の時何を思っていましたか?」
 僕にとってのその時期は四年前、僕は右も左も分からない場所で一人で仕事をしていた。引き継ぎなんて名ばかりで本質を抜け落ちた資料を読み込んで、現場の現状を鑑みてため息をこぼしていた頃だ。あの時期には仕事以外の出来事も多すぎて、振り返ると激動であり、ある意味、転機だったのかもしれなかった。
 座り心地の悪いベンチに腰掛けて、公用車が並ぶ駐車場に吹く風は湿気が含んでいて気持ちが悪い。ようやく夜は暑さは遠のき始めたのに、今日は熱帯夜の様相を呈している。
 ため息を吐き出すように、口からタバコの煙を吐き出す。夜空に溶け込んだ煙は、二度と戻らない時間に目には映った。
「何してんのさ?」
 不意に声を掛けられた。僕は声の聞こえた方向に視線を移した。そこには懐かしい立ち姿があった。その顔は子供ぽくって、それでいて大人っぽさが共存していた。
「会議終わりの一服」
「あっ、そう。横いい?」
 そんな風に問いかけながら、僕が返事する前に横に座るあたり変わっていない。
「返事してないけど?」
「どうせ、良いって言うでしょ?」
 彼女は手に持っていた飲みかけのペットボトルをベンチに置き、スマホを弄り始めた。
「まぁ言ったね」
「時短、時短」
「お前こそ、何してんの? タバコでも吸い始めたか?」
「自販機で飲み物買おうとした時に、この世の終わりみたいな顔した奴が歩いてたからさ。ちょっと懐かしくなってね」
「この世の終わりみたいな顔してる奴なんか、その辺にうようよいるだろ?」
「そういうとこ、変わってないな。だから暗いとか言われるんだよ」
「暗いか明るいか、そんなのは他人の価値観だろ? 何度も言うけど、オレは暗くない」
「人生終わってるって顔は治らないのか?」
「もう三十、変わるには時間が経ちすぎた。それにオレには見えないから、どうでもいいけどさ」
「相変わらず歪んでるな。歪みすぎてアンタのとこだけ、地盤がへこんでるよ。そのうち、ブラジルにでも行けるんじゃない?」
「行く前に地球のコアに当たって、存在が消えるよ」
「避ければいいじゃん?」
 生産性なんてないし、それこそ会議よりも中身のない会話。でも色々な体裁や仮面を外して戯いのない会話をするのは久し振りだった。
「どう、新しい職場には慣れた?」
「慣れたかな。色々、気になることは多いけどさ」
「それは仕事内容? 環境? 人間関係?」
「後者二つ。一人だったからこそ、違和感を覚えるよ」
「アンタはずっと一人だったもんね。そりゃ違和感も覚えるか」
「お前はどうなのさ?」
「私はもう長いからね。楽しくやってるよ」
「その割には疲れた表情浮かべてるけど?」
「そりゃ仕事途中だからな。仕事って言うか趣味かな、もう」
「たいそうな趣味だな。明日は土曜日だろ? 早く帰れよ」
「アンタには言われたくないな」
 人の少なくなった職場。その空間に生まれた僻地で僕らは互いに悪態を口にしながら、時間を編んだ。四年前、僕らは初めて互いの存在を認識した。同期なんて知らなかった彼女は、嵐のようにやってきて、僕を振り回して、そして嘘みたいにあっさりと目の前から消えていった。
 別に色っぽい話があったわけではない。互いが無害であることを承知した上で、精神安定剤を服用するかのように夜な夜な言葉を交わしていただけだ。
 僕はくわえタバコで彼女の横顔を伺った。童顔な顔には、あの頃にはなかった皺が見えた。互いに歳を重ねたことに自覚的になる。
「アンタの顔見ると、色々と思い出す」
「ノーコメントだな」
「だから思うよ。アンタとの縁は切れないんだろうなって」
「かろうじて繋がっているか細い糸だけどな」
「細かろうが太かろうが、繋がっていることに意味がある。でもアンタが結婚して付き合いが悪くなったら、怒るけどな」
「ずいぶん横柄だな。それとも相手がいないオレへの皮肉か?」
「アンタはアンタが思ってるよりも良い奴だよ。そろそろ、表舞台に立ったら?」
「表舞台は眩して失明するからな。それに誰かの物語の端役に慣れすぎた」
「勿体ないな。アンタは表舞台に立てる奴なのに」
「生粋の脇役だけど?」
「それは勇気がないだけ。本当は表舞台に立てるのに脇役を演じてるだけ。そろそろ物事じゃなくて、自分に正直になったら?」
 彼女はいつもそうだ。頼んでもいないのに土足で心の柔いところに踏み込んできては、消えない傷を残していく。あの頃と変わらない。
「痛いとこを的確に突くなよ。呼吸が苦しくなる」
「人工呼吸でもしてやろうか?」
 悪戯な笑みを浮かべる彼女は、あの頃よりも表情が良い。それは救いであり、ちょっとした安堵感を抱いた。なんだか保護観察者の気分になったみたいだ。
「旦那に怒られるぞ」
「確かに」
 彼女が結婚していることは風の噂で知っていたし、その上で何年か前に報告を受けていた。嫉妬とか後悔とかそうした感情は不思議と芽生えなくて、素直に良かったと思ったことが懐かしい。あの期間を乗り越えてから彼女は変わっていた。本質のキャンバスに無理矢理カラフルな色を塗り殴ったかのように。今でも鮮明なのは、多分、人が変わる瞬間をハッキリと目の当たりにした初体験だったからだろうな。それと短い期間にしては詰め込みすぎた密度のせいだ。
「ホント、勿体ないよ。アンタには良いとこいっぱいあるんだから」
 社交辞令ではないのは言葉のトーンと、表情を見れば明らかだった。そうだった。彼女はいつも僕を過剰評価する。
「今や独居老人一直線、孤独死すら射程範囲だよ」
「本気で言ってる?」
「十年後には本気で言ってると思うよ」
「まだ若いんだからやり直せる。けど、残り時間は少ないよ。自覚してる? そうだ、婚活でもすれば? 街コン行け、街コン」
「参加するのすら億劫だ。この前のゴールデンウィーク、誰とも話さずに過ごしたしな」
「それはヤバいな。声の出し方、忘れそう」
「部屋の中であー、あーって声出して、チューニングしたよ」
 それやべーな、なんて言いながら彼女はベンチに身体をもたれながら声を出して笑った。
「そんな奴が行ったところでだろ?」
「アンタ、女性の前だと緊張して良いとこ出ないもんな。街コンがダメなら、一人で居酒屋行ってカウンターに座れば?」
 また土足で踏み込まれた。僕の柔いところに踏み込んでくる奴なんて何人いるのだろうか。数え始めて、すぐに止めた。
「やったことはあるよ。店に馴染みすぎて、空気になってたけどな。オレの存在を消すの得意だからさ」
「あー、忘れてた。存在消さなきゃいいのに」
「楽だろ?」
「楽するなよ」
 気付けば携帯灰皿には吸い殻が幾つも並んでいる。時計を見るなんて野暮なことはしなかったけれど、結構な時間が過ぎていることはすぐに分かった。静かな職場には、かすかに蝉の声と名前を忘れたけれど秋によく聞く虫の鳴き声が聞こえている。もう夏も終わって、季節がゆっくりと移ろいでいる。そんな変化の中で、変わった強い彼女と変わらない弱い僕が顔を見ずに同じベンチに腰掛け、ただ同じ方向を見ながら話をしている。変な構図だなと思った。でもあの頃を含んだ懐かしさが年号が変わったけれど漂っていることは新鮮だった。
「アンタ、逃した魚は大きいな」
 暫しの沈黙を破ったのは彼女だった。
「釣りは苦手だ」
「自分の良さとか誰かの好意を自覚してないのはアンタらしいけど、そろそろちゃんと向き合ったら?」
「自分の良さなんて分かんねぇーよ」
 皮肉を込めて言う。見上げた空には星が幾つか光って浮いている。
「私はアンタの良いとこ、いっぱい知ってる」
「例えば?」
「言うのは簡単だけど、自分で実感しないと意味がない」
 LINEの通知音が響く。何度も何度も、珍しく僕のスマホからも。彼女はスマホに触れる。僕は触れないまま、夜空に向けて紫煙を伸ばした。
「旦那からだ」
「んじゃ帰るか」
「せっかく同期とじゃべってるのに」
「帰るぞ」
 僕は吸っていたタバコを地面に落として、靴のかかとで火を消してから携帯灰皿に汚れて曲がった吸い殻を入れた。
「出口まで行くよ。コンビニに買い物行きたいし」
 僕らは並んで出口を目指した。話している間、綺麗な月明かりが差し込んでいた夜空には、不気味な雲が幾つも生まれていて、いつ雨が降り落ちても不思議ではない状態だった。
 出口を越えて、現れた丁字路。別れの瞬間はもうすぐだ。
「私はこっちだから」
「これ、貸してやるよ」
 僕は持っていたビニール傘を彼女に差し出した。
「何これ?」
「多分、帰り道は雨が降る。風邪でも引いたら困るだろ?」
「自分の傘は?」
「カバンの中に入ってる」
「準備が良いな。それじゃ借りとく。ありがとう。アンタ、ホント良い奴だな」
「脇役には脇役の所作があるんだよ」
「これは主役の所作だけどな」
 そう笑顔で言い残した彼女はゆっくりと僕に背を向けて歩き始めた。コンビニまで一緒に着いていった方が良いかと一瞬よぎった。でも僕も彼女に背を向けて歩き出すことにした。
「おーい」
 少し歩いたところで後方から彼女の声が聞こえた。夜の静けさにはうるさいくらいの声の大きさだった。
 振り返ると彼女は僕をまっすぐ見つめていた。
「なんだよ」
 滅多に出さない声の大きさで返事をする。
「言い忘れてた。誕生日おめでとう」
 忘れていた。今日は僕の誕生日だったことを。
「ありがとう、気をつけて帰れよ」
 彼女は僕が手渡したビニール傘を持った手を大きく振る。それに応えるように手を振った。彼女が踵を返した姿を見送って、僕も歩き出した。
 雨が降り出したのは、そのすぐ後だった。

文責 朝比奈ケイスケ

不毛な恋【ショート・ショート61】

「今年は大恋愛を経験するでしょう」
 正月を過ぎた頃、酔った勢いで立ち寄った路上の占い師に言われた一言が胸に残っている。冴えない日常に差し込む希望は、少しばかりの活力になっていたことは否定できない。
 それから日々の過ごし方が変わった。本質的には何も変わっていなかったが、外出するときには僅かばかりの期待を抱いていた。でも春が訪れようとした頃、世界は不穏な表情を浮かべ始めた。僕も例外では無くて、不穏な空気に抵抗することすらできずに無力なままに巻き込まれていった。
 オフィスに足を運ぶ機会は減ったし、不必要な外出することも億劫になった。1月から3月までの行動力は嘘だったかのように、従来よりも大人しく日々を過ごしていた。
 未曾有で出口の見えない窮屈な日々が退屈にならなかったのは、きっと今までの経験値が為せる技だった。元来、空白のスケジュール帳が苦痛になるような人間では無かった。むしろ空白を蔑ろにすることを贅沢と感じていた僕にとっては、代わり映えのない日々を慎ましく過ごしていくことに慣れていた。行動していたここ3ヶ月が異常だったのだ。
 しかしまぁ、こんなにも長引くとさすがに色々思うよな。
 誰もいない部屋で呟きつつ、慣れた手つきでキーボードを叩く。無機質な文字が呪文のように並ぶ黒い画面とにらめっこしながら、設計図の不備を確認していく。かつて出来心で始めたプログラミングが、今の僕と生活を支えていることについて、感慨深くなる。きっと昼夜問わずに、この画面と向き合った過去の記憶と今の状況がダブったからだ。
 スマホが鳴いた。面倒な話を持ってくる着信であることは容易に想像できたが、時計を見てから仕方が無く耳元のイヤホンを触れる。今が勤務時間では無ければ、絶対に無視していた。
「お疲れ様です」
 キーボードを叩く手は止めずに声を出す。そういえば、誰かと話すのは二日振りだった。大きな問題が無ければ、メールでの連絡で事足りたことを踏まえると、きっと上司は厄介事を持ってくるのだろう。
「緊急事態だ」
 切羽詰まった上司の声は、明らかに動揺していた。色々なメディアを通して聞くことが増えた「緊急事態」という単語が耳元を通り過ぎる。擦りすぎて、本来芽生えるである危機感や焦燥感を緩めてしまった結果だと思った。
「どうしたんですか?」
 緊急事態に慣れすぎたことで、平常心を保っていることに驚く。全く別のことを描いたことを悟られないように訊いていた。
「ウチの扱っているアプリのセキュリティを突破された。個人情報流出の危険性が出てきた」
「えっ? セキュリティ部は?」
 キーボードを叩く手が止まった。
「今、対処している。お前にも協力して欲しい」
 どうやら拒否権は無さそうだ。パソコンの画面を確認して、使っていなかったディスプレイの電源を入れる。有事の為に用意していたマルチディスプレイを使う時が不意にやってきてしまったようだ。
「分かりました。状況を簡潔に説明してください。今、自宅なのでWi-Fiのことを踏まえるとできることは限られるかもしれませんが」
 上司からの拙い説明を受けながら、パズルを組み立てるように状況を整理していく。どうやら思ったよりも厄介な話になりそうだ。
「やれることはやります」
 僕は上司に許可を取ってから、社内のパソコンを遠隔操作してマルチディスプレイに映るセキュリティ部と不正アクセス者との攻防に目を向ける。圧倒的な劣勢に見えた。今なら敗戦濃厚の試合で登板する敗戦処理の投手の気持ちに寄り添えそうだ。
 一度、キーボードから手を離して手首をストレッチして、大きく背を伸ばした。戦いの前の準備運動だ。
「めちゃくちゃ疲れそうだな」
 冷蔵庫で冷やした缶ビールのことを思った。終わったら飲もう。仕事終わりの些細な楽しみを自覚してから、再びキーボードを叩き始めた。セキュリティ部と不正アクセス者との攻防を割り込んだ。もの凄い速度でセキュリティを突破しようとする猛者とは話し合いでの和解は無さそうだ。
 目には目を。歯には歯を。
 僕は割り込んですぐ前線に立って、見知らぬ相手とのコミュニケーションを始める。これじゃカップルの痴話喧嘩に顔を突っ込んで、話をややこしくする友人だなと自嘲できる程度には余裕があった。
 相手の行動を踏まえながら、パソコンを通してでしか伝わらない呪文のような文字の羅列を打ち込んでいく。僕のメッセージに応戦するように相手は別の方法論で穴を開けようとする。やり取りをしていくうちに友人の立場から喧嘩をしているカップルへと立場が変わっていく。なんで怒っているかは分からないけれど、とりあえず体裁を踏まえて宥めなければ。でもこの状況が続くなら部屋を追い出す鬼にならないといけない。あぁ、あったなこういう嫌なやりとり。
 気付けば僕は鬼になった。力業で、強引に相手を追い出すことに特化した非常な鬼に。
 相手を追い出すことができた頃には、青空だった窓の外は暗くなっていた。久し振りに気持ちを全面に出したやりとりをした相手が不正アクセス者という現実は、なんとも言えない虚しさを抱かせた。
「もしもこれが大恋愛だったら、悲しくなるぞ」
 缶ビールのプルトップを開けて、煽るようにビールを飲んだ。涙が出そうになるくらい苦く感じたのは、味覚のせいか、それとも無慈悲な現実のせいか。

文責 朝比奈ケイスケ 

ミスターいい人【ショート・ショート60】

「どう思う? ミスターいい人」
 いつの間にか浸透した二つ名は、僕を見事に形容している。受け入れるのに時間が掛かったのは、いい人という単語の中に組み込まれた幾つかの意味のせいだ。文字面は良いけれど、言ってしまえば蔑みに近い。
 優しいし、いい人なんだけど。
 そんな告白の断り文句は耳にタコができるほど聞いた。僕のことを傷つけないようにする彼女たちのぎこちない優しさには時差があって、時間が経つにつれて傷口が広がっていく救いようのない痛みを味わい続けた。きっと優しさは刃物であり、人を傷つける上で最大級の切れ味を持っている。
「答える前にミスターいい人ってのは、やめてくんないかな?」
 僕はため息交じりに言う。
「事実は変えられないから無理」
 久し振りに会った友人は、表情一つ変えることなく答える。まるで二つ名が僕の名前のように。軽蔑の念を感じてしまうのは、僕の被害妄想のせいだろうか。
「お前に頼んだ僕がバカだった。んで、なんだっけ?」
「いやさ、この前の合コンで仲良くなった子の話だよ。お前、人の話はちゃんと聞けよな。そういうとこだぞ」
「この手の話を聞き過ぎたせいだな」
「なんでこんな奴が、あの子から連絡が頻繁にくるんだよ? あぁ納得いかねぇ」
 愚痴る友人は、アイスコーヒーの入ったグラスを手に持って口を付けた。グラスは傾き、黒い液体が口元へと向かい流れていく。店内を覆う穏やかなBGMの中に氷が落ちる音が溶け込んでいくのを聞きながら、僕は火が点いていたタバコを口元へと運んだ。こいつは何にも分かってないんだな。現状、僕の方が優位に見えるかもしれない。でも実際はお前の方が可能性が高いんだよ。もしも彼女と付き合うことが賭け事であるのならば、全額お前にベットしても良い。きっとベットした金額以上が戻ってくることを僕は知っていた。
「納得するもしないもお前次第だから気にしないけど、こんな風に僕に愚痴をこぼしているなら、彼女を誘った方が生産的な時間だよ。知ってるだろ? 僕はこの手の話にはひどく疎いんだ」
「お前以外に相談できる奴がいないんだよ。彼女のことを一番知っているのはお前だとオレの勘が言ってんだ。彼女と仲の良い友達よりもだ」
 力強い友人の言葉に一瞬怯んだ自分がいた。仮に彼女のことを一番知っている人間だとして、そんな場所にいる僕が付き合えていない。恐らく何かが足りていないのだろう。その何かは未だに分からないけれども。
「愚痴を聞くこと、相談を聞くこともできるけど、僕にはそれ以上のことはできない」
「聞くだけでいいんだ。お前は聞くことに長けていると思うし、誰かの話を聞くことに無駄な横やりも勢いだけの無鉄砲なことも言わない。お前には悪いんだけど、オレが思っていることをぶつけて頭の整理をしたいんだ」
「僕はお前のノートか何かか?」
「いや、ブルペンキャッチャー兼信頼できる友人だ」
「ひどく献身的な役回りをくれたもんだな。というか最初に信頼できる友人を持ってこいよ」
 中学時代から野球部で共に汗を流した友人の屈託のないまっすぐな言葉に苦笑を浮かべて、ヘタクソな皮肉を言うことしかできなかった。でもそのポジションに親しみを持っている自分がいる。同時に決して表舞台に出ることのない影なんだと突き付けられるような気がした。
「んで、彼女を誘うならどこが良いかな?」
「そんなもん、自分で聞いて考えろよ」
「連絡が途切れ途切れになっている状態で、悠長に駆け引きしている時間はないんだよ。お前も知ってるだろ? 彼女の可愛い顔と顔に合ってない身体を。この前は服の感じで主張してなかったけど、きっと胸はデカい。顔も良くて胸もデカい。それに気遣いもできる子となれば競争率は日々上がっていく。敵が少ないうちにお近づき、なんなら彼氏のポジションに座っていたいんだよ。分かるか?」
「お前の頭の中はヤルことしか考えてないのかよ」
「下品なことをまっすぐな目で言うなよ。勿論、付き合う前からオイタするほどバカじゃねぇけど、オレの論理は間違ってるか?」
「いや、間違ってはない。彼女にしたいと思う奴は日々増えると思う。多分、やり取りしてる男がお前以外にもいるんだろ? だから連絡が途切れ途切れじゃないの?」
「えっ、やっぱりオレ以外にやり取りしてる奴いんの? そりゃ早く行動に移さなきゃ。だからさ、何かヒントくれよ」
「ヒントってなんだよ?」
「彼女が好きなものとか、よく行ってる場所とかさ」
「なんで?」
「なんでって、お前はバカか?」
 友人は人差し指をこめかみに当てて言う。テレビでよく観る出川哲朗が頭に浮かんだ。こいつ、バラエティ観ないとか言ってる割に芸人の行動を真似するんだよな。テレビを観ないことがカッコいいって本気で思っている節が見え隠れして、僕は込み上げてきた笑いを飲み込んだ。でも同時に羨ましいと思った。自分が抱いた価値観を演じようとする純粋さが、僕には眩しく見えてしまうから。
「水族館によく行くって言ってたかな。んで、最近都内でオープンした水族館に行きたいとも言ってたかな」
 僕は彼女が二番目に好きなことを友人に伝えた。一番好きなものは二人の秘密にしておきたいという邪な考えのせいだった。彼女と仲良くなれたのも、二人の秘密のおかげだ。
「マジか、さすが信頼できるぜ」
「尊敬の念も信頼の念も感じさせない軽さは一体なんなんだよ?」
「ちょっと待って。新しくオープンした水族館検索するから」
 友人はスマホを見つめながら、指を器用に動かしている。これ以上友人の軽薄さについて言及するのも馬鹿らしくなって、カフェオレが入ったマグカップを手に取り口へと運んだ。思ったよりも時間が経っていたみたいだ。冷えてしまった分、温かかった時には弱かった苦さがやけに主張していた。友人は検索を終えたようで何かを呟きながら、スマホに触れている指をさっきよりも滑らかに動かしている。どうやら、デートに誘う文言を考えているようだ。何かを口にするのも憚られて、僕は新しいタバコに火を点した。天井へと向かう紫煙を見つめる。
「そういえばさ、お前はどうなの?」
 誘い文句を考え終えたのか、友人は急に真顔で訊いた。
「どうなのって?」
「彼女のことだよ。今さ、デートに誘う文章考えながら、まだ見ぬライバルの存在を考えていたんだけどさ、一番のライバルが目の前にいるじゃんって思ってさ。お前はどうなの? 彼女のこと」
 好きだよ。
 その言葉を言えないのは、臆病な僕の悪い癖だ。言ってしまえばきっと友人は僕の背中を押す。知っているんだ、誰よりも友達思いの良い奴だってことは。だからこそ、僕は言葉を飲み込んだ。彼女は僕が付き合うよりも目の前にいる友人と付き合うことのほうが、確率的に幸せになる可能性を高いのだから。
「仲の良い友人だよ。それ以上もそれ以下もない。知ってるか、僕はミスターいい人なんだよ」
 自分の胸を切り刻むように口にする自虐。僕にたりないものは、きっと友人のようなまっすぐな気持ちと素直な行動力だと悟った。友人は笑いながら「自分で言うなよ」と笑い、僕は誤魔化すようにカップに残ったカフェラテを飲み干した。沈殿して凝縮した苦さが口の中に広がっていった。

文責 朝比奈 ケイスケ

周波数【ショート・ショート59】

 家に帰ることには日付が変わっている。代わり映えのない日々を過ごしていると、感覚が麻痺してしまうことを社会人になって知った。学生時代、日付が変わる深夜の時間帯はワクワクしていた。ゴールデン番組とは異なる深夜番組、寝静まった街の景色、飲み会帰りの浮ついた足取り。どれもが同じ時間軸であると信じたくないほど、冷たくなった夜。そんなことも最近では慣れ始めている。静かで暗い雰囲気をぶち壊す明るい車内にいると、あの頃の記憶が全て嘘だったのではないかと疑ってしまう。
 改札を抜けるとアルコールと夜風が混ざった生ぬるい風が肌に触れる。終電前の駅らしさも帰宅が至上命題の僕には他人事でしかなかった。毎日のように歩く道は駅の明るさを際立たせるような暗さで、生きていることが地獄のように感じてしまう。
「ヤバいな」
 駅前のコンビニで買った缶ビールを飲みながら呟いた本音は、国道を速度違反で駆け抜ける乗用車がかき消した。
 徒歩10分、ワンルームの部屋に戻った頃には予想通り日付が変わっていた。ため息をこぼしながら、ワイシャツのアイロンがけに勤しむ。
「こんなことをするために就職した訳じゃないんだけどな」
 時間を費やした分、皺が伸びて綺麗になったワイシャツ。一抹の切なさを抱きながらハンガーに通す。スーツラックに掛けて、フローリングに横になり、飲みかけの缶ビールを手に取る。重さは感じなくて、帰り道に殆ど飲んでしまったことを忘れていた。
「あぁ、どうしょうもないな」
 一人暮らしを始めてから増えた独り言。肯定も否定も相づちもない独りよがりのコミュニケーションは、誰かと話したいという欲求を示している。その事実は話し相手のいない人間だと突き付けられるようで、悲しさと哀愁のようなものをブレンドした感情を露出させる。スマホは安定して誰かからの連絡を伝えない。人間関係の希薄さを表面化させることは、弱っているときには心底堪える。
「どうしょうもないな」
 弱々しく呟いたところで何かが変わるわけではなかった。変わり果てた日常、心身を染める仕事は僕を何者かにすり替えたのかもしれない。そんな時、スマホが音を立てて震えた。聞き慣れたアラーム音はパブロフの犬よろしく、僕を窓際へと誘う。何枚ものノベルティステッカーが目立つ使い古したラジカセのアンテナを伸ばす。電源を入れるとノイズ混じりの音声が部屋に響き始める。
 しばらくすると流れ始めるビタースイートサンバ。あの頃と変わらない音楽が、何者かにすり替えられて見失っている僕を呼び戻す。パーソナリティも変わって、内容も変わった。思春期の頃、ワクワクしながら聞いていたパーソナリティはもうナイナイしかいない。でも目に見えない周波数が、僕とパーソナリティ、そして顔も名前も知らない人たちを優しく包み込んでいることは変わらない。
 聞き覚えのある小気味よいやり取りがラジカセから聞こえる。忘れていたけれど今日は金曜日みたいだ。時間が経つにつれて、心拍数が上がっていくのを感じる。
「ラジオネーム、人生送りバント」
 普段出すことのない感情や思ったことを吐き出した内容が、全国に流れる。そして「コイツ、どうしょうもないな。でも毎回、はがきありがとな」と笑いながら言ってくれるパーソナリティに今日も救われた。小さめのガッツポーズしながら部屋を眺める。机に置いた時代錯誤のはがきの山とノベルティを収めたファイルが目に入る。
 そしてメール全盛時代に抗うように僕は今日もボールペンで考えたネタをできるだけ丁寧な文字で綴っていく。あの頃から変わらない習慣が、壊れかけた僕を支えてくれる。今も、そして多分、これからも。

文責 朝比奈ケイスケ

夏空【ショート・ショート58】

 今日が猛暑日だとラジオで知った。スマホ一つで簡単に情報を調べることのできる昨今で、昔から存在しているツールを通して、かつ誰かの声で情報を得ることは時代錯誤のように思えた。
 窓辺の指定位置に置いたラジカセ。周波数を安定的に捉えるために伸ばしたアンテナは、少し前の携帯電話を彷彿とさせた。あの頃の携帯電話に収縮自由のアンテナが標準装備されて、笑ってしまうほど長いアンテナで電話をしている人がいた。多分、今の若者は信じられないような顔をして、そして呆れるか、笑うのだろうなと思った。
 腰掛けていたソファーから立ち上がる。カーテンを捲り、窓を開けた。眩しい日差しと蝉の声が耳に届く。夏に相応しい青空だった。思わず目を閉じてしまった。どうやら太陽への苦手意識は健在のようだ。
「さて、何をしようかな」
 取り立ててやることはなかった。社会人の休日なんて、誰かと関わることがなければ手持ち無沙汰になる。ここ数年で得た教訓は大人になったことを示し、自分自身がいかに寂しくて、色々なことについての関心が希薄であることを映し出す。休日は好きだけれども、何もしないで良いと言われると困ってしまうのが、現実だった。
 いつかに買ったTシャツと学生時代のジャージに身を包んでいると、今でも学生のような錯覚を受ける。でもそんなことはなくて、若者とおっさんの境界線に立っている。二日酔い知らずの身体は遠い昔で、計算しながら酒を飲まないと頭痛や吐き気に見舞われる。ただ今日は大丈夫だなと安心する時点で、もう若者ではなかった。ふと視線をテーブルに合わせる。晩酌に飲んだビールの空き缶とつまみの袋が置かれている。
 休前日ということで久し振りに生でオールナイトニッポンを聴いていた数時間を回顧する。外枠は覚えているけれど、細かい部分は抜け落ちている。でも笑っていたことが救いだった。
 ラジカセから流れるのは地元FM番組。耳障りの良いパーソナリティの声と名前も知らないような洋楽を聴きながら、スマホを操作する。最新の通知は、どれもパーソナルなものではなかった。LINEもメールも着信履歴もない。呆れるほどの日常で、一喜一憂していたことが懐かしく、なんだか仙人にでもなったような感覚に陥る。通知を確認し終えると、冷蔵庫からアイスコーヒーの入ったペットボトルを取り出して、棚からコップを取り出して注いだ。甘くないコーヒーを口に含みながら、頭の中でやるべきことを挙げていく。洗濯物以外、何もなかった。惰性で脱衣室に積み上げた数日分の衣類と洗剤を洗濯機に入れて、起動させる。
 洗濯物を干せば、今日やるべき事は終わってしまう。こんな未来を知っていれば、もっと学生時代に色々なことに触れておけば良かったと思う。もはや後の祭りだった。別にそれでも良いと思えた。学生時代には、自分の将来を見つめるよりも今日明日の出来事に夢中になっていたと思えるからだった。
「夏か」
 再びソファーに腰掛け、呟いた。
 夏だから海に行かなきゃ。夏だから出かけなきゃ。なんて使命感を持ち合わせていないことで生じる身軽さに呆れながら、24時間を切っている休日の過ごし方を検討する。昨日にビールと一緒に買い込んだ生活用品を踏まえると、買い物に行くことは無駄遣いであり、あまり合理的では無かった。そういえばいつから生活に合理性に照準を当てるようになったのだろうか。自分の時間を作るといった自己啓発本が並ぶ本屋の棚を見つめて抱いた疑問符が脳裏に浮かんだ。
「自分の時間はある。でも、なんだか満ち足りない」
 恐らく何かしらやることがある人にとっては、時間を作ることは重要な要因なんだろうけれど、これといって時間を過ごす術を持たない人間側になると時間の有無よりも中身に目を向けてしまう。仕事までの待ち時間、それが僕の休日だった。待ち時間に何ができるかと言えば、身体に負担を掛けないように慎ましく過ごすが理想型だった。仕事が中心の人生に落胆する活力でもあれば、もっと違うのだろうか。遊びも重要なことは分かっている。でも、きっとその人を作り上げるのは仕事だ。遊びと仕事が直列回路で繋がっている人が推奨されるけれど、僕には到底出来そうに無かった。かといって並列回路でもないから、ひどくつまらない人間なんだと思い込んでしまう。
 極端に考えてしまう悪い癖を自嘲しながら、心の奥底に押し込んだはずの一念がくすぶっていることに気付く。燃え殻になったはずなのに、どうやら僅かな残り火が煙を上げているようだった。モロクロームに変換した一念。忘れがちになっているのは、色が地味で普遍的だからだろう。だから生きている上で目にする幾多のことが放つ瞬間的で鮮明な色に目移りしてしまう。それくらい地味な色が僕の深いところに染みこんでいる気がした。
「やれやれ」
 僕は誰に言うわけでも無い戸惑いを口の出して、クーロゼットに押し込んでいた段ボールを開けることを決めた。
 ガムテープを剥がすと漂う懐かしさ。あの頃描いて、無理矢理飲み込んだ一念。タイムカプセルを開くような気恥ずかしさが鳥肌として身体を現れる。一眼レフに触れると蘇る記憶と熱量は静かに訴える。
「青空でも撮りに行くかな」
 外行きの服に着替えて、一眼レフを首から掛ける。スニーカーを履いて、玄関のノブに手を掛けた瞬間に洗濯が終わったことを知らせる音が脱衣室から聞こえた。
「これは洗い直しだな」
 僕は呟き、通知音を無視して外に出た。真夏の太陽と青空が再スタートを喜んでいるように思えるほど眩しかった。僕は受け入れるように瞼を開いたまま、大きめな歩幅で一歩を踏み出した。

文責 朝比奈ケイスケ

観覧車【ショート・ショート57】

 夏休みに入って、二週間が過ぎた。普段、キャンパスで顔を合わせる仲間との一時的な別れが寂しく思えるくらいに、僕の大学生活は鮮やかだった。
 久し振りの再会は、葛西臨海公園だった。リーダーが言い出したバーベキュー大会は、これで四回目。大学生活の夏はバーベキューという変な刷り込みに従順な僕は、良くも悪くも青春を謳歌していた。そうでもなければ、スーツ姿で京葉線に揺られることはなかったと思う。開始時刻は11時。運悪く就活の面接日にぶつかった僕は途中参加だった。車窓から見える晴れ渡った夏空を見つめる。折角なら肉食べたかったなという本音が口から出そうになる。
 ため息交じりに腕時計を確認する。16時半を過ぎた頃を針は示す。もはやバーベキューは終わっている時間帯で、参加する意味の大半は失われていた。それでも向かっているのは、僅かな時間であってもアイツらに会いたいと思ったからだ。
 葛西臨海公園前駅に電車が停まる。車内は、夢の国に遅れて向かう人か幕張などの都市に向かう人が殆どで、下車したのは乗っていた車両では僕だけだった。右手でネクタイを緩めながら、まばらにいる人を避けながらホームを歩く。改札を抜けると、コンクリートに跳ね返る太陽光が陽炎を作り出していた。こんな夏日にスーツなんて着ている自分の運の悪さを呪った。
 容赦ない日差しを全身に受けながら、スマホで送られた場所へと向かい歩を進めながら、小学校時代の授業を不意に思い出した。
「ったく、14時以降日差しは弱まるんじゃ無かったのかよ」
 駅から続く一本道には、ホテルや水族館の入り口と分かれる道があり、分かっていたけれど誰もが夏に相応しい薄着と笑顔を浮かべて歩いていた。歓喜に染まった空間において、実に相応しくない自分の姿を自嘲してしまう。こんなことなら着替えでも持ってくればよかったかなと本気で思った。
 指定された海岸には老若男女がそれぞれの時間を過ごしていた。半裸の若者を横切ったときに、好奇の目で見られた。お前の場所はここじゃないと言わんばかりの目に嫌悪感と、将来のお前らの姿だぞという苛立ちを含んだため息が自然とこぼれた。
「おーい」
 波打ち際で騒いでいる若者の姿が目に入った。男達はみな半裸で、これでもかと夏を満喫していた。本来なら舌打ちの一つでもしたくなるところだけれども、仲間がルールを守った上で騒いでいると思うと抱く感情は異なる。利己的だなと思いながら、声の方に近づく。
「面接、お疲れ」
 グループの参謀が僕に声を掛ける。僕は右手を挙げて答えた。すると次の瞬間、銀色の缶が僕に向かって放られた。緩やかな軌道を描いた缶を右手でしっかりと掴む。水滴が付いた冷たい缶は、恐らくクーラーボックスで冷やしていたと分かる。仲間の気遣いと右手から伝わる冷たさは、今の僕にとっては一番欲しかったものだった。
「サンキュー」
 僕は何も考えずにプルトップに指を掛けて、慣れた手つきで開ける。すると飲み口から一気に吹き出すビールに全身が濡れた。どうやら子供じみたイタズラに引っかかったようだ。でも冷えたビールは心地よくて、スーツが濡れたことなどどうでも良く思えた。
「ダセー」
 波打ち際で遊んでいたリーダーの声が聞こえた。ったくアイツが仕掛け人か。相変わらず子供だな。
「ほらよ」
 グループの三枚目がタオルを手渡してきた。海岸に敷かれたレジャーシートにスーツの上着とカバン、そしてイタズラを仕掛けられていた缶を置いてから、タオルを受け取って顔や濡れたスーツを拭いた。その間に三枚目はリーダーに呼ばれて、波打ち際へと走り出していた
「ったく、これ考えたのアイツだろ?」
 半分以上が無くなった缶を一瞥して参謀に訊いた。手に持ったタオルは首に掛ける。ワイシャツにタオル。作業着の下にネクタイを締めるくらいに違和感のある組み合わせだったけれど、そんなことはどうでもよかった。
「そんなの聞かなくても分かってるだろ?」
「ガキだな、呆れるほどの」
 僕は手に持った缶の飲み口を口元まで持っていき、残ったビールを一気に飲み干した。ビールが喉を通る音が聞こえた。
「どうだった、面接は?」
「手応えはないけど、落ちた感じもなかったかな。正直、僕には分からないよ」
「それを人は手応えがあったって言うんだよ」
 参謀はクーラーボックスから新しい缶ビールを取り出して、僕に差し出した。  さすがに二回目はないだろうと思いつつ、それを受け取った。さっきの経験を活かして、ゆっくりと、それでいて飲み口から身体を離しながらプルトップを開ける。手応えからして今度は仕掛けがないようだ。
「疑い深いな」
「そりゃ、あんなに綺麗に引っかかったら疑うだろう?」
「スーツは大丈夫か?」
「クリーニングは決定だけど、この暑さには丁度良いよ」
「真夏の海に一番相応しくない格好だな、それにしても」
「それはここに辿り着くまでに嫌というほど感じてるよ。そういえば、お前らしかいないの?」
 電車に揺られている時に送られた写真には、総勢7名の男女が映っていた。その中の一人の女性に僕は片思いをしていて、話したいと思っていた節がある。
「女性陣は買い物に行った。みんなで騒いでたら、買ったもんあっという間に無くなってな。これで3回目の買い出しだよ」
 参謀はペットボトルのコーラを飲みながら呟いた。酒が弱い参謀にとっては理解できないだろうな、酒好きの連中の心中は。
「お前ら、どんだけ飲んでんだよ?」
「お前がいない分、去年よりは少ないんじゃないか? お前がいると缶ビールは何本あっても足りないからな」
 参謀は笑いながら言った。僕はどれだけ酒好きだと思われているのだろうか。
「毎年、帰れる程度にしてるよ」
「去年は1ダース飲んでもんな?」
「10本な。余った二本は飲まずに持って帰ったよ」
「その補足説明いらねぇ。まぁ、女性陣はそのうち戻ってくるよ。いる?」
 参謀はタバコの箱を僕に向ける。僕は笑みを浮かべて頷き、一本のタバコを貰ってポケットの忍ばせたジッポーで火を点した。参謀も火を点した。タバコを吸いながらシートに腰掛け参謀と話していると、買い出し組が海岸へと戻ってきた。そのことを伝えるように海で遊んでびしょ濡れになったリーダーと三枚目も僕らの方へと戻り始めていた。伸びていた紫煙は、さながら狼煙の役割を果たしているようだ。
「面接、お疲れ様」
 女性陣の労いの声を聞きながら、満ち足りた気持ちになっていく。バカ騒ぎできる仲間がいて、その場所に居場所がある。そのことは僕にとっては大きかった。このグループに居て、本当に良かったと思った。僕らは買い出しで追加された飲食物を手に取りながら、写真を撮ったりして、鮮やかな時間を過ごした。でも彼女と話す機会は、タイミングが合わずになかった。自分に染み付いた消極性に嫌気が差して、頭を掻きむしりたくなるくらいにイライラした。
「この花火は?」
 三枚目はニヤニヤしながら訊いた。女性陣は笑いながら「こんな日は花火やりたくなるでしょ?」と答えて、シートの上は盛り上がった。でも海岸で時間を過ごすには待ち時間が長い気がした。
「観覧車乗ろうぜ」
 リーダーは屈託の無い笑顔を浮かべ、観覧車を指差した。
「いいね、乗ろう」
 やれやれ。どうやら乗ることは決定事項みたいだ。
 僕らは荷物を片付けて、観覧車へと向かい始めた。その行動力は小学校の休み時間にドッヂボールに向かう小学生くらいに迅速だった。つかず離れずの距離を保ちながら歩いていると、三枚目が近づき僕の肩を叩いた。
「なんだよ?」
「観覧車は乗るもんじゃ無くて、見るもんじゃなかったのか?」
 ニヤニヤした三枚目の頬は赤く染まっている。思ったよりも飲んだみたいだ。
「見るもんだよ」
「でも、今日は乗るんだ?」
「荷物番、やるつもりだよ」
 三枚目はもう一度僕の肩を叩いた。さっきよりも力強く。
「何言ってんの? お前は乗るんだよ」
「なんで?」
「ハスんな、ハスんな。今日はチャンスだろ?」
 僕は前方を歩く小さくて可愛らしい背中をまっすぐ見つめた。確かにチャンスだった。それは反論できない事実だ。
「でもなぁ」
「お前さ、否定で始まるの止めたら。アイツが作った折角のチャンス、無駄にするなよ」
「アイツが作ったチャンスって何だよ?」
 僕は手持ち無沙汰に耐えかねて、ポケットからタバコを取り出して火を点した。路上喫煙はルール違反なのは分かっていたけれど、そうでもしないと気持ちが安定しない気がした。
「アイツが観覧車に乗るって、その場のノリで言ってると本気で思ってんの?」
「違うの?」
「普段はノリだろうけど今日は違うよ。アイツはグループを一番大事に思ってる奴だ。そんな奴がわざわざバーベキューが終わっている時間でもお前を呼んだ理由を汲み取ってやれよ」
 僕は返す言葉を失った。ったく、全部計算済みかよ。
「んじゃ、頑張れ」
「頑張れって、お前な」
 三枚目は僕の背中を叩いて、僕の横から離れていった。密室の19分、正直耐えられる気がしなかった。
 観覧車の乗り口に着くと打ち合わせ済みと言わんばかりに二人組が自然と作られていく。四人乗りだからさ、と言った僕の声はどうやら届かないみたいだ。ここで引くのは嘘だよな。僕は目を瞑って覚悟を決める。そしてゆっくりと彼女の横に立った。
「一緒に乗ろうか? 二人で」
「えっ」
 色めき立つ仲間の声を無視して、僕は白くて細い彼女の手を掴んだ。彼女は抵抗することなく、頬を赤めた顔を伏せるようにしながら黙って頷いた。
 これから始まる19分は長いようで一気に過ぎ去っていくような短い時間になる。太陽が沈み始めて夕焼けに染まった景色で二人きりの19分。どっちに転んでも一生忘れられない時間になる気がした。

文責 朝比奈ケイスケ

きっと貴女は遠くで泣いているから【ショート・ショート56】

 当たり前が当たり前じゃ無くなった。失って気付く幸せなんて、よく分からなかったけれど、突然目の前に現れると大きさに自覚的になってしまう。僕はきっと傲慢で、無頓着だ。
「今年の花火大会、中止らしいよ」
 電話口で彼女は寂しそうな声を漏らした。今年の春に上京した彼女は、地元に残っている僕よりも地元のことに詳しかったりする。不思議な感覚に陥るけれど、軽いホームシックのようなものに苛まれているのだと勝手に認識して飲み込んだ。
「えっ、そうなの?」
「そうらしいよ。ユキが言ってた」
「ユキ先輩も上京組じゃ無かったっけ?」
「そうなんだけど、地元のネットワークは健在だから」
 元気なく呟く彼女の声を聴きながら、静まりかえった住宅地をぼんやりと歩く。家から溢れる生活光と街灯が申し訳ない程度に夜を照らしている。蝉の声が響くのんびりとした景観に相応しくないスマホという最新機器を耳に当てながら、なんて答えるべきか考えていた。
「みんな地元が好きなんだね」
 イマイチ、ピンとこない感覚は地元に住んでいるからこその盲目になっている部分なんだろう。いつか僕もこの場所から見知らぬ場所へと移り住んだら、懐かしさに胸を焦がすことがあるのかもしれない。
「どうなんだろうね? 私は好きだけど、それよりも寂しさが上回ってる気がする。新しい場所で今までのように振る舞えない部分も多かれ少なかれあるし。そうなるとね、ストレスが出てくるの。イエスと言いたい部分でもノーと言わないといけないとかね。従来の価値観を少しずつ壊れちゃうの。でも壊した部分を補填するには新しい価値観を加えなきゃいけなくて、その調整が思ったよりも難しいの。自分が好きだった人、今までの立ち位置、環境が好きだった人には受け入れるのに時間が掛かるの」
「なんだか理科の実験みたいだね?」
「その例え、ちょっとヘタかも」
「うるさいな」
「淳はどう? 部活頑張ってる?」
「頑張るにも最近学校が始まったばかりだし、部活も制限されてるからなんとも言えないかな。夏大も中止になっちゃったし」
「でも練習はしてるんでしょ?」
「それとなくは」
「それとなくじゃなくて、ちゃんとやるの。分かった?」
「はい」
「それでよろしい。電話したときも呼吸が上がってたし、私は嬉しかったよ」
 電話が掛かってくる瞬間まで、ダッシュを繰り返していた。そのことを彼女は見透かしていた。
「目標が無いと大変だけど、続けなきゃダメだよ。ここで手を抜いたら、いつか後悔する。それにこんな場面でも続けていたってことはきっと財産になるよ」
「自己啓発本でも読んだの?」
「読んでないよ。ただ、そう思っただけ」
 上京してからの彼女の声に弱々しさを感じる。ここ最近は特にだ。なんだか嫌な予感がした。漠然とした感覚が訴えかける。
「それじゃ今日は寝るね。明日、寝坊しないで学校に行くんだよ」
「それはお互い様でしょ?」
「残念、私はリモート授業だから」
「それでも寝坊はダメでしょ」
「大学生は自由なの。高校生みたいな規律はないの」
「でも寝坊しないようにね。ちゃんと寝るんだよ」
「ありがとうね。それじゃおやすみ」
「おやすみ」
 無機質な機械音が耳元に届く中、僕は彼女のことを想った。そしてボロボロになったランニングシューズを見つめる。夏大が中止になっても練習を続けた理由を悟った気がした。幸い、財布もスマホも応急処置セットも持ち合わせている。ここで行かなきゃ、嘘だ。
 感情のままに走った。綺麗と彼女に褒められたフォームを維持しながら。10分で着いた国道、この道の先には彼女が住む街がある。遙か遠くに。文明開化の恩恵で彼女との精神的な距離は縮まった。でも物理的な距離という絶対的な問題は埋めることはできない。何台もの車が通るのを見続けて、高校生という立場の弱さと無力さ思い知った。でも素直に諦めることができるほど大人じゃない。
 僕は勇気を振り絞って、ゆっくりと親指を立てて右手を伸ばした。

文責 朝比奈ケイスケ  

剥げたメッキ【ショート・ショート55】

 スケジュール帳を見ていると、自然とため息がこぼれてしまった。
「こんなに予定があっても楽しくない」
 自然と呟いたのは、本音が理性を越えてしまった証拠だろうか。大学を卒業して五年。もう27歳。描いていた社会人ライフは縁遠くて、毎日同じような作業の繰り返しに疲れている。理想と現実の差は、思った以上に大きかったみたいだ。
「お客様が笑顔になるお手伝いをしたいです」
 第一次面接の一言、確かに抱いた想いだった。でもお客様を笑顔にする前に私から笑顔が消えていた。
「アキ、なんか疲れてない?」
 そういえば大学時代の仲間との女子会でよく言われるようになった。同級生達は仕事の愚痴をこぼしていても、目の前に置かれた料理の盛り付けが豪華だったり、美味しかったりすればすぐに切り替わることができる。見ていて羨ましいと思いながら、空気を壊さないように作り笑顔で繕うことが増えた気がする。その繰り返しは会社内でも同じで、いつの間にか当たり前になっていた。それでも構わない、私はやりたいことを実現させる。毎回、決意してから新しい一週間を過ごしてみようとするけれど、結果的には同じ風景ばかり見ている。
「私のやりたいことってなんだっけ?」
 自分自身が抱いていた希望は、社会の荒波を全身で浴びているうちに忘れてしまったのかもしれない。
 毎日の習慣に決めたストレッチをしながら、誰かの声が聞きたくなった。スマホを操作してグループLINEにメッセージを投稿する。深刻にならないように、それでいて話を聞いてくれる機会を作ってくれるような案配のメッセージだ。
『ごめん、今と彼氏と一緒に居て連絡できそうにない。また明日、連絡するね。』
 返信が一通しかないことは結構堪えた。私はどんな時でも時間を作って話を聞いたし、大学時代は話が聞けない状況でもすぐに返信をくれたのに、なんで。友達よりも大切な物がみんなにはあって、私には無かった。あと有名企業で働いている私に対して、それとなく嫉妬していることには薄々気付いていた。だから彼氏を作ろうと思い立ったこともあったけれど、私の横にいてくれる人は現れなかった。あの頃はひっきりなしに鳴ったLINEも今では殆ど鳴らない。キラキラした学生時代は幻だったのかと思いたくなるほどだった。
 恋に恋できるほど子供じゃ無かったし、かといって将来を考えられるほど大人でも無かった私。
 スマホをテーブルの上に置いて、ストレッチに戻る。固くなった身体をほぐしながら、全身を点検する。なんだか肌のハリが無くなった気がした。よく見れば皺も増えている。華麗に仕事をこなすキャリアウーマンのはずが、加齢に怯える平凡な女性社員になっていることを自覚する。
「あぁ、彼氏欲しい」
 ストレッチを終えて、明日の予定を確認しているとスマホが鳴った。やっと返信をくれたとウキウキしながら、おとなしめのネイルが少し剥げている指で画面をタップする。
『ごめん。来週のお出かけなんだけど仕事で行けなくなっちゃった』
 別の友人からのあまりに淡泊な返信が届いた。その後に届いた可愛らしいスタンプを一瞥して画面を消した。スケジュール帳に書いていた数少ない楽しい予定が一つ消えてしまう。そのことで胸が痛くなった。一瞬で気持ちを落とさせて、何も無かったように晴れ間がやってくるゲリラ豪雨みたいだ。
「オレとか友達のことをなんだと思ってんの? オレはお前が自由に使える駒じゃないし、落ち込んだ時の精神安定剤じゃ無いんだよ。お前のそういうところが嫌いだ」
 一年前に付き合っていた彼氏が別れ際に残した言葉の真意をようやく体感した。もう遅いのかも知れないけれど。

文責 朝比奈 ケイスケ

飲み会【ショート・ショート54】

 味の抜けたビールを飲みながら、くたびれた表情を浮かべる旧友の愚痴に耳を傾けていた。高校卒業をして十二年。青春時代の前半戦を共に生きた仲間は、それぞれ違う生活を営み、そして変わっていた。
グループのリーダー的な存在だったアイツを除いて。
「もうね、金が無いの」
 結婚して数年、子育てが生活の軸になっているBは、隙があればこの言葉を口にする。金が無い、金が無い、金が無い。脳内で文字起こしをすれば明日の生活すら怪しいと思ってしまうけれど、実際のところは自由に使える金が無いということらしい。ならば結婚も子作りもしなければいいのに、と喉元までやってきた言葉をジョッキに残るビールで一気に飲み込んだ。声に出してはいけない文言が自然と脳内で生成できる程度には、僕は性格が悪い。自覚症状があるからこそ、ぐっと我慢する。腹に溜まったフラストレーションは、年々、増えてきた気がする。これが大人になることだ、と言い聞かせても完全には納得できないけれど。
「オレは、お前が羨ましいよ」
 Bは僕のことを指差して大声で言った。羨ましい。恐らくBが言った羨ましいという意味には大きなズレがある。心地よい言葉の響きとは異なる真意をおおよそ把握しながら、僕は愛想笑いを浮かべて誤魔化した。
「Bも十分羨ましいけど?」
 離婚調停で頭を悩ませていると話していたCが助け船というか不必要に口を挟んできた。これは場が荒れる。不幸へ一直線の導火線に火がついてしまった。Bは捲し立てるようにCを罵った。Bは僕のことを羨ましいなんて思っていない。いや独身で自由という点ではそうなのかもしれないが、実際のところは大変だけれど結婚して子供を育てるのは良いもんだぞと何も持たない僕に投げつけて自己肯定を得ようとしているのだ。そして優位に立っていることを確認したいのだ。それなのにBよりも悲惨な状況下にいるCが入り込んでくれば、会話が思う通りに転がらないことに憤りを抱いて攻撃的になる。酔ったときのBの悪い癖を知っているはずなのに。Cの余裕の無さが浮き彫りになる。僕は一時離脱するためにトイレに立った。
 トイレは一旦店内から出ないといけない場所にあった。入店した扉とは異なる出入り口から外に出て早々に用を足した。店内に戻ろうとした時に店先に置かれた灰皿の横に立って紫煙を伸ばす男の存在を目に入った。
 Dは僕の存在に気付いたようで、くわえタバコで右手を挙げた。僕は引き寄せられるようにDの横に立ち、慣れた手つきでタバコに火を点した。
「BとCの口論、どっちもどっちだよな?」
 Dは呆れた表情で呟き、同意を求めた。結婚して順風満帆の最中、ちょっとした出来事をきっかけに自己があやふやになっているBと不倫をして窮地に立たされているCは身から出た錆ではあるけれど、どっちも自分以外の何かに頭を悩ませていることには違いはなく、でも僕は肯定も否定もしない曖昧な態度を保った。正直に吐露すれば、どうでもいい。その一言で片付くものだった。
「Dはどう思う?」
「オレはどっちも経験済みだから、なんとも言えないかな。Dみたいに自爆じゃなくて、相手側に非はあったけれど」
 笑い話のようなトーンで深刻なムードにならないように振る舞うDを見ていると、やっぱり変わったなと思った。あのグループの中では、一番距離感が近かった奴だったからだ。知らぬ間に適度な距離を保つような処世術が身に付いて、俯瞰で物事を見ていることが日常になってしまっているのだ。仕事とプライベートの境界線を越えていることにDは気付いているのだろうか。気になったけれど、言葉の代わりに煙を吐き出して誤魔化した。
 全員、新しい場所で新たな自分を生きている。そしてBは家族に、Cは元家族とのもめ事に、Dは仕事に染まっているのだ。じゃあ僕は? その疑問符は生産性が全くないことを身をもって知っているから無視した。
「そういえば、Aは?」
 僕は話を変えるために、Aの話を切り出した。遅れるとは聞いていたけれど、もう一時間以上は姿を見せていない。アイツらしいといえばそれまでだけれども、連絡すら寄越さないと少し不安になる。
「そのうち来るだろ? アイツ時間は守らないけれど、約束は守る奴だからさ」
 Dの冷めた言葉に、いや時間を守ってない時点で約束は破っているだろうと腹の中でツッコんだ。
「さて、戻りますか。あのまま二人にしてたら、殴り合いになりかねない」
 Dはそう言って、灰皿に吸いかけのタバコを捨ててから店へと戻っていった。半分以上の残っているタバコが惜しくて、黙ってDを見送った。一人になってタバコを吸っていると、酔いが醒めていく。戻るのが面倒だな。僕は吸いかけのタバコを灰皿に捨ててから、新しいタバコに火を点した。逃げの姿勢は、どうやら染みついてしまっているようだ。
 二本分のタバコを吸ってから、アイツらのいる席へと戻った。人影が一つ多い。ようやくAが到着したみたいだ。殴り合ってもおかしくなかった二人は知らぬ間に和解したようで、仲良く酒を飲んでいる。Dもその姿を見ながら笑っている。何が起きたのかは分からないけれども、Aが仲裁したことはすぐに分かった。相変わらずの統率力だった。
「久し振りだな」
 Aの変わらない低くて渋い声に僕は確信した。やっぱりAはこのグループのリーダーであり、僕の青春に確かに存在したことを示す象徴の一つであることを。

文責 朝比奈ケイスケ

世界の変わる音がした【ショート・ショート53】

世界一美しい風景は
キャッチャーマスクから
見えるグランウンドであることを
16歳の夏、僕は知った。
あれから十数年の月日が流れても
あの時抱いた感動を覆す
風景に出会っていない。
おかしな話だなとは思う。
感情が乏しいのか。
単なる野球バカなのか。
真意は僕にも分からない。
でも、僕は未だに野球に魅了され
自らの意志でマスクをかぶり
小高い山に立つ投手が放る
白球をミットを構えて待っている。

少年野球にソフトボール
草野球の練習試合、少年サッカーで
賑わう河川敷の一角。
そこで眠気眼をこすりながら
ボールを追いかけるのは
休日として満点過ぎる風景だ。
草野球の練習という機会は
頭の中にある不純物をひと時だげ
忘れさせてくれる。大事な時間だ。
その相棒とも呼べるキャッチャーミットは
16歳の時、野球部の顧問からキャッチャーに
コンバートを打診されてから使い続け
汗と喜びと悲しみが染み込んだ過去の遺産。
今日もオイルを塗ったミットで
投手が放るボールを掴んだ。
気持ちの良い音が鳴らない。
勿論、技術的な理由もあるけれど
使い古したミットを酷使している気がして
少しだけ、申し訳なさを感じてしまった。
そして過去の場所から進めていない
自分の後ろ姿を見た気がした。
草野球の練習後、友人と共に
スポーツショップに足を運び
新たなミットを手にしたのは
必然だと思うのは、傲慢だろうか。
僕にとっての大金を代価に
手に入れた新しいミットを
実家で型づけする時間は
新鮮であり、どこか懐かしかった。
ボールで型付けしている際に鳴る
乾いた音を聞く度に、心が揺れて
試合に出る未来を想像してしまう。
まだまだ硬さが残り、ボールを弾くから
実戦では使うことはできないけれど
これからゆっくりと時間を掛けて
僕の手、キャッチングに合った型が
作られていく日々を過ごすのも悪くない。
そして良くも悪くも最高のチームで
マスクを被り、美しい風景を見ながら
真新しいミットを投手に向ける。
パチン、と乾いた音を響かせ
白球を掴む瞬間が今から待ち遠しい。
どうやら僕は生粋の野球バカみたいだ。

文責 朝比奈ケイスケ