4月8日(日)

桜も舞い散る中で
ゆったりと、でも確実に
春という季節がやってきて
気付けば、卯月も一週間が
過ぎ去っていった。
いつかに見た桜並木は
今年も健在だったことに
幾分の安堵感を抱きつつも
変わりゆくすべての物への
慈しみみたいな感情を抱くのは
多分、春のせいなんだと思う。

早いもので社会人になって
七年目もの月日が経過して
ある側面を用いてみれば
「中堅」という立場にいる。
弥生に詰め込んだ研修の影響で
立場も少し変わっている。
島流しにあった罪人のように
長い間、離れ小島の住人として
一人で仕事をしていた僕にも
ようやく同僚ができるという
ちょっとしたハプニングもあり
景色が変わりつつあるのが現状。
これが表面上の顔の話。
正直、色々な厄介ごとで溢れ
お腹が痛くなるのは、別の話。

さて、そんな一端の社会人を
道化のように演じる僕は
相変わらず何もないのですが
周辺もなんだか騒がしさから
落ち着きを取り戻しつつある。
結婚式を挙げるという
広義の慌ただしさから
家庭を持って、子供ができたりと
狭義の慌ただしさへと移り変わり
外野からは見えなくなっていることが
大きな要因であるのだろうな。
ただでさえ、友達が少ないのに
こうなってくると孤立感が凝固になり
孤独感が僕を覆っている気がする。
幼き頃に抱いた未来図では
もう結婚しているのにな、とか
使い物にならない思い出が蘇り
溜息をつきそうになるのと同時に
やっぱてわかんねぇな、と
感傷にぼんやりと浸ってしまう。
そんな僕はスマホを駆使して
ラジオを聴きながら家事を行い
買い込んだ小説を読んだり
時より書いてみたりという
受験生みたいな生活リズムに
染まりかけている状況。
それでいて売れない芸術家のような
どこか昭和感が漂う感じに
仕上がっていて、笑えてくる。
僕は、一体何を目指して
どこに向かっているのだろうか。
そんなことを考えて早十五年。
今日も迷ってばかりだ。

迷子の中で光明を探すべく
足を踏み入れた新宿。
東洋一の歓楽街がある
大学時代のトポス。
快楽に溺れる訳ではなく
舞台「火花」を観劇するためだ。
ピース又吉直樹が世に出始めた頃
彼の独特の存在感に惹かれた理由を
今はもう覚えていないけれど
それでも大切な青春時代には
欠かせない存在であることには
変わりがない。会ったことないけど。
でも彼の二作目「劇場」が
僕の賞レースで惨敗だった作品
「ハイライト」を書くきっかけに
なっているからおかしなもので。
彼が作家として時代の寵児になったのは
三年前の2015年まで遡る。
彼の処女作「火花」は
爆発的に売れて気付けば芥川賞。
そのニュースを自転車旅行先の
ホテルのテレビで見ていた。
真夏の太陽によって焼かれた
腕や足の日焼けが懐かしい。
内容は売れない芸人の物語。
青春小説であるからこそ
ストライクゾーンにドンピシャで
原作を何度も読み返した。
ドラマも同じように観返した。
あきれるほどのあほんだらだ。
でも映画はなんか観る気になれずに
鑑賞していないのだけれど
舞台化され、しかもご本人登場なら
それは行くべきだと思い立ったのは
今年の初めくらいの話だろうか。
観たいもの、読みたいものについて
お金をつぎ込むことに抵抗はないし
行動力も伴うのは不思議な話。
チケット販売日には抽選に応募して
数週間後には当選の連絡が届いた。
一人で観劇をするようになったのは
去年の夏が初めてで、今回で二回目。
キャラメルボックスが演じた
「スロウハイツの神様」も
面白かったから期待値は上がる。
夕暮れ時、新宿駅は人で溢れ
平日であることを忘れそうになったが
それは東京にとっては日常であり
二十代前半の記憶と被る。
あの頃、毎日のように東京に通い
まぎれもなく生活の中心だった場所。
距離を空けたのは僕の方なのに
なんだか寂しさを断片に触れた。
まるで未だに栄華から抜け出せない
都落ちした貴族みたいな感覚だ。
変わっている街並みを楽しみながら
東京散歩に精を出して
疲れたら喫茶店でコーヒーを飲み
タバコを吸って、小説を読んだ。
開演間近の劇場に足を踏み入れて
チケットに印字された席を探す。
若い女性が目立つ客席の中で
僕みたいな奴は見当たらなくて
でも僕の座席は用意されていて。
座席があるのは当たり前なんだけど
何とも言えない違和感を抱きつつ
腰かけたのは、結構前の席。
小説ともドラマとも
異なる世界観が広がっていて
でも大筋は「火花」だった。
引き込まれるのに時間は掛からず
あっという間に時間が過ぎていく。
生で見るテレビの向こうの人たち。
胸が躍るミーハーな僕。
又吉直樹の雰囲気は独特で
観月ありさの綺麗さに驚き
石田明の存在感は完全に神谷だった。
映画はあんまり観ないし
観劇も二回目だったけれど
ドラマばかり観る子供だったから
分かることもある。

俳優ってスゲーなって。

目の前の舞台で躍動する演者をも
凌駕するドラマ版のキャストである
林遣都と波岡一喜。
刷り込みの影響もあるだろうけれど
ちらほら顔を出すから戸惑った。
勿論、目の前の演者達が口にする
幾つもの言葉は胸打つものがあるし
小説から飛び出してきたかのような
存在感は唯一無二であり
アドリブ的な面白さもあるから
素晴らしかったし、魅了された。
終演後、ネオンが照らす街を
それこそ徳永のように歩いて
頭の中で錯綜する情報を
丁寧に整理し続けた。
こういう感情を抱けるのは
芸術の素晴らしい側面だろうな。
当てもなく歩いてみても
全くと言って消化できない感情。
原作にはなかったセリフのせいだ。
青春小説を好む理由は
恐らく、そこにあって
また小説を書きたいと
思ってしまう衝動もまた
そのセリフに凝縮されており
何度もリフレインする。

そんな帰り道から数日経って
僕は、再びキーボードを叩く。
まだ見ぬ、世界を紡ぐために。

2018年2月28日(水)

如月も最終日。
どうでもいいことばかりが
蔓延る無機色の日々に染まり
相変わらず窒息寸前。
どうしてこうなったのかを
たりない脳みそを酷使して
答えを導びこうとしたのは
遠い昔からの習慣であり
今もあまり変わらないでいる。
変わらないことは美徳だと
思い込んでいる節があって。
でも変わっていくことに
少しばかりの期待があって。
悲しいような嬉しいような
どうしょうもない感情の
有効な使い道を未だに知らない。
中途半端に生きてきた代償は
均された平地を歩く時ばかりに
不敵な笑みを浮かべた顔して
目の前に現れてくる。
意識が過去に向く性分だからこそ
浮き彫りになる症状。
今を生きているはずの僕を
幾つもの亡骸が転がる
後悔の海、それも深海へと
歓楽街の光に照らされる
人の好さそうな笑顔をした
キャッチの兄ちゃんみたいに
慣れた誘導して絶望へと
招待してくれる毎日は
相変わらずで笑えてくる。
これが変わらないことへの
執着だとするのであれば
呆れるほど色のない世界だ。

僕を起点するの狭い空間は
四方八方、賑わっている。
厄介なこともあれば
純粋に面白いと思うこともある。
酸いも甘いをブレンドした喧騒は
柔くて脆い胸を揺さぶり
あっという間に思考を奪い去る。
祭りの後の帰り道みたいに
さっきの出来事は嘘だったのでは?
なんてありふれた錯覚に陥ると
自分の存在というものについて
考察し、理解を深めようとする。
或いは物語の主人公について
不必要な因子分析を開始する。
生粋の脇役は、周りの機微に対して
冬の肌のように敏感なのだ。
こんなことをしているうちは
絶対に主人公になれないことを
頭の片隅に入れているのにも関わらず。
一種の依存症もしくは中毒症状とでも
表現できそうな発想についての
処方箋を手にしていないからこそ
ただ向き合うことしかできない。
手にあるカード、環境や状況を鑑みて
ストーリーテラーを演じる先には
意識的にも無意識的にも抑圧している
自我との対面が用意されていて
目を背けている情けない現状を
書き綴った令状を突き付けられる。
無駄に歳は重ねたからこそ
避ける術は持ち合わせているけれど
いかんせん、新しい展開に限っていえば
無条件降伏せざるを得ない。
知識と想像力の限界を見せられる
残酷さは、時に我を見失う。

友人の何人かが独立した。
新たな門出は祝すべきだとは
ちゃんと理解している。
一応、年齢的には大人だから。
しかしうまく処理できない。
話の縦軸的には同じだが
付属する感情の違いに戸惑う。
無い知恵を絞って浮かんだ仮説を
積み上げてきた計算方法を用いて
地道に考察を呆れるほど繰り返す。
数学と物理のアプローチでいえば
恐らく前者にあたる推論が導くのは
あまりにも救いようのないものであり
計算を止めたくなる衝動に襲われる。

ピーターパン・スタジオを
ある意味、公に立ち上げた彼の
言葉や文章の節々から滲む強さ。
土俵際、危機的状況を好み
自分の打席で結果を出す
クラッチヒッターと被るからこそ
誰もが背中を押したくなる魅力が
彼には漂っているのだろう。
近くで見ているとよくわかる。
主人公になるための
必要条件みたいなものも
見えてきてしまい
脇役との絶対的な違いを知る。
主人公に一番必要のないことを
彼はあまり持ち合わせていないのだ。
それは「客観視」という視点だ。
語弊があるが、その対象は自分自身。
SNSが台頭し、自らを探すことが
容易になった社会の中で
誰もが自分を知る機会を
簡単に手にできる副作用。
何者かになりたいがゆえに
いつしか誰かにとっての自分を
演じて、何者かになったつもりでいる。
巷で言われる「周りの目」を
大なり小なり意識した末路。
私はこういう人だから、という
訳の分からないことを
初対面で口にするバカに
共通しそうな作られた自分。
自分の意志で踊っていると
思い込んでいるつもりだろうが
SNSというダンスホールで
踊らされていることに
全く気付いていない。
そんな奴と一線を画すのが
彼なんだろうなと思う。
文字、動画や写真ではなく
もはや幕末志士といっても
過言ではない意思があり
行動として自分を表現する。
音楽を通した自己表現も
絶えることなく継続しているが
それだって、行動の積み重ねだ。
平成の奇兵隊を作るとか
口にするあたりロマンを感じる。
友人兼同居人の贔屓目だろうか?
そんな奇天烈なことを繰り返す姿を
見ていると改めて思ってしまうのは
大がかりな物語の主人公には
「客観視」が不必要であること。
リッチマンの日向徹しかり
ガリレオの湯川学、火花の神谷などは
所謂、一般常識を無視した奇人であり
自分本位で生きている様子が伺える。
その自分中心的な言動が物語に
色彩をつけて、面白くしている。
それはフィクションの世界に限った
狭義の話ではないだろう。
実社会に目線を移しても
奇人が世界を変えている事実は
往々に存在しているのが現実だ。
そうした知識を蓄えているから
余計に期待をしてしまうのだろう。
でも割と期待には応えるし
定期的にホームランも打つからこそ
物語にすれば画になるのだろうし
仲間も増えていくのも納得できる。
既存の世界の登場人物で表現するならば
火花の神谷を見る徳永の目線で
彼を見ている気がして、笑えてくる。

僕には主人公として立ち振る舞う
素質のようなものが欠落している。
自分とは何かを問いすぎた末に
妙に自分について知った気でいて
自らで全ての事柄を制限している
気持ち悪い感覚を抱くことも増えた。
SNSよりも厄介なダンスホールで
踊らずにピエロの格好をして
とぼけている姿は滑稽だ。
SNSというダンスホールで
踊らされている奴よりも
極めて重傷でタチ悪い。
でも僕はそんな風に生きている。
客観視という見え方に固執して
結果「固定観念」に手足を縛られた
愚か者と被る生き様は他人頼り。
恐らく主観もできていないから
自分自身で可能性という光を
無くしていると思うことすらある。
でもそんな分厚い殻の中にいることに
安堵感を抱いている側面もあるから
救いようのない。まぁ厄介だ。
近くにいたら友達になりたくない
ランキング上位も夢ではないだろう。

ただ友達にしたくないランキングで
上位を狙える要素を詰め込んだ
愚物の僕にも不思議なことに
捨てたくないものが幾つかあって。
思春期から自己分析を繰り返し続けて
多種に渡る希望や雑念を篩に掛けても
未だに残り続けるものがある。
使い古した音楽プレーヤーの中で
新曲の波に何年も耐え続けながら
今尚残る一曲みたいなものが。

この複雑で、ある意味単純な現実。
終止符を打つタイミングを
単純に見失っているのか
それとも捨てられないのか。
目に映ってしまう事態の原因。
真相はまだ闇の中だけれども。
闇の中に埋もれる答えを探して
今も長々と文章を刻んでいる。
なんてできるだけ前向きに捉えると
世界の表情が少し柔和になる。
初デートで浮足立ってしまう心境に
それはどこか似ている。
客観視が武器であると思い込んで
有意義に扱えるように
僕は今日も物語を紡ごう。

まだ知らないことで溢れる
刺激を感じられる明日に
一抹の思いをはせて。

文責 朝比奈ケイスケ

如月、表情が変わる少し前。

世界は、ふとした瞬間に表情を変える。
まるでゲリラ豪雨のように激しく、
それでいて片思いのように静かに。
唐突にやってくる転機を僕は
いつだって見逃していた気がする。
いや、見ないようにしていたという方が
正しいだろうか、情けなさ全開だ。
でもそんな凡人を通り越してしまった
劣等生の僕にだって一筋の光が差す
可能性は往々にして存在しているはずだ。
だから今度は見逃さないように
僕は僕の気持ちを整理して
正直になる必要が求められる。

それを人は転機と呼ぶんだろう。

冬の寒さが身体にぶつかり
手足が震える夕暮れ時。
久し振りにファミレスで
幾つかのレポートに従事し
厄介な問題と向き合っていた。
大学生の頃、深夜の喫茶店で
タバコを吸いながら問題を
解いていた記憶がぼんやりと
頭を駆け巡り、懐かしさが心を染める。
あれから月日が経過して早七年くらい。
気付けば僕は社会人になっていて
業務命令の研修を終えてから
喫煙席でテキストやらスマホと
向き合いながら、巡らす思考回路。
少しだけ大人になったと思う反面で
案外やっていることに変化がないな、と
少しばかり自嘲的になってみたりして
なかなかの忙しさに追われていた。
でも、どこか既視感がある。
不思議だな、と思いながらも
その答えを探さずに進めるペン。
この瞬間は、それが正解であり
多分、最善の一手だった。
 
僕には幾つかやるべきことがある。
それを篩に掛けて分別することで
見えてくるのは不必要に染まる日々。
やりたいことはあるのにも関わらず
やれていないことばかりだ。
これを社会の仕組みから生じる
一種のしがらみと呼ぶのであれば
知らぬ間に片足が嵌っていることを
痛感せざるを負えない。
なんて風に頭を抱えてしまう。
でもどこか安堵感があるのは
必死にならなくても生きていける
方法を持っているということに
自覚してしまったからだろう。

でも、もしも、あの時。

以前開催したイベントの一環で
書き起こしたショート・ショート
「前夜」の言葉が蘇った。
あれは諦めからの立ち直しを
誓う意味があったはずだ。
冷静に状況を鑑みたのは
そのあとすぐの話であり
藁の中から針を探すように
丁寧に状況を見つめた。

状況は何も変わっていない。

その一言だった。
学生時代にはあった自由は
社会人になって不自由に変わり
色々な拘束、価値観によって
視野狭窄に陥っていたのかもしれない。
勉強が仕事に移り変わり
バイトから正職員に変わっただけ。
もちろん、相応の責任はあるけれど
僕はただの一兵卒であり
無駄に背負う必要はないのだ。
状況で負うべきものが多いけれど
まだ背負いこんで窒息するには
早すぎるように思えた。

そうだ、僕は見えている表面だけに
気を取られてしまった結果
裏側を見ていないのかもしれない。
どんなに不自由であったとしても
可能性は確かに存在しているのだ。

そんな風に感じた帰り道に
音を立てて震えるスマートフォン。
着信主は僕が出会った人間の中で
最上級の夢追い人からだった。
開口一番、彼は僕の想像を
容易に抜き去って途方もないことを
僕に告げる。やっぱりバカだ。
至高のバカ。振り切った感覚は
気持ち良さすら感じるすがすがしさ。
いや、違うかな。彼はバカじゃない。
好奇心旺盛の純粋無垢な少年なんだ。
そう悟った時、臆病風が追い風に変わる。
いい意味でバカという単語を使っているが
それは僕の理解の範疇を超えた人種であり
彼に相応しい言葉が見つからないだけ。
才能とか誰かの手あかが付いた単語で
表現できない人間が人生という音楽を
楽しそうに奏でて、日々を彩る姿を
僕は誰よりも近くで見続けてきた。
時には共に形にしたこともある。
恐らく恵まれているのだろうな。

だから彼に並ばないといけない。
僕にある僅かな可能性を信じて。

ある大好きな冒険漫画に残る
好きなフレーズが
頭に浮かんだけれど
敢えて胸に秘めておくことにする。

代わりに僕が思う言葉を綴って
今回のブログが終わりにしようと思う。

「一見狂っているように見える奴が世界を変える人間だ」

文責 朝比奈ケイスケ

睦月に相応しく。

明けましておめでとうございます。

誰が読んでいるかなんて知りませんが

仮に読んで頂いている方がおりましたら

その貴重な読者の方へ届けば幸いです。

 

年が明けて、平成三十年になった。

元年生まれの僕にとっては

区切りの良い年に幾ばくかの

感慨深さのようなものを抱き

それに相応しい一年にしたい。

なんて言ってみたとことで

毎年のように感じる普遍的さが

僕の中には確かに存在していて

その感情の置き場所には

毎年、頭を抱えている節がある。

正直な感想。生産性が皆無だ。

今年一年をどう彩るかなんて

考えれば考えるほどワクワク内容に

どっぷりと浸かれるのは

せいぜい、三が日くらいまで。

気付けばありふれた日常の持つ濃い色に

おもしろいくらい上書きされてしまい

結局のところ、忘れられるのがオチ。

それが人生とするのであれば

かなり充実している人生を歩んでいるだろう。

しかし、現実はそんなに甘くはなくて。

それは生きているけれど、活きていない。

由々しき事象の一つである。

ありふれた日常に個人の色を差し込むには

やはり相応な行動が必要である。

拙い人生経験で身に付けた価値観だ。

では、何をするか?

手っ取り早い方法として挙げられるのは

「パブリック・コミットメント」

誰かに目標を伝えるという心理学的手法。

要は逃げ道を無くす、単純明快な方法論を

久し振りに行なってみようと思った次第。

毎年、やりたいことリスト的なものを

綺麗なノートに書いているのだけれども

見返すことなど皆無だったりする。

仮に誰かが見ている可能性が1%でも

ここに書き起こすのも悪くない。

そんな結論に落ち着いたからこその

出来心で目標を紡いでいこうかな、と。

まぁ、そんなのは体の良い後付けで

本当は友人の馬鹿らしい発言に

即発されただけ、情けないけれども。

 

彼は明確な日にちを決めて

「路上ライブをしながら日本一周する」

なんてアラサーらしからぬ発言を

夜な夜な伝えてくれたからだろう。

自由人の為せる技。

勤め人でも正社員でもない

責任が希薄な人間の戯言。

文字だけ見れば、そう捉える人も

少なからずいるとは思う。

事実、彼は自由に生きているから

その面では否定はしないが。

それでも起業という選択肢を行使し

自分の生きたいように生きることを

クソみたいな社会で体現しようと

日々を活きているのだから

まぁ当然の成り行きであるし

彼の創造的な行動は面白いほど

他者を巻き込み、染めていく。

不思議なポテンシャルがあるから

面白い土産話の一つや二つは

簡単に提示してくれるだろう。

凄い奴だな、なんて思って

面白おかしく傾聴してみるだけでも

それは有意義で生産性の高い時間だと

容易に予想できるが……。

「が」

これが割と重要であり

(後々、記述していくとして)

こうして心理学的手法を用いる

今に至っているわけである。

 

目標① 執筆に取り組む

執筆にしっかりと取り組む。

小説家見習いとしてのライトで

僕を照らせば、至極当然な目標だ。

昨年で言えば、新人賞の一本出して

『ピーターパン・フェス』という

イベントの中で一本ショート・ショートを

書き上げた時点でバーンアウト的な状況に

陥ったことは恥ずかしいけれど否めなくて

キーボードから遠ざかってしまった。

でも、消化不良のようなものが胸に残り

Twitter上で140字小説に取り組む日々に

移り変わったのが、秋から冬の現状。

難しさはあるけれども書いてみれば

幸いなことにレスポンスもあって

そこそこ満足していた節があり

やるべきことを別の物にすり替えて

逃避していたことは否めない。

でも、制限の中で収まらない余白が

燃やして灰になった薪の残骸のように

僕の中に残り続けていたことで

しっかりと残したいと訴えかける感情に

素直になってみたいからの目標だ。

ここで大作とか言っちゃうのは

簡単だけど、恐らくとん挫する。

だから、まず「書く」ことに

意識を向けていきたいと思い

この目標を立てた訳です。

 

目標② やれることをやる

僕は大したことのない人間である。

学校を舞台にした作品で言えば

主要キャラの通う学校にいる

名前すら持たないクラスメイト。

所謂、モブキャラである。

自己否定でもなければ

卑下している訳でもない

冷静な分析の結果である。

(自己分析には自信があります

中学時代から考えていますから)

大したことのない人間なのだと認識し

無理に背伸びをせず、多くの人に迷惑を掛けて

生きてみることで見えるものがあるのでは、と

不意に脳裏に浮かんだ。これも彼の影響。

「カリスマは変人でなければならない」

彼は紛れもなく、そちら側であり

馬鹿げた未来図を創造できる人間だ。

長年、彼の横にいて思うのは

どうしょうもないほと凡人な自分の姿。

だから無理に背伸びをしていた気がする。

それを『ピーターパン・フェス』が教えてくれた。

才能という便利な言葉で表現すれば

そうしたキラキラするものは持ち合わせていない、と

イベントを通して痛感し、己の無力さに落胆した。

一見、悪いことに見える境界線は今後の人生において

重要な意味を持つ再発見なんだろうと思うことにした。

無力さや才能の無さは僕が持つ取り柄の一つ。

背伸びすることなく、迷惑を掛ける前提でいれば

恐らく、無能さは磨けば武器になる。

過去に囚われ、嫉妬全開の自分にも使い勝手はある。

現在の社会というか働き方については転換期であり

ノマドワーカーや広告収入などの新たな方法の

生活の在り方が生まれて、認知されつつある。

でも、そこに飛び込めるのはマイノリティ。

不安・恐怖・自己否定・マイノリティなどの言葉で

身動きが取れなくなる人間のほうが多いのがこの国の実態。

突拍子もない方法よりも堅実な方法を好むのが

国民性であり、積み上げてきた美徳。

その美徳は素晴らしいと思うし

現時点で僕もそちら側の人間だ。

リスクを背負う勇気など1ミリもない。

「でも」やりたいことはある。

カリスマが独自の活き方をするのであれば

凡人は地に着いた生き方の中で活路や

一筋の光明を探した方がいい。

この世界は、少数の天才と多数の凡人で

形成されている事実を言い訳にしていた。

天才の言葉には力があるし、惹きつけられる。

しかし両刃の剣であることを僕は知っている。

私にはできない。あの人だからできる。

そんな言葉で、踏み出す一歩を躊躇う。

僕のような凡人は言い訳を探すのが得意なのだ。

でも凡人や劣等生であることを理解し

地に着いた日々の中でやりたいことを体現できれば

天才の言葉にはない一つの力を見出すことができる。

今の日本に蔓延る「共感」だ。

凡人が実績を上げれば、不思議なことに

あの人にできるのであれば自分もできる、と

急に前向きになれたりする。

僕はやれることをやっていき形にする。

天才と凡人が同乗している船ほど

強いものはないのではないか、と

ぼんやりと考えが至ったので、この目標。

 

二人の共有する作業部屋である

『ピーターパン・スタジオ」という舞台から

派生する新たな物語に少しばかりの差し色として

存在を表現できれば、多分見ている世界は

劇的に変わる。未来は変わるはずだ。

というわけで、この大きな目標二つの目標を掲げ

僕にしかできない役割を従順に担っていこうと思うわけです。

 

あぁー、こんなこと書いたら

ちゃんと小説書き上げないといけないな。

目標を掲げて、表に出すのはシンドイな。

ぬるま湯にいるから、これくらいの荒療治は

必要だという判断が誤りでないことを願うばかり。

以降、小説執筆と140字小説に従事していきます。

駄作でもなんでもいいから積み上げる。

城を乗っける石垣を作り上げるのが今年の課題だ。

やっぱり文章を書くのは楽しいな、うん。

 

朝比奈 ケイスケ

足跡①

師走も後半戦。

気付けばクリスマスも過ぎて

年末へとギアを変えている風景が

自然と目に入ることに自覚的になる日々。

振り返れば色々なことがあったし

初体験の出来事にも遭遇した。

感傷に浸るわけではないけれど

確かに幾つかの出来事を経験し

何かを得て、何かを失った。

やけに敏感なその感覚に

戸惑うことも少なくない。

能動的に動き出さずに止まっていても

工場のベルトコンベアみたいに

自然と動いてくれる時間や行事が

やけに尊いことであったことに

気付けるあたり、厄介な年齢に

差し掛かっているのだろうか。

三十歳成人説、という考え方がある。

二十歳では精神的にも社会的にも

未熟であることを踏まえて

上記二つの項目が成熟するを

三十歳と据えた考え方。

もちろん、その他にも要素は存在するし

それだけではないことは承知しているが

切り取れば、確かに的を得ている。

あくまで大半の場合という注書きが

必要不可欠であるけれど。

目に見えない論理みたいな因子だけれども

生きていく上で重要な役割を果たすからこそ

起業、独立、結婚、出産などといった転機は

アラサーと呼ばれる年齢に集中するのだろう。

現に、誰かの転機を眺めることが多かったし。

それを白と黒、良し悪しで判断することは

極めて愚策であることは人生経験の中で

把握しているはずなのにも関わらず

影を覗こうとする邪な顔が現れる。

厄介な特性だな、と自嘲したところで

大方、何かが変わることなんてない。

知っている、これも何度も経験してきたから。

じゃあ、ボクは何をする?

なんて使い古してボロボロの問題提起も

もはや意味を持たないし、ワクワクもない。

恐らく、今持ち合わせているものは

メインを際立たせるパセリのようなもので

手を付けるのすら億劫になるくらいの

言葉にできない抽象的因子。

わざわざ具体化し、追い求めようとする

活力なんてものは体内から抜け落ち

学校に取り残されたプランター内の

土のように枯渇している。

主人公になれないのはまだしも

サイドストーリーですら端役で

そんな自分の在り方に失望している節が

僕の中に存在していることに気付く。

行動をしていないことが理由であれば

こんなに頭を悩ますことではないのだろう。

だって行動をすればいいのだから。

でもそれができないまま漂っている。

動機付けの弱さか。

未来への失望か。

無力さへの降伏か。

どれも正解の一部なんだろうけれども

パズルが気持ちよくハマる高揚感は

正直言って、皆無。おかしな話だ。

主人公にもストーリーテラーにも

ほど遠い現実は、諦めの色で

確実に塗り殴られている。

呆れるほどの愚物は今日も意味もなく

感慨になるトリガーを探して

小さな世界をぼんやりと眺める。

どうにかなってしまいたい。

そう訴える心の叫びに耳栓をし

漠然とした不安をほんの少しだけ

和らげる場所を探して

新宿行終電の電車に飛び乗った。

 

 

 

 

師走は苦い。

師走です。今年も残り僅か。

久し振りに更新です。

どうも朝比奈ケイスケです。

一人暮らしを始めてからの相棒の様子がおかしくなり

気付けば、HDが壊れる寸前でネットどころか

ろくに動かせない状況に陥って、早4か月。

なけなしの貯金を切り崩して

ようやくNEWパソコンを購入し、更新ができるようになりました。

本当はスマホからの更新を試みたのですが

予測変換に嫌悪感を抱き、諦めた次第です。

近況報告。

8月に「ピーターパン・フェス」というイベントで

「前夜」というショート・ショートを書き上げて

一緒にイベントを企画した

成峰(https://twitter.com/masamineFOLK)の

音楽と掛け合わせた「音楽×小説ライブ」を行なって以降

嘘みたいに手が止まる状況と向かい会うことになりました。

あのイベントは、今年のハイライトです。

6月締め切りの「ポプラ小説新人賞」に投稿した

中編恋愛・青春小説も見事に一次選考で撃沈し

(自信作だったのでショックですが……)

項垂れることばかりの日々です。

ここにあげることも考えましたが

見えている修正点を改善して

今、最も難しいと呼ばれる

小説新人賞に送ることに決めました。

(そこで落ちたらここであげます)

その中でも7月から開始した

Twitter上での140字小説は継続していて

何とか小説家見習いの立場を崩さずに

のうのうと生きています。

『中長編の小説で賞を取る』という

目標は今も持ち続けていて

相応なプロットを日々考えています。

140字小説を書いてみて。

数えてませんが、約40~50作品を紡いで

Twitter上であげ続けて5か月。

幸いなことに『いいね』を押してくれる方も

少なからず存在してくれている状況です。

140字小説リレーにも参加したりと

小さな世界では充実しています。

しかし、そこで出会った方々が投稿する

140字小説の良さに感化されながら

もっと早くこの方法に気付けば……と

後悔するのは愚かな話で。

僕が好むような文章を描くのが

一回り年下の高校生だったりするので

やっぱり、思うことはあります。

同い年の朝井リョウさんの小説や

ラジオで語る話には感心してしまいますし

悶絶、なんて表現が相応しいような感覚に

染まりながら『できることをやる』という

信念のもと、毎日140字小説を綴っています。

ある意味、『いいね』は評価を目視するには

重要な指針で、割と一喜一憂しているけれど

本当に書きたいことは書かないでいる天邪鬼。

次の小説に活かせれば、と思う次第です。

140字小説は無駄な文字を省いて

分かりやすく情景を伝えることに

特化している小説なのですが

シェイプアップの方法を

未だに導けないので苦戦中。

普段の会話の仕方を含めて

何事も遠回しに表現するきらいのある私は

日々、四苦八苦しています。

小説は掛け算?

凡人を気取っていますが

小説執筆に関しては

緻密に計算されたプロットよりも

頭に浮かんだ映像を文字にしていく、という

感性型の執筆がメインなので

浮かばない時は、奇声を挙げたくなる

厄介な衝動に駆られたりしています。

その衝動を収めるために

小説に関して割と考察をしたりもします。

なので読書をする時間は確保しようと

努力していますが、それもあまり取れず

ストレスフルな日々が続いたりしています。

そして浮かんでいた仮プロットを

物語にされていると、絶望の側面を見た気がして

言葉にできない感情が身を包みます。

最近、思うのは小説を書く方法論に

何らかの掛け算があること。

○○×○○みたいな。

例えば朝井リョウさんの代表作

「何者」で言えば

就活×Twitterみたいな感じです。

僕の場合、片方が出てきても

もう一方が出てこないことが多くて

頭を抱えてしまう訳ですが……。

そう考えると、小説は掛け算だったりするのか?

なんて思うことが多いです。

100を1にすることが小説と言われていますが

それもままならない私はスタートライにも

もしかしたら立っていないかもしれない。

そんな恐怖心は常にあったりします。

もしも才能で全てを決められてしまうのであれば

私は小説家見習いを名乗る資格がないのかもしれませんが

それでも文章を紡ぐのは、才能よりも欲求が勝っているから。

そして杜撰な文章でも「面白い」と言ってくれる

誰かがいるからなんだと思ったりしていて

その一念への具体的な成果を求めているのかもしれないです。

そんなことを思いながら文章を書くのも悪くない。

明日は休みなので、誰かに応えられるような

自分らしさを出せる物語を築くプロットに

尽力しようと思う次第です。

 

 

朝比奈ケイスケ(https://twitter.com/tukimiso_12/likes

 

自己紹介的文章。

小説家希望のアラサーですが何か?

 

どうもはじめまして。

朝比奈ケイスケと言います。

このページを覗いて頂き、ありがとうございます。

私は小説家を目指している二十八歳のアラサーです。

呆れるほど地雷臭がするワードですが

それなりにちゃんと社会人として生きています。

三十までにこれからの方向性を決める。

竹内真氏が描いた青春小説「風に桜が舞う道で」にて

主人公の親友リュータが言い放った鮮やかな台詞。

会話文の十七文字に感化されたのは十九か二十歳の頃。

そのセリフに乗っかって、自分自身の生き方を模索しております。

私にとって小説は人生の大半を占める重要なものであり

「小説家になりたい」と思う一念は中学生くらいから持ち合わせています。

でも、思っているだけでは何も変わらない。

動き出さないことには世界は動き出さない。

なんて真理を十年くらい見て見ぬフリして

気付けばアラサー。それでいいのか?という自問自答の日々。

とりあえず自作小説を投稿できる場所を作るべきだ、という答えに至り

このページを立ち上げた次第です。

失敗は成功のもと

手持ちの自作小説が幾つかあります。

それを切り出していくことはクリエイターとして重要ミッション。

小説に限らず、クリエイティブなものって外に出さないと

何も始まらないことを私は何もしなかった時期に

教訓として知ることができました。

なので、出版社に投稿していない小説あるいは落選した小説を

このページに投稿していこうと考えています。

何かしらのリアクションを頂けたら幸いですが

物語を読める場所として今後展開していきますので

それだけ理解して頂ければオッケーです。

また、ストックではない新作も書いていきます。

小説以外にも物書きとしてエッセイ的なものを

刻んでいけたらとも思っております。

何事も誰かが評価してこそ色が付く。

小説を書くことは正直誰でもできます。

原稿用紙数百枚で紡ぎ、一冊の本になるのが

小説であると思う人もいると思いますが

世の中にはSNSを通じて短い物語を作り上げる

ツワモノがごまんといる時代です。

だからこそ別に文字数なんてのは関係なくて

一つの物語を描くのは誰でもできるんです。

でも文字を紡いで作り上げた物語を

誰かに読んでもらいたいと思うのが小説家の性。

そのためには読者が必要なのです。

新人賞に送ったとして、出版社の人に読んでもらったとしても

大賞を取らない限りは世に出ることはありません。

それって、今の時代にマッチしていないですよね。

だって今は、全人類総クリエイター時代。

動画投稿サイト、小説投稿サイト、など

世界にはクリエイティブなものを外に出せる窓口が

やっぱりごまんとある訳です。

その中で一際存在感を放ち、すごいなって思う人もいれば

えっ? マジですか? って思う人もいます。

それはある意味、誰かに見て貰えているからこその評価。

面白いから読んでいる、というのがベストですが

こんな奴ができるんだから自分にもできる、と思って

一読者が書き出したものが大成する可能性もある訳です。

ちなみにですが……。

私は小説、物語を考えること、読むことが大好きです。

竹内真、道尾秀介、朝井リョウに中村文則……(敬称略)

他にも話題作からあまり有名では作家まで読みます。

なので、そうした共通点から繋がりができたらと思っています。

以後、よろしくお願いいたします。

余談ですが、ツイッターにて140字小説を

不定期で挙げております。

こちらも是非、よろしくお願いいたします。

アカウント@tukimiso_12