忘れられない【ショート・ショート85】

「雫ちゃん、忘れられない恋ってある?」
 送迎帰りの車内で先輩に唐突な質問を投げかけられて、私は返事に困った。何を言っているのだろう、いきなり。本音を隠すように笑みを作って誤魔化そうと試みた。でもうまくいかない。さっきまで、おばあちゃんやおじいちゃんのにぎやかな声が響いていたハイエース内とは思えないほど静かで、先輩の声は行き場所をなくしたように車内に沈殿していき、そしてエンジン音にかき消されていた。
「いきなりなんですか?」
 無言の環境下で始まった先輩との根気比べに負けた私は、観念するように言葉を発した。そして運転席で小さく動く時計を見つめる。残り15分。この後の会話の展開が読めない中、話題を振った先輩を撒く方法を模索する。
「雫ちゃんって、男性職員と適度な距離を取ってるし。それに飲み会で盛り上がっている恋バナとかも参加しないじゃない? かといって彼氏がいる訳ではないらしいし。私、何か忘れられない恋でもあるのかなって思っちゃって。ちょっとした興味心で聞いてみたの」
「私はそういう恋の経験したことないので羨ましいです。なんだか先輩の恋の話聞きたくなったので、聞いていいですか? 先輩の旦那さんとの出会いって何だったんですか?」
 結婚して3年になる先輩は常々「誰かを好きになることは素晴らしいこと」だと力説する節がある。でも決して押し付ける訳でもなく、ただ自分の感想を口にしているだけだというのは口ぶりから伝わってくる。私もそうだとは思う。けれど若干の嫌悪感を抱くのも本音だった。仕事中にプライベートに踏み込んでくることについては嬉しいけれど、恋の話だけはしたくなかった。
 その思いが私の口を動かす。正直言ってしまえば、先輩の恋の話なんてどうでもよかった。でも先輩は楽しそうに出会いの話を始めた。私は気の利く相槌を打ちながら、恋バナを羨ましく聞く後輩役を全力で演じる。でも頭の中では、楽しそうに話す先輩に違和感を抱いていた。なんでこんなにも楽しそうに話せるのだろう。
 私は恋の話をすることが苦手だ。自覚はしている。だから話さない。理由を考えた時期もあったけれど、辿り着いた結論は曖昧で掴めた感じはしていないけれども。口にすると鮮度が落ちるというか、なんらかの帰着をしなきゃいけないし、話し終わった後に求めていない意見をもらうことに抵抗感があるからなのかもしれない。恋の話、しかも過去形になると元カレの悪口か、未練の有無みたいな当事者だけで話に辿り着くことが嫌いなのだ。色々なことを何も知らないからこそ、好き勝手いうことが耐えられないのだと、先輩の運転している背中を見つめて思った。そしてこれから先も先輩に話すことはない気がした。ハイエースは狭い道を巧みな運転技術で通過していく。先輩は表情一つ変えずに、恋バナを続けている。私は早く事業所に戻りたくて仕方がなかった。
 狭い一本道を抜けて丁字路を右折したハイエースの車窓から事業所が見えた。安堵感が芽生えていくのを感じる。でも油断はしない。私は今、先輩の恋バナを楽しそうに聞く後輩なのだから。
 サイドミラーを見ながらアクセルをゆっくり踏みながら、車止めに向かってバックする。バックが苦手な先輩と運転を代わるのは送迎を組む時に生まれた私たちだけのルール。今日も健在だ。運転するのは負担が多いから助かるけれど、バックだけの運転はなんだか申し訳ないと感じている。早く、自分で運転していかなきゃと思う。
 車止めに後輪が当たったことを確認してからエンジンを切る。走行距離を書類に書き込み、外に出ると先輩は笑って私を待っていた。
「ホント上手だよね。どこかで習ったの?」
 感心するという表情を見事なまでに表現している顔を見ながら、首を横に振る。
「教習所以外では習ってないですよ。勿論、無免許で運転もしてませんよ」
「そうだよね。雫ちゃん、今日もありがとね」
「いえ」
「雫ちゃんには、きっとふさわしい人が現れるから。その時は絶対に逃しちゃダメよ。あと臆病になっちゃダメ。人を好きになることは素晴らしいことなんだから」
 そう言った先輩は踵を返して事務所に向かって歩き出す。私はその背中を見つめながら、静かに口を動かす。
 私がバックがうまいのは理由があるんです。それと先輩。私、本当はしたことあるんです。忘れられない恋を。
 きっと、バックが上手いのは彼を忘れられないから。ずっと過去ばかりを見ているから後ろを見ることが得意なことになっていた。
 ねぇ、貴方は今も元気にしていますか?
 そんな私の弱弱しい声は、16時半を伝えるメロディにかき消された。貴方と何度も聞いた懐かしいメロディに。

 文責 朝比奈 ケイスケ

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です