星が遠い【ショート・ショート82】

 星が遠い。
 情けないほど陳腐な感想を抱く自分に嫌気が差すけれど、久し振りに見上げた空が遠く感じたのは、まぎれもない事実であり、東京で生活しているのだと自覚的になった。色々なことに溢れ、下を向くことばかり日常が般化していることへの危機感のようなものが胸を染めていく。
 タクシーが横を過ぎていく三車線の幹線道路を横目に歩いていると、マスク姿の人と何度もすれ違う。人工的な光が明るさを確保し、人の発明が聴覚を捉える。嗅覚は文明開化の副作用を嗅ぎ取る。思えば東京での生活は無理をしてばかりだ。憧れと現実の乖離をこれでもかと体験したから、時に逃げたくもなった。でも地元に戻る選択肢は持ち合わせていなかった。
「絶対に成功する」
 根拠のない自信だけを頼りに、啖呵を切って飛び出した地元の田園風景が恋しい。胸に奥に押し込んだ本音だった。全ての感覚が自然に染まる原風景、もう何年も帰っていない。冬の寒さを防ぐようにマフラーで口元を隠す。冷たい風は、未だに成功していない自分に突き付ける逆風のように思えた。あの頃は何が成功か正確には理解していなくて、漠然とした成功の断片を片道切符にしていた。
 何度も落ちたオーディション。何度も負けたコンテスト。店長に罵倒されて仕事終わりに職場で泣いたことも数えることも億劫になるくらいある。でも折れなかった。自分の覚悟を肯定するために、必死に練習を積んだ。時には東京にいた友達に片っ端から電話を掛けては、練習相手になってもらった。ひたすらに仕事に打ち込んだ。そんなことを積み上げたからか、時間の経過によって、拙いスキルは向上して、今では指定客も増えた。道具にもこだわりを持てる程度には収入もある。お客さんから「ありがとう」と言われる機会も増えたし「アナタのおかげで彼氏ができました」と満面の笑みで報告されたこともある。全て大切な財産で、大都会で生きていくための支えになっていた。
「私は私を幸せにできているのだろうか?」
 ふと抱いた想いは、きっと星を見たせいだ。悲しくなるほどに遠い星を。
 深夜未明にも関わらず光を照らし、救いの手を差し伸べてくれる優しさを体現したコンビニに立ち寄り、缶ビールを購入した。レジを打った肌の色が異なる彼は拙い日本語で丁寧に接客してくれた。
「イツモガンバッテマスネ」
 顔なじみになっている彼の言葉には温かさがあって、思わず泣きそうになった。彼にいつかの私の姿を重ねてしまいそうだった。
「アナタも頑張ってますよね。お互い大変だけど頑張ろうね」
 柄にもことを真面目な顔で口にした。すると彼はとびっきりの笑顔を浮かべた。
 ヤバい、泣きそう。
 コンビニを後にしてアパート近くの公園に足を踏み込んだ。都会とは思えない静けさが心地よい。心許ない街灯が照らすブランコに腰かけて、缶ビールのプルトップに手を掛ける。泡が口から少し溢れた。冷たい。缶に流れた液体をハンカチで拭き取って、ビールを飲んだ。苦さが口の中に広がる。
「深夜の公園で寒さに耐えながら一人でビール飲んでるとかヤバいな、私」
 今にも涙を流しそうになって、思わず上を向いた。澄んだ空に浮かぶ小さな星が幾つも目に入る。なんだか遠い、星ってあんなに遠かったっけ。
 カバンの中からスマホを取り出して起動させる。何通か届いていたLINEを流し読みして、返信せずにアプリを閉じる。緊急性というか、今返す気分にはなれなかった。慣れた手つきで音楽アプリを起動させて、ポケットに入れたイヤフォンを取り出して、お気に入りの音楽を流す。最近にハマったバンドのアップテンポが耳元で流れる。でも気分が良くなかったのは少しの間だけで、何だか違うなと思って停止ボタンを押した。まだAメロも終わっていなかった。
 サブスクリプションのおかげで無限にすら感じる音楽の倉庫から、今の気分に合う音楽を探した。まるで答えの無い哲学の問題のような時間。気付けば、高校時代に聴いていた音楽に辿り着いていた。今はめっきり聞かなくなったアーティスト、あの頃は神様のような存在だった。懐かしいメロディで始まったバラードを聞きながら、再び、顔を上げた。
 無数の星を指でなぞるように見えない線を引いていく。地学の勉強なんてちゃんとしてなかったし、もう十年以上経っているのに詰まることなく、正確に繋ぐことができる星座。冬の大三角を作り出した時、一人の男性の姿とボロボロで狭い部屋が浮かんだ。懐かしいな。あのプラネタリウム。
 高校時代、受験や将来など思春期に抱く言葉にならない不安から逃げるように入り浸った場所があった。市が運営していたプラネタリウムだ。小さくてボロボロだったけれど、天井には必ず目視できる星が浮かんでいた。最初は何でプラネタリウムなんだろうと疑問を持っていたけれど、気付けば通い詰めていた。それに興味はなかったけれど、毎回同じアナウンスだったから、知らぬ間に知識は身に付いていた。
 プラネタリウムを見た帰り道、さっき得た知識を確認するように夜空を眺めていた。星が近くに見えて、はっきりと目視できたから、星座を探すのには苦労しなかった。こんな風に英語の問題も解ければいいのにと本気で思った。スカートから伸びる素足に鳥肌を作りながら、時間も忘れて繋いだ星座。今思えば、現実逃避以外の何物でもなかった。でも音楽を聴きながら、眺める夜空は私が抱く不安を軽くしてくれた。
 そんな日々を過ごしている時に、私は彼に出会った。確か模試の結果が返ってきた日だ。第一希望の結果はC判定。教室の窓から見える曇天の風景を眺めながら、いち早く逃げたくなった。放課後、仲良しの友達の誘いを断って、自転車を漕いだ。15分も漕げば辿り着く避難場所。今日も静かに営業していたプラネタリウムのチケットを購入して、お気に入りの席に腰かけた。開演までは時間がって、見たくないのにカバンの中から模試の結果を取り出していた。C判定。変わらぬ結果にため息が出る。冷静過ぎる辛辣な指摘が綴られた評価は、今の私には鋭い刃物にすら見えた。
 そんな私の前に差し出されたハンカチ。伸びる腕は細くて白かった。私は思わず視線を腕の先に動かした。見覚えの無い顔と学ラン姿がそこにはあった。
「なんですか?」
 私は少し怖くなって、怒気を含んだトーンだった。でも彼は顔色を変えなかった。
「ハンカチですよ。アナタ、泣いてるから」
 彼は映画に出てきそうな紳士の振る舞いだった。思わず自分の瞼や頬を右手で触れる。指先に付いたのは、まぎれもなく涙だった。急に恥ずかしくなった。この場所から離れたいと思った。でも目の前に差し出されたハンカチ、いや優しさにすがりたくなった。
「ありがとうございます」
「それ、使ったら捨てていいから」
 そう言って彼は私の前から離れようとする。その姿を見つめていると、不思議と口が動く。
「あの、良かったら隣で見ませんか?」
 飛んだサイコ野郎だ。自分の不安を名前も知らない誰かに背負ってもらおうとしている。狂っている、今ならできない。絶対、こんなナンパみたいなこと。
「でも」
 ハンカチを差し出した紳士とは思えぬ狼狽した彼の姿は、ディズニーのキャラクターのような愛らしさがあった。
「今は一人でいたら、もっと泣きそうだから」
 何度でも思う。私は飛んだサイコ野郎だ。
 彼は戸惑いながら、そして諦めたように私の横に座った。そこからは沈黙の時間が流れ、そして部屋が暗くなった。聞き慣れたアナウンスが始まり、低い天井に星空が映し出される。私は人工的な空を眺めながら、時より彼を見ていた。髪が長くて目に掛かる前髪。くっきりとした鼻は横顔からでも存在を主張していた。彼は人口の空を眺めながら、時よりノートに何かを書いていた。
 上映時間30分のプラネタリウムがいつもより短く感じた。明るくなる室内。私と彼以外誰も居ない空間、部屋に鎮座する機械が今日はやけに存在を主張している。
 彼はノートを閉じて、立ち上がる。意外に背が高かった彼は、高身長を台無しにする猫背で歩き出そうとする。私は思わず彼に声を掛けた。
「あの、またこの場所に来ますか?」
 彼は戸惑った表情を浮かべながら「来週も来ると思う」と手短に答えた。
「そしたら、次会った時にハンカチ返します。今日はありがとうございました」
 私は頭を下げる。汚れが目立つカーペットが目に入る。もっと掃除すればいいのにと条件反射で思った。
「別にいいよ。ハンカチはあげる」
「でも」
 次の言葉が見つからない。こんなことなら、もっと男子生徒と話しておけばよかったと後悔した。私が言葉に詰まっていることを察したのか、彼はその場に立ち止まり、優しい口調で言った。
「時には泣いてもいいんじゃない?」
「えっ?」
「オレはアナタの事を知らないし、何があったのかも知らない。でもこんな誰も居ない避難場所みたいな場所で人目を気にせず泣いていた。なんか泣いてる人に何もできない自分が嫌だっただけだからハンカチを渡したけど、泣ける場所があるのは幸せなことだと思う。どんな理由だったのか、正直言ってどうでもいいけど、下を向いた分、いつか、ちゃんと上を向きなよ。そしたら星が見えるから」
 そう言い残して彼は踵を返して歩き出した。その背中は同世代とは思えないほど大きくて、逞しかった。
 曲が終わる。でも懐かしい青春の記憶は鮮明に残ったままだ。手に持っていたビールを口にする。さっきよりも炭酸が口に残った。
「何やってんの?」
 プラネタリウムのアナウンスの声よりも聞いた声が耳に届く。私は声の方に顔を向ける。短髪になって顔のパーツがハッキリとなり、くっきりとした鼻の持ち主が、ゆっくりと私に近づいてくる。
「星見てるの」
「こんな寂しくて星が遠い場所で?」
 私は開けずに地面に置いたままだった缶ビールを彼に向かって放った。こうなることを予測していた自分の用意周到さがおかしかった。
 夜の公園に描いた放物線。彼は左手で缶ビールをキャッチする。その薬指には私と同じ指輪をしていた。こんな寂しい場所でも誰かと星が見ることができるのは、きっと幸せなんだろうな。そう思ったら、自然と頬が緩んだ。

文責 朝比奈 ケイスケ

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