一室【ショート・ショート81】

 有線放送から流れる聞き覚えのあるナンバーで、我に返った。机に置いたスマホを手に取り、時刻を確認する。深夜十二時半。サヤカが部屋を出てから十分も経っていなかった。座り心地の良い自分には分不相応なソファーに腰かけながら、ぼんやりと部屋を見渡す。部屋の大部分を占めるキングサイズのベッドのシーツは乱れ、着ていた服は床に散乱している。人間という生き物でなく、一つの生命体として満たされないものを十個も下の女性に補ってもらったことを想起し、快楽を得た高揚感と背徳感とブレンドした感情を胸で処理する。
 金で全てが解決するとは思えないけれど、大抵のことは補えることを成長するにつれて実感する機会が増えた。給料日の今夜もそのことを実感する。良くも悪くも大人になった。でも胸に空いた穴を完全に塞ぐ方法を知らないまま過ごしている。一ヵ月に一度は生きていることに絶望し、全てを放棄したくなる衝動を収める為、女性を利用する。利用を始めた頃は、自分の感情やそれに類するもののはけ口にする行為に対して抵抗感を抱いていたが、気付けばいつの間にか消えていた。経験が生み出す慣れが、正常だったはずの思考回路を狂わす。揚句、生命活動の一環として捉え始めている節があって、救いようがなかった。
 でも事実として、自己肯定の低い俺はサヤカの存在に救われていた。同じように自己肯定が低いと嘆くサヤカもまた俺やその他の男が口にした肯定的な言葉、一般的なバイトでは稼ぐことのできない賃金によって救われていたのかもしれない。
 需要と供給。見事に噛み合って成立する関係性は、野ざらしにしていた金属バットよりも冷たかった。
 窓のない自分の部屋よりも広く清潔に保たれた空間の中で、一番の汚物は自分自身であるような気がする。ため息をこぼし、タバコを取り出そうとカバンの中を弄る。殆ど物の入っていないカバンは自分を投影しているようで応えた。タバコを取り出すタイミングで右手が財布に触れた。財布に入れた数枚の福沢諭吉は、ものの数時間で消え去った。代わりに増えた小銭の重さが現実を突きつけることを知っていたからこそ、すぐに距離を取った。クシャクシャになったソフトパックからタバコを一本取り出して、ジッポーライターで火を点す。先端から延びる紫煙を見つめ、どこで判断を誤ったかを振り返る。そしていつになったら、このジッポーライターを返すことができるのかを本気で考えた。
「これ、約束の証な」
 十年前、青臭い言葉を口にした友人から手渡されたジッポーライター。年々、本来の重さよりも重くなっていく。何一つ成果を挙げられないままに歳だけ重ねて、気付けば友人との距離は心理的に遠くなっていた。
 タバコが半分以上灰になった頃、LINEの通知が部屋に響いた。滅多に鳴らない通知音、誰からの連絡かはすぐに分かった。灰皿にタバコを押し付けてから、スマホを操作する。予想通りの相手からメッセージが届いていた。
『今日も呼んでくれてありがとうね。サヤカはね、ケンちゃんと会えるの楽しみにしてるんだ。だからまた呼んでね。ケンチャンからの宿題は次に会った時に伝えられるようにしておくね。明日からも頑張ってね。もし寂しくなったらいつでも呼んでね』
 スタンプや絵文字で映えるように編集された営業メールを読みながら、別の男の所に行く途中で文章を綴っているのだろうと思った。夜の店を通じた出会いでなければ、サヤカのことを独占したいという欲求に駆られるだろう。金で繋がる関係が陳腐で青い恋愛感情を抑止する。この関係も残り僅か、サヤカは来春にはOLになると話していた。そうなれば、きっと会うことはない。仮にどこかで再会したり、OLになってからLINEで連絡を取ることができれば状況は変わるかもしれない。けれどそんなことを期待して待つという選択肢を取れるほど若くはなかった。
 一瞬の快楽と自己肯定を得たとしても、魔法が解ければ形状記憶を施された負の感情によって元通りなる。不毛だと自嘲しても、手放すことはできない。
 俺は返信をすることなくスマホを机に戻し、ゆっくりと立ち上がった。そして少し湿ったタオルを片手に歩き出す。浴室の扉を開ける。シャンプーとサヤカの香水が混じった匂いが嗅覚を刺激し、部屋を後にしたサヤカの背中が脳裏に浮かんだ。

文責 朝比奈ケイスケ

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