昼下がりの逃避行【ショート・ショート80】

 聡との関係が本当の意味で始まったのは、トーテムポールの腰巾着こと藤村教諭の下手くそな朗読を聞いていた五限目のことだ。退屈のあまり居眠りを試みるも身体にまとわりつく蒸し暑さのせいで、なかなか眠ることができなかった。
 午前中勢いよく降っていた雨は午後になった途端止んでしまい、真っ青な空と暑さが代わりにやってきた。教室の窓から見えるグラウンドには、幾つもの大きな水たまりが出来上がっている。それを埋めるところから部活が始まる屋外で活動する運動部に対して、少しばかり同情してしまう。陸上部に在籍していれば、オレも汗をかいていたと思うと、退部して良かったと自分の選択を肯定してしまう。
 そんなことを考えてしまう程度に授業は退屈だった。持ってきていた小説も読み進める気が起きなくて、手持無沙汰を弄ぶように過去を回想することにしたが、五分とも持たなかった。そこには明るい将来への期待も、諦めたことへの未練が一切ないことを意味しているようだった。怪我も理由の一つだったけれど、それ以上に自分の為では無く、記録を塗り替えるだけ、言ってしまえば学校と自らが得る名誉の為に走ることに嫌気が差していた。怪我を押して出場した大会で準優勝して、表彰台に登った時に抱いた感情。帰り道に痛みがやってきて、結果的に今まで通りに走れなくなったけれど、準優勝が決まった時点で燃え尽きたのだと今になっては思う。
 走るという単純明快な行動を肯定できなくなった。我ながら情けない言い訳だと思う。本当は走ることでしか、自分自身を表現できない愚かさが情けなくなって、捨てただけ。ライバルがいれば変わったのかもしれないが、不幸なことにそんな奴は目の前に現れることはなかった。インターハイで優勝した川端は、将来を嘱望されるスター選手。住む場所が違う。そのことが分からないほどバカではなかった。
 短めの回想を終え、カバンから取り出した文庫本を机の下で広げた。残り十数ページしかなくて、あっさりと読み終えてしまう。広げ過ぎた風呂敷を半ば強引に畳み、無難な場所に落ち着いた結末。作家の個性を感じたが、それ以上の感想を抱くことはなかった。傑作を生み出す力量を持つこの作家は、三作に一作は駄作を世に放つという極めて分かりやすい方程式を持ち合わせていた。正直に言えば、読んでいる中で感じていた。結末を読む限り、今回の物語は見事にハズレだった。
 再びやることを無くしてしまい、教室内を見渡した。大半の生徒が眠りにつき、僅かなに朗読会に耳を傾けている生徒が見えた。窓側の一番後ろの席は、狭い箱の中を見つめるには絶好の場所だった。
「なぁ、ガイロジュってどう書くん?」
 隣に座る聡が小声で尋ねた。山中教諭の朗読よりも気になる似非関西弁が気になって仕方がなかったが、ノートを破って『街路樹』と書いた切れ端を聡に渡してやった。
「おお、こう書くんか。ありがとな」
「そこはおおきに、じゃないんだな」
 疑問に思ったことが口からこぼれた。
「だってニワカやし」
「そこは認めるんだ?」
「認めるも翼は見抜いている訳やろ? そんな細かいこと気にしてんと疲れんで」
 なんだろうこの自信は。理解を越えた何かが聡にはある気がして、その正体を暴きたくなった。
「街路樹すら書けない奴に言われててもな」
 今日初めて出会った転校生に対して、気兼ねなく話していることを自覚してしまい気恥ずかしさといつか怒られるかもしれないという不安が頭を過った。でもそれ以上に漫才のようなやり取りに不思議と居心地が良さを抱き、このまま続いてほしいと思った。
「しゃーないやん。忘れてんやから」
「携帯で調べればいいじゃん」
「お前、天才か」
「いや、聡がバカすぎるんだよ」
「ゆーなや。さっきから確信を。お前は東の名探偵か。古畑任三郎か」
 なんだろう、この感覚。こうして思った言葉を言っても良い相手と久し振りに出会った。中学校に上がった頃に抱いた他者恐怖、正確には自意識過剰のせいで、知らぬ間に言葉を選んでいたことに気付かされた。下手な言葉で刺激されたら、暴力やイジメがひどくなることを恐れていたのだろうな。なんだか情けなくなってしまう。違う場所、登場人物が異なれば、あの頃の自分とは違う自分に成れる。一世一代の賭けに出て良かった。
「ところで何書いてん?」
 アホなやり取りしている間、聡はペンを止めることはなかった。話しながら、何かを書いていた。同時に二つのことに取り組める器用さは、オレにはないものだった。
「翼も関西弁使ってるやん。しかもオレよりも流暢に」
「イントネーションの問題だろ。関西弁の教科書で勉強すれば、流暢に話せるようになるよ」
「まさか勉強してたんか? わざわざ地方の方言を。なんや、最年少の民俗学者なんか?」
「小学校の頃、東京弁って関西でなじられたからな」
 わざと下を向き、落ち込んでいるような演技をしてみた。事実、父親の転勤のせいで関西に行くことになり、言葉の違いに苦しんだ過去があった。今に思い返せば、れっきとしたイジメと定義できるだろう。その自覚症状よりも、どうせ大人になったら東京弁と罵った言葉を使う羽目になってしまう未来が待っている可能性を微塵も感じさせない純粋さをバカにしていたのかもしれない。同級生達の想像力の無さを見下して、自己擁護に走っていた。多分、自意識過剰の根源はあの頃に根を張っていたのかもしれない。
「……。わりぃ。考えもしなかった答えで掛ける言葉、見つからんかったわ」
 ヘタクソな演技に影響されたのか、それとも単純に申し訳なく感じたのかは定かではないが、聡はひどく神妙な表情を浮かべていた。ただ、この表情が演技であるようにオレの目には映った。
「探さなくていい。遠い過去だ」
「達観してんなぁ」
「で、何書いてん?」
「リリックや、リリック」
 数秒前の神妙な表情は嘘だと言わんばかりの嬉しそうに言うの顔は、純粋な少年と表現できた。十七歳になって、こんな表情ができる人生が少し羨ましい。
「わざわざ英語にしなくていいだろ。歌詞で伝わるんだから」
「リリックってカッコ良くない?」
「はぁ?」
「だから、カッコ良くないって聞いてんねん?」
「リリックにカッコ良さを感じる時期は、遠の昔に過ぎ去ったよ。洋楽にハマってるっていう背伸びした中一か? それとも遅くやってきた思春期か?」
「いや遅すぎるもなにも、今思春期真っ盛りやん」
 当然の返しに一瞬、言葉に詰まった。
「……あぁ」
「そうやろ?」
 首を右に捻り聡の顔を見る。勝ち誇ったと言わんばかりの顔は、満足そうだった。オレは苦笑を浮かべ、黒板に目線を移した。知らない間に、白とピンクのチョークで幾つかの言葉が描かれていた。朗読会の題材についての解説、述語の使い方など別に書くほどでもないものばかりで、緑の板は半分埋まっていた。
「で?」
 板書するフリをしてペンを持った左手を動かしながら言った。
「でっ、てなんや?」
「なんで歌詞書いてんの?」
「歌詞やない。リリックや。魂のリリックや」
「リリックって言いたいだけやん」
「ちゃうし」
 否定した声には、プレパーラートくらい薄い怒気が含まれていた。
「じゃあ、何のために?」
「曲作り」
「何のために?」
「シンガーソングライターやから」
「そのワードで全てが丸く収まるのは、有名アーティストだけやけど?」
「有名アーティストの卵やからかまへんやろ?」
「自分で言うか?」
「自分で言わな、誰も言わんしな。しゃーないねん」
「貴方たち、授業を聞く気あるのか?」
 藤村教諭の声が、オレらのしょうもない会話に割り込んできた。折角の会話を邪魔されて苛立った。彩りのためだけに置かれたパセリを見るような目で、藤村教諭の顔を見た。不満げな気色の悪い顔が目に映る。
「起きてるだけ、机に突っ伏して寝てる奴よりかはマシだとは思いますけどね。そこんとこどう思ってるかで、オレらの反応変わるんですけど?」
 聡は躊躇うことなく言い放った。藤村教諭の顔が歪み出す。
「キミが噂の転校生か? 山下先生が言ってたのも納得だな」
「オレ、噂の転校生なんですか? それは名誉ですけど、今関係ないっすよね?」
「授業を聞いている人の迷惑は考えたことないのか?」
「おもろい授業なら聞いてますって、先生。教科書に書いてあることをお堅いニュースを読むアナウンサーみたいに読まれてもシンドイっすやん。本当に大事なことは教科書には載ってないし、好きなら勝手に勉強しますって。それにどうでもいい自己顕示の為に、授業が止まることにイライラする生徒のことを考えたことないんですか? まぁ誰も聞いてないんで、気にすることじゃないっすね。すんません」
「ふざけるな」
 聡の流れるような煽り文句に藤村教諭は年甲斐もなくキレた。教科書を机に叩きつける音が教室にこだまし、溜め込んだ怒りが爆発した放課後によく聞く怒号が教室に響き渡った。平成には、そぐわない昭和感が漂う空間に染まっていく。二つ騒音で、眠りについていた数名の生徒が目を覚ました。急に背筋が伸びた生徒も数人おり、それは部活動に所属する生徒が主だった。恐怖政治が顕著に表れている様は滑稽だった。また寝ぼけている生徒の多くは、起きている事態をしっかりと把握している様子だった。部活動で鍛えられた瞬時の判断力、状況把握能力が見事なほど発揮されている。この学校の部活動の強さを垣間見た気がした。
「せっかく部活に向けて休んでいた何人か起きちゃったやないっすか。先生。前途ある若者の睡眠を妨害したらあきませんって」
「それはお前らがうるさいからだろう」
「先生が、今一番うるさいですよ」
 藤村教諭は、聡の席へと大股で向かい始めた。面倒な展開になることは想像に用意であり、思わずかなり大きめのため息をこぼしてしまった。我ながら失策だった。 藤村教諭は、オレのことを殺気が滲んだ鋭い眼光で睨んだ。その金剛力士像を彷彿とさせる顔は風呂上がりみたいに真っ赤になっている。このまま煽り続けたら、頭の血管が切れてしまうのではないか。心配になってしまうくらいには俯瞰で状況を見つめていた。
「未熟な若者を恐怖で押さえつけるのは時代錯誤もええとこやし、そんなんはバブル崩壊時においてこや。自分の力量の無さを棚に上げて怒りをぶつけられるとか、気分悪いわ。オレと翼は外に出るんで。ほな行くで、翼」
 急に立ち上がった聡は、そう言い残して教室から出ていった。名指しで誘われてしまったら仕方がないし、このまま居ても標的になることは容易に想像できたので、藤村教諭に何故か一礼してから聡の背中を追い掛けるように教室を後にした。

「しっかし、行く場所ねぇな」
 オレらは居場所を求めて校内を亡霊のように彷徨った。同じような風景ばかりの校内を歩き回っているうちに、出口のない迷路に足を踏み入れてしまったような恐怖に苛まれてしまう。でも隣に風間がことでで、なんとかなるだろうと楽観視できた。
「そうだね」
「どした、急に?」
 オレの顔を見ながら不思議そうに聡は言った。
「何が?」
「さっきまでのオレと話していたテンション、どこ行った?」
「いや、あんなフィクションみたいな現実を見てたら、我に返ったよ」
 オレは笑って答えた。そういえば聡と話していた時は、何も考えずに飛んできた言葉を打ち返していた。藤村教諭の授業を抜け出すという非日常的さが、自然と興奮していた頭を冷却し、無口を貫き通していた普段の姿に戻っていた。
「新参者のオレが言う事じゃねーかも知んねぇーけど、翼はさっきみたいに思ったことを口にしてたほうが良いと思うで。普段は辛気くせぇ顔して他人を寄せ付けないようにしてるけど、翼の本音はさっきの姿だろ。相手の腹の中を読もうとして、嫌われないように最善の手を打ちまくって、最終的にはお堅い大御所みたいな雰囲気かましてキャラを成立させているけどな、数日しか見てないけどシンドそうやったで」
「なんだよ、それ」
 心臓が激しく鼓動している。聡の言葉に動揺している。すでにオレの腹の内を見透かしているような感覚。幾つもの可能性を頭に浮かべ、次の一手を思索する。嫌われないように。日々が穏やかに過ごせるように言葉を選んでいた。あの頃みたいには絶対になりたくなかったから。
「世界恐慌に頭を抱える銀行員みたいな顔すんなや。こっちまで、明日の景気が気になってくるやん。……まぁ、オレに対して遠慮なくツッコむお前と関わりたいなって思ったから言うただけやから。気に入らんようなら、無視してええで」
 聡は自分に正直な奴なんだと思った。裏表のない性格は、数時間の間で知ったつもりだった。けれど隣で真面目な顔、真っ直ぐな目には亮廣の一本気な性格を再認識せざるを得なかった。
「でさ、翼。図書室も音楽室、屋上にも入れない今、どうしたらええと思う?」
 困っているというより、何かを期待しているようだった。恐らく翼はオレのポケットの中にある鍵の存在を認識している。昼休みに後をつけられていたのだろうか。一瞬迷ったが、乗り掛かった舟から降りるような真似はしたくなかった。気付けば、左手をポケットに入れていた。
「お前が言ってんのは、これのこと?」
 取り出した一本の鍵。廊下の蛍光灯で鈍く光っている。それを見た聡は、パチン、と指を鳴らした。綺麗な高音が静かな空間で響いた。
「んじゃ、案内よろしく」
「物好きだな」
 そう言ってオレは歩き始める。聡はオレの背中を叩いてから駆け出した。「どこまで青春感出すんだよ」と呟いてからオレも走り出した。もしも映像に残せれば、使い勝手のいい素材になるのにな、なんて思いながら。
 理科室や被服室などの移動教室がメインの校内の西側に目的地は存在している。ドアには『演劇部部室』と明朝体で印刷されたコピー用紙が貼ってある。創造性が求められる部活の割にクリエイティブな要素は全くもって感じさせない。いつ見ても、失笑してしまうのに、未だ変わらないのは部員の怠慢でしかなかった。
「にしても、なんで演劇部?」
 教室に入るや否や聡は訊いた。
「なんとなく」
 本当の理由を隠した。聡はオレのことなど気にせずに、部室にある衣装や照明などの技術道具に興味が向いている。
 部室の奥に置かれた机に腰かけた聡に倣い、オレも手前にあった椅子に腰かける。不意にやってきた沈黙。別に話すことなどなかったので、得意技の無言を貫いていると、聡は一冊のノートに手を掛け、おもむろにページを捲り始めた。ぼんやりと眺めていたが表紙を見た時、血の気が引いた。手に持っているのはオレの思考を綴った創作ノートだった。
 気付けば立ち上がって、ノートを奪おうとしていた。しかし聡はそれを許さなかった。「うるさい」と言い返される有様だ。それでも奪おうとしたが体格的に勝ち目はなく、結局取り返すことはできなかった。
「なぁ、これって中学の時に流行った映画だよな? ヒロイン、白血病で死んじゃうんだよな?」
 オレは観念して黙って頷いた。
「これを演劇にするん?」
「まぁ、そんなとこ」
 ため息を吐き出して、観念するようにオレは弱々しく言った。
「ヒロインと主人公の立場が入れ替わってんやな。んで白血病に侵された主人公がヒロインに振られるんやな。んでヒロインは別の男に向かってく。これ救われへんな」
「そうだよ。可笑しかったら笑えよ」
「誰かが一生懸命に作ったものを笑う奴はクズだと思もおてるさいか、何も言わんよ。でも発想が歪んでておもろいやん」
「面白いか?」
「配置の入れ換えだけでもおもろいと思うで。あとな、ヒロインがふてぶてしく生きている冒頭は、映画を知ってるさかい、どしったってなるわな。……言い方、悪かったな。引き込まれるわ。なんで原作の立ち位置を書き換えたん?」
「今の時代、涙や感動を誘う小説とか映画って、大抵ヒロインが死ぬだろ。そんで、その事実を受け入れられない男の弱さばっか取り上げられているから、単純に逆行っただけ。でも書いてみたら、万人受けしない内容が出来上がっちゃったけど。男は女々しく、女はふてぶてしいってのは、オレの勝手な偏見だよ」
「まぁ、間違ってはいないんちゃう?」
 そう言って聡はノートをオレに差し出した。
「やっぱり、翼もオレと一緒の人間だったんやな」
 オレがノートを手に取った時、しみじみした口調で聡は呟いた。
「一緒じゃないだろ?」
 即座に否定する。一緒のはずがないのだ。主役と脇役の差は顕著だろう。
「翼が今何を思っているかは知らんけどな、自分で作った何かで消化できない感情を吐き出そうとするのは一緒やで」
「聡もそうなのか?」
「創作の原動力って、案外そんなもんだろ。翼が作り上げた舞台、オレは必ず観に行くわ」
「ありがとう」
 生まれて初めて授業をボイコットした日、青臭い言葉で言えば友達になった。

文責 朝比奈ケイスケ

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