先制パンチ【ショート・ショート79】

 子供からの脱皮、そして大人への変態が求められる次なる空間の記憶はやけに鮮明に覚えている。身体の各所に変化が現れ、心が揺れ始める思春期の始まりに足を踏み込みながら、漠然とした形無き社会という化け物に取り込まれる準備及び、化け物で生きる為の順応力を鍛えることになる新たな場所。妙に大人びた思考回路は、読み漁ってきた小説と見続けてきたドラマ、所謂フィクションによって形成されていた。それによく遊んでいた近所のあずさちゃんが、大人の人のように変わっていく姿を見ていたからだろうし、彼女を見る度に感じる言葉にできない心の揺れを感じていたことも影響していた。
 幼馴染の友達から片思いの相手へ。多分、当然の変化だった。大学生になったあずさちゃんは、もうこの街にはいない。何か大切なものが手からこぼれ落ちていく切なさは、なんだか初恋が失恋に終わったようだった。
「翼、制服のボタン空いてるぞ」
 窓辺の席で考え事をしていると話を掛けられた。声の主は、小学校五年生からの付き合いである国分武彦だった。この学校で唯一、中学時代のオレを知っている友人は学ランに坊主という姿で笑顔だった。ただ、中学から見ているから新鮮味がなかった。
「別に良くないか? 空いてたって」
「いや一番上まで留めておいたほうがいいぞ。先輩に目を付けられる」
 今までそんなことを気にしなかったはずの武彦が、やけに神経質に言うから驚いた。別にそんなことで何かが変わるなんて思ってみなかった。
「目を付けられるとマズいか?」
「ボコられるぞ」
「ボコられるって言われてもな。武彦は不良マンガ読み過ぎじゃないか? もう平成も二十年近いんだぞ」
 先輩に目を付けれると面倒なことになることは、何となく知っていた。でも実感は湧かないし、仮にボコられる場面になっても逃げ切れる自信があった。おごりでもなく、つい最近まで県内有数のランナーだったからだ。暴力から逃げる為に毎日走り続けたことが、こんなところで活きるなんてと自嘲してしまう悪い癖にも、最近は慣れ始めていた。
「不良マンガの読み過ぎって、お前な。野球部だった吉沢さんがイライラしててな。周りに当り散らしてるから気を付けたほうがいい。でもまぁ、翼の足なら逃げられるか」
 くしゃっとした笑顔を見せる武彦は、制服を着ても昔から変わらない武彦だった。少し安堵した。子供と大人の間にある目には見えないけれど、確実に存在している得体のしれない何かに不安を抱いていたことに気付く。頭と身体はいつだって噛み合わない。
「そう言えば、このクラスには転校生がいるらしいぞ」
「転校生?」
 転校生が来るというワードに違和感を覚えた。頭の片隅には、高校になってから転校する事態は稀有なものであり、現実味を得なかった。
「そうだよ、転校生。どうやら関西の方から来るらしい」
「関西だろうが、隣町だろうが、あと一年余りの付き合いだ。もしかしたら関わることもないかもしれない。そんな異物を意識してペースを乱すのは御免だ」
「そうかもしれないけどさ。お前は中学卒業したくらいから、大人び過ぎだわ。それに不必要に尖り過ぎ。いや斜に構えすぎ、ビザの斜塔か」
「悲惨な時間を知っているだろ? あれを経験すれば勝手に大人びるし、性格も歪んで尖ってくるんだよ。だから別に気にすることでもないさ。ところで武彦、野球部は甲子園に行けそうか?」
「当たり前だろ。甲子園はオレの夢だ」
「甲子園目指すなら、もっと良いとこ行けよな」
 苦笑交じりに言うと、武彦は呆れたように言った。
「お前、知らないのか。ここ昔は県立の星って言われてたんだ」
「遠い昔だろ? 地元から離れた辺鄙な古豪に入ってどうするよ?」
「勿論、オレらで輝きを取り戻して私立の野球バカを倒すんだよ」
「悪いことは言わない。今すぐ、読んでいるマンガを読むのを止めて現実を見ろ。お前は国見比呂でもなければ、茂野吾郎でもない。ましてや山田太郎でもないんだよ」
「知ってるわ。んなこと。入学した瞬間に思い知ったわ。でもな、転校生が何かを起こすかもしれないだろ? もしかしたらプロ注目の奴かもしれないだろ?」
 武彦のポジティブな思考回路が羨ましかった。ボクに決定的に欠けている側面。生きた過程の中でどこかに置いてきたソレは、今後の人生で取り戻すことはないだろうなと思った。自覚した瞬間、なんだか尊いものを捨てた気がして、後悔の念が心を染めていく。
「仮にそうだとしたら、野球バカのお前が知らないのはおかしいだろ?」
「冷静な分析はいらねーんだよ。ってか、翼は陸部に戻らないのか? なんだか演劇部に入ったって聞いたけどさ」
「陸部には戻らないよ。走っても快感が無いんだ」
 右ひざに嫌な感覚が巡る。怪我の代償は思ったよりも深かったと自覚的になる。走ることが生きる意味の一つだったのかもしれない。そんなことを考えているうちに、キーンコーン、カーンコーン、と十年くらい聞いているチャイムが教室に響いた。演劇部の件について追及されずに済み、胸を撫で下ろした。
「んじゃ、またな」
 そう言い残した武彦は、三塁からタッチアップするランナーのようにオレの席から離れ、自分の教室へと駆け出す。その背中は青春を体現していた。
 チャイムが鳴ってから、一分もしないうちにジャージ姿の長身の男が教室に現れた。バレーボール部の顧問であり、担任である山下だ。通称、無能なトーテムポール。担任という立場を放棄して、部活動に人生を捧げているような脳筋野郎。厄介なのは、放棄している割にやたらとオレに干渉することだ。中途半端な態度は見ているだけで反吐が出る。
 教卓の前に立ち、長身と発達した筋肉で覆った形だけの威圧感を与え始めた。どうしょうもない朝の儀式。時間の無駄という概念を教えてくれる反面教師ということ以外に何の意味も持たない。まさに無意味の産物だ。
 半ば惰性で読みかけの小説を手に取り、身体と机の間にできた空間で静かにページを捲った。走ることを失ったオレに残された快感。誰にも邪魔されない静かであり激しい世界。絶望から抜け出すことのできたささやかなきっかけ。
「灰谷」
 まるでピアノの旋律のように美しく、ジェットコースターのようにワクワクし、知らなかった世界を知ることのできるツール。
「おい、灰谷」
 窮屈な場所にいてでも感じる救い。いつかオレもそんな世界を描きたい。
 隣の女子生徒にシャーペンで脇腹を突かれ、物語の世界から現実に戻った。横を向くと、合図をくれた女子生徒は気まずそうな表情を浮かべている。目線を正面に移すと、トーテムポールが般若のように顔を歪ませて立っていた。
「声が聞こえなかったのか?」
 至近距離の威圧は、恐いというよりも権力を振りかざす愚か者に見えてしまい、笑いが込み上げる。必死に耐えて、神妙な面持ちを咄嗟に作る。
「聞こえていませんでした」
 怪我によって溜まったフラストレーションが爆発した結果、尖った人格を作り出し、力のある者に対してやけに挑戦的な態度を示してしまうようになった。
 トーテムポールの顔は、さっきよりも怒りに満ちている。胸倉を掴まれるのだろう。面倒だなと思った瞬間、教室の扉が開く音がした。
「なぁ、先生。こんな茶番の為に待たされてるんちゃうよな? もしそうなら、さっさと終わらせてくれへんか? 意味なく待たされる奴の気持ちを考えてぇな」
 指定の学生服とは異なるブレザーを着た短髪の男子生徒が、退屈そうな表情をしながら教卓の前まで歩いていく。左肩にはギターが入っているケースを背負っている。傍から見れば、腫れ物に触る極めて危機的状況にも関わらず、揺らがない姿に誰もが言葉を失っている。当事者であるオレとトーテムポールでさえ、呆気にとられている。
 男子生徒は後ろを振り向き、チョークで何かを書き始めた。まるで少年時代に見た学園ドラマを彷彿とさせる。
「進藤聡や。これからこのクラスで共に学ぶクラスメイトになるんで、みなさんよろしくな。とりあえず彼女はいないんで、女の子は積極的に声かけてな。音楽はブルーハーツなんか聴くんで、ロック魂持ってる男もよろしく。勿論、それ以外も大歓迎や、まぁよろしく頼んます。ってか先生、オレどこに座ればいいや?」
 黒板には派手に自己主張した登場をかました奴とは思えない綺麗な漢字が並んでいる。フィクションの世界でたまに遭遇する登場人物みたいで、再びボクに欠如している逞しい姿を突き付けられる。
「おぉ、そうだな……」
 あまりの自己主張に戸惑っているトーテムポールの姿は、見ていて滑稽だった。再び、笑いそうになってしまう。
「どこでもええんか? んなら、そこの空席でええか? ってか、そこに座るように空席用意してんやろ。じゃなきゃ、登校拒否の奴がいるんか?」
 トーテムポールが言葉に詰まっていることなど無視した様子で、進藤はオレの右の席までやってくる。机にカバンを置き、何もなかったかのように席に腰かけた。
 しばらく沈黙が教室を包んだ。
「えっ、今から朝礼するんちゃうんすか?」
 さっきから進藤しか言葉を発していない。不思議な時間だった。トーテムポールは、首を傾げながら教卓へと向かい歩いていく。その背中を目で追っていると、右方向から声がした。
「自分、おもろいな。名前なんていうん?」
 進藤は顔だけをオレに向ける。左耳にはリングピアスが装飾されており、蛍光灯の光に反射して光っている。
「灰谷翼」
 普段なら好戦的な態度を取ってしまう場面なのに、何故かフラットな心境で平然と答えていた。
「翼って珍しい名前やな」
 進藤は鳥が羽ばたく様子を両手で表現しながら訊いた。オレはため息をひとつ吐いてから、ノートに灰谷翼と書き殴って、進藤に見せた。
「覚えやすい、名前やな。これで顔と名前を覚えたわ。よろしくな。オレのことは聡でええからな」
「それじゃ聡。早速だけど一つ言っていいか?」
「おう、ええで。なんでもこいや」
「その似非関西弁、なんとかならないか?」
 オレは笑って言ってやった。怒るだろうという予想を反して進藤は頬を緩めて答えた。
「いきなり核心やん。やっぱ、自分おもろいわ。もしかして関西出身か?」
 それからオレらの出会いのきっかけ。あのイントネーションがおかしい似非関西弁の言葉は、今でも心の奥深くにしっかりと刻まれている。

文責 朝比奈ケイスケ

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