栓抜き【ショート・ショート68】

「冷た」
 思わぬ声が浴室に響いた。カランの時は温かかったはずなのにシャワーになった瞬間に冷たい水が流れるシャワーの構造を忘れていた。冷水を全身に浴びたことで、毛穴が閉まっていく感覚に思わず声が出てしまった。逃げ場のない狭い閉所で、何もできない姿は、なんだか今の自分を体現しているようで堪えた。
 本来の銀色を浸食する水垢だらけの蛇口を捻り、シャワーを止める。一気に冷え込んだ身体を温めたい思いを抱きながら、右手で蛇口をゆっくりと捻る。勢いの弱いシャワーに左手を当てながら水温を確かめていき、ほどよいタイミングで勢いを強くした。お湯の温かさと勢いよく放出する無数の水柱を身体に当てながら、ようやく気持ちを落ち着かせる。シャワーを浴びると体力が回復するような錯覚を抱き始めたのはいつ頃だっただろうか。
 物心ついたときから、シャワーは自分の生活には当たり前に存在している。気にすることでもないのだろうな。身体を洗うことで、なんだか気持ちが楽になるというか、何か張り詰めた糸が弛緩していく。きっと知らぬ間に強張っていた筋肉が緊張から解放されているからだろう。そんな仕組みについて考えを巡らせてしまう時点で、子供心は失った気がした。
 頭から足の指先までを濡らしたお湯が排水溝へと流れていく。透明の水も顕微鏡かそれに類する器具を用いて見ればきっと呆れるほど汚れていているのだろうな。どうでもいいことが芋づる式に出てくる思考回路を自嘲しながら、鏡に映る自分の顔を見つめる。
 目は充血しているし、目の下にはクマができている。おまけに生え際も後退しているとなれば、普段から見ているとはいえそれなりのダメージを受ける。
 歳を取った。
 たった言で片付けられる事実は、思いの外、堪える。外見は老けていくのに、全くもって中身は変わらないからだ。全てのことから目を背けたくなって、目を瞑って、もう一度シャワーを全身に浴びた。視界の失われた真っ黒な世界。浮かぶのは、今日の出来事。そして消してしまいたい過去の出来事ばかりだ。マイナス思考と僕を表現した人がいたけれど、物事に対して、ミスや後悔、苦さばかりに目が行くのは、完璧な人間に憧れたエセ完璧主義者の成れの果て。過去はやり直せないし、時間を戻すこともできない。分かっているけれど、躓いた記憶にこだわる悪い癖は、最近より顔を出すようになった。
「最悪な日だったな」
 口にした本音は、他の部屋にはない浴室の特殊な作りによって反響して、ブーメランのように戻ってきた。

「お前はさ、何のために生きてんだ?」
 大学時代の飲み会の後、終電を逃した友人と大学近くの線路が横を走る誰も居ない公園で、缶ビールと咥えタバコしているときに言われた言葉が不意に耳元でささやいた。彼にはデカい夢があった。嫌悪感を抱く単語を用いてまでも広げた風呂敷に僕は愛想笑いをしながら、アイツの愛用している栓抜きでビールの王冠を外した。泡が口から少し漏れたを確認して、こぼさないように口へと運んだ。喉を鳴らして飲み込み、手に持っていた栓抜きを持った手をアイツに向けて伸ばす。栓抜きを受け取ったアイツの顔は真剣だった。回答を待っているのが分かる。
「生きる意味を知るためかな」
 酔った勢いで吐露した本音。面倒なことに足を突っ込んだと誰もが顔をしかめる返答。最低なことに友人である彼を試したのだ。お前は僕の心に抱える厄介な化け物との付き合い方を教授してくれるのかと。そして救ってくれるのか、僕のことを。藁にもすがるような本音だった。
 公園には訪れる沈黙。急に寒くなった気候のせいか、少し前まで夜に鳴いていた虫の声すら聞こえない。飲み過ぎたアルコールのせいで焦点は合っていない、更には公園の心許ない街灯のせいでよく見えない彼の表情、機微を僕は見つめる。迷ったような表情の隙間から見え隠れする本音を読み取ろうとする狡猾さには、自分のことなのに強烈な吐き気を抱く。
「それもいいな。生きる意味なんて考えたことはなかったけど、なんかお前らしいよ。オレには思いもつかない未知の領域だ」
「じゃあ、なんで生きてんだ?」
「そりゃ死んでないからだよ。でも生きる意味は見つけるものではなくて、作っていくもんだとオレは思うんだ。最後の瞬間、生きてきた時間を思うだろう。その時に能動的な記憶であって欲しいんだよね。なんかこういう志がある上で、オレの生き様はどうだったのかってな。生きる意味を見つけるってなるとさ、なんか受動的だろ? 歴史の授業を受けているみたいに。どこか他人行儀になって、自分の持っている時間を有効に使えたのか? とか思いそうだし。最後の最後、後悔で終わるなら、オレにはここまでしかできなかったけど、考えられる手は全部打ったって、できたことに焦点を当てて終わりたい」
 思いがけない返答に戸惑った。背中には冷や汗が流れ、露出した肌には鳥肌が立っていることに気付いて、無意識で捲っていたシャツを手首まで伸ばしていた。
「まぁ、偉そうに思ったことを言ってだけから気にすんなよ。お前はお前だし、オレはオレだ。みんな均一にする必要性なんてないんだからさ。量産性の人間ばかりじゃつまんねぇだろ?」
 アイドルが見せる爽やかな笑顔を浮かべた彼は、手に持っていたビールの瓶をラッパ飲みで飲み干した。僕も彼に倣って、ビールを煽った。
 シャワーを浴び終えてから、冷蔵庫から瓶ビールを取り出した。首元に濡れたタオルを巻いた半裸の姿で生活スペースである部屋に戻る。ベッドの上には、さっきまで着ていたスーツやネクタイが乱雑に置かれている。
「やっぱり、おかしいだろ」
 彼に向けて声を上げた。死んでいるような生き恥を晒して漠然と生きている僕が機械的に年齢だけ重ねて、生き様を刻んでいた彼の年齢が止まってしまうなんて、理不尽も良いところだ。
 旅立った昨日まで刻んだ彼の孤独な戦いを思いながら、僕は彼の大好きだった瓶ビールの王冠を遺品の栓抜きで開けた。
「なぁ、聞いているか?」
 誰も居ない部屋で涙を堪えながら、彼を模倣するように瓶ビールをラッパ飲みした。最高の友人を失った夜に飲むビールは、今までで一番の苦さを口に広がらせていた。

 文責 朝比奈ケイスケ

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