不毛な恋【ショート・ショート61】

「今年は大恋愛を経験するでしょう」
 正月を過ぎた頃、酔った勢いで立ち寄った路上の占い師に言われた一言が胸に残っている。冴えない日常に差し込む希望は、少しばかりの活力になっていたことは否定できない。
 それから日々の過ごし方が変わった。本質的には何も変わっていなかったが、外出するときには僅かばかりの期待を抱いていた。でも春が訪れようとした頃、世界は不穏な表情を浮かべ始めた。僕も例外では無くて、不穏な空気に抵抗することすらできずに無力なままに巻き込まれていった。
 オフィスに足を運ぶ機会は減ったし、不必要な外出することも億劫になった。1月から3月までの行動力は嘘だったかのように、従来よりも大人しく日々を過ごしていた。
 未曾有で出口の見えない窮屈な日々が退屈にならなかったのは、きっと今までの経験値が為せる技だった。元来、空白のスケジュール帳が苦痛になるような人間では無かった。むしろ空白を蔑ろにすることを贅沢と感じていた僕にとっては、代わり映えのない日々を慎ましく過ごしていくことに慣れていた。行動していたここ3ヶ月が異常だったのだ。
 しかしまぁ、こんなにも長引くとさすがに色々思うよな。
 誰もいない部屋で呟きつつ、慣れた手つきでキーボードを叩く。無機質な文字が呪文のように並ぶ黒い画面とにらめっこしながら、設計図の不備を確認していく。かつて出来心で始めたプログラミングが、今の僕と生活を支えていることについて、感慨深くなる。きっと昼夜問わずに、この画面と向き合った過去の記憶と今の状況がダブったからだ。
 スマホが鳴いた。面倒な話を持ってくる着信であることは容易に想像できたが、時計を見てから仕方が無く耳元のイヤホンを触れる。今が勤務時間では無ければ、絶対に無視していた。
「お疲れ様です」
 キーボードを叩く手は止めずに声を出す。そういえば、誰かと話すのは二日振りだった。大きな問題が無ければ、メールでの連絡で事足りたことを踏まえると、きっと上司は厄介事を持ってくるのだろう。
「緊急事態だ」
 切羽詰まった上司の声は、明らかに動揺していた。色々なメディアを通して聞くことが増えた「緊急事態」という単語が耳元を通り過ぎる。擦りすぎて、本来芽生えるである危機感や焦燥感を緩めてしまった結果だと思った。
「どうしたんですか?」
 緊急事態に慣れすぎたことで、平常心を保っていることに驚く。全く別のことを描いたことを悟られないように訊いていた。
「ウチの扱っているアプリのセキュリティを突破された。個人情報流出の危険性が出てきた」
「えっ? セキュリティ部は?」
 キーボードを叩く手が止まった。
「今、対処している。お前にも協力して欲しい」
 どうやら拒否権は無さそうだ。パソコンの画面を確認して、使っていなかったディスプレイの電源を入れる。有事の為に用意していたマルチディスプレイを使う時が不意にやってきてしまったようだ。
「分かりました。状況を簡潔に説明してください。今、自宅なのでWi-Fiのことを踏まえるとできることは限られるかもしれませんが」
 上司からの拙い説明を受けながら、パズルを組み立てるように状況を整理していく。どうやら思ったよりも厄介な話になりそうだ。
「やれることはやります」
 僕は上司に許可を取ってから、社内のパソコンを遠隔操作してマルチディスプレイに映るセキュリティ部と不正アクセス者との攻防に目を向ける。圧倒的な劣勢に見えた。今なら敗戦濃厚の試合で登板する敗戦処理の投手の気持ちに寄り添えそうだ。
 一度、キーボードから手を離して手首をストレッチして、大きく背を伸ばした。戦いの前の準備運動だ。
「めちゃくちゃ疲れそうだな」
 冷蔵庫で冷やした缶ビールのことを思った。終わったら飲もう。仕事終わりの些細な楽しみを自覚してから、再びキーボードを叩き始めた。セキュリティ部と不正アクセス者との攻防を割り込んだ。もの凄い速度でセキュリティを突破しようとする猛者とは話し合いでの和解は無さそうだ。
 目には目を。歯には歯を。
 僕は割り込んですぐ前線に立って、見知らぬ相手とのコミュニケーションを始める。これじゃカップルの痴話喧嘩に顔を突っ込んで、話をややこしくする友人だなと自嘲できる程度には余裕があった。
 相手の行動を踏まえながら、パソコンを通してでしか伝わらない呪文のような文字の羅列を打ち込んでいく。僕のメッセージに応戦するように相手は別の方法論で穴を開けようとする。やり取りをしていくうちに友人の立場から喧嘩をしているカップルへと立場が変わっていく。なんで怒っているかは分からないけれど、とりあえず体裁を踏まえて宥めなければ。でもこの状況が続くなら部屋を追い出す鬼にならないといけない。あぁ、あったなこういう嫌なやりとり。
 気付けば僕は鬼になった。力業で、強引に相手を追い出すことに特化した非常な鬼に。
 相手を追い出すことができた頃には、青空だった窓の外は暗くなっていた。久し振りに気持ちを全面に出したやりとりをした相手が不正アクセス者という現実は、なんとも言えない虚しさを抱かせた。
「もしもこれが大恋愛だったら、悲しくなるぞ」
 缶ビールのプルトップを開けて、煽るようにビールを飲んだ。涙が出そうになるくらい苦く感じたのは、味覚のせいか、それとも無慈悲な現実のせいか。

文責 朝比奈ケイスケ 

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