仕事終わりは仮面が剥がれる【ショート・ショート47】

 集合場所であるターミナル駅の改札は、さっきまで居たオフィス街よりも賑やかだ。ウキウキした表情を浮かべる人の割合の方が多く、カップルや集団で行動する姿が目に入る。各自の話し声が重なり、不協和音を起こしているけれど、都会と思えば全て飲み込めてしまう。不思議なもので、東京という場所には喧噪がよく似合っている。
 改札前に設置された円柱に身体を預け、スマートフォンの音量ボタンを連打する。学生時代に聞き続けたバンドの新譜が連打に応えるように大きくなっていく。周りの音が完全に遮断され、ボーカルの声、その声を支える楽器隊の演奏だけで聴覚が密封される。調子に乗ってリズムを刻むドラムに合わせて、右足のつま先を申し訳ない程度に上下させる。まるでバンドに溶け込むかのように。演奏を後押しする行動は恥ずかしいけれど好きだ。ただ学生時代からの習慣に対して身体は正直で、前頸骨筋は悲鳴を上げる。日頃から運動をせずに生きた怠慢な筋肉は、すぐに疲れる。情けない。過去の自分が今の自分を見たら笑うだろし、尋常じゃない剣幕で罵るだろう。社内の福利厚生で今年新たに登場したジムへの入会を真剣に検討しようと思った。思っただけで実行に移さないのが悪い癖であることは承知していた。しかし今日ばかりは行動しないといけない焦燥感に煽られた。
 もしも彼女と付き合ったら、という何も始まっていない物語を描き始めたせいだ。単純明快で、思った以上に青い。自嘲する気持ちにならないのは、まだ何も始まっていないからだろう。
 頭の中で、まさにどうでもいいことを考えていると、改札を抜けた乗客が視界に入った。取り分け目を奪われたのは、薄手のロングカーディガンを羽織り、パンツ姿で少しばかり足早に歩く一人の女性だ。その女性がオレの待ち人であることを理解するまでに時間が掛かってしまったのは、社内で見かける姿と一致しなかったからだろう。制服制度が起こす不一致は、どこか学生時代に女子生徒とデートに行った時に抱いたものと同じであった。
 時間にして数十秒、両耳に突っ込んだイヤホンを外してポケットにしまい終えた時、彼女はオレの前で立ち止まった。
「ごめん、待ったよね?」
 申し訳なさそうな彼女の顔を一瞥してから、視線のピントを改札の方へと向ける。この先二つの発車予定が表示された電光掲示板の横にあった時計を見るためだ。時間は7時43分。おおよそ30分の遅刻。別に気にするほどの遅刻ではなかった。むしろ30分で済んだことを善しとできる程度には余裕がある。そう、誰もがみんな時間を守ることはできないのだ。学生時代から知っていたけれど、社会の歯車として生きるようになってからは、その事実を受け入れることができるようになった。予定時間に全員集合した会議も終わった会議もオレの知る限りなかったからだ。
「謝るほどの遅刻じゃないよ。仕事お疲れ様」
 彼女に視線を戻し、まっすぐ目を見て伝えた。本心かどうかなんてのは分からない。すっかりと怒ることへの意識が低下していること、そして目の前の彼女の顔を見れば、30分の遅刻など遅刻ではないのだ。
「ありがとう。それじゃ、行こうか。今日は私のオススメのとこ案内するね」
 そう言った彼女は踵を返し、進み始める。横に並ぶか、後ろを追い掛けるかを迷ってしまい、出だしが遅れた。凜として歩く背中を見ながら、追いつくように歩みを進めた。この背中は、同期の女性としては極めて魅力的であるが、一社員として見れば倒さなければならない目の上のタンコブでもある。無意味に複雑な方向へと思考を進めそうになったので、すぐに止めた。だって実にくだらない発想だから。
 彼女の横にたどり着くまで、何人かとぶつかりそうになった。ターミナル駅には相応しい人波と壁沿いに連なる幾つかの店を訪れたであろう客の行き交う大通りを進むにはコツが必要で、そのコツというものをどこか遠くの時間に置いてきてしまったように思えた。
「人混み、苦手でしょ?」
 彼女は笑いをかみ殺したような表情だ。
「人混みも苦手だし、都会も苦手だよ」
「そっ、じゃあなんで東京で暮らしてるの?」
 本当のことを言おうかと数秒迷い「東京が呼んでたから」と寒いセリフを口にした。言ってから後悔した。別に本当のことを言っても良かった。でもあまりに恥ずかしい本心は黙っていた方がいい。経験則で得た知識はどんどんオレと本当のオレとを乖離させていく。
「何言ってんの?」
 彼女は呆れて、遂には笑った。彼女の視界には入らない左手は拳を作っていた。人が笑える瞬間を提供できたことに意味があるのだ。その為ならば、オレはペテン師になれる。
 少しばかり柔和になった雰囲気を作り出すことに成功したことで、自然と会話は弾んでいく。会社のこと、お互いの趣味のこと。ありきたりで、でも素晴らしい時間だ。
 駅からどれくらい歩いただろう。振り向いてみたが、もうあんなに立派だった駅の姿は見えない。代わりに視界に入るのは、夜には不相応なピンクのネオン、ラブホテルばかりだ。彼女はどこに行くつもりだろうか。もしかして。そんな淡い期待はすぐに裏切られた。
「ここ、私のオススメ」
 彼女はそう言い残し、色落ちが激しい暖簾を躊躇なくくぐっていく。赤提灯の店がオススメなんてのは意外だった。彼女が普段見せる姿から想像できない小汚い居酒屋に安堵感を抱く。もしも背が伸び切ってしまうオシャレなイタリアンとか、そういった類いの店だったら、多分緊張で何も話せなくなってしまう可能性を想定していたからだ。
 彼女に遅れて、暖簾をくぐる。店内は古き良き居酒屋、簡潔に述べれば老舗のそば屋のようだった。カウンターに5席。テーブル席は3席と、こじんまりとした作り。その席の大半はスーツ姿のおっさんたちで埋まっている。その全員の顔は赤く、テーブルには日本酒らしき透明な液体の入ったコップが置かれていた。彼女は迷わず予約席と書かれた札の置かれた席に腰掛けた。オレも倣うように彼女と正対する席に座った。
「おっ、綾乃が男連れてくるとか珍しいな」
 割烹着を着たおっさんが彼女に対して親しい口調で声をかけた。
「男じゃないよ。同期だよ、同期」
 彼女は照れた様子も苛立った様子も見せず、まるで親戚のおじさんを相手にするような口調で答えた。
「それは失礼しました。で、彼氏の名前は?」
「だから、彼氏じゃないってば」
 普段の彼女と同一人物とは思えない砕けた口調。分かっていたが、やはり仕事中は本来の自分とは異なる仮面を被っているのだろう。
「で、ビールでいいか? それとも赤飯か?」
 おっさんは上機嫌で軽口を叩く。社内で言ったら、彼女は冷たい顔をするだろうに、ここでは笑いながら「いや結婚通り越して、妊娠しちゃってるから」と冗談を上手にあしらっている。
「正人もビールでいいよね?」
 オレは黙って頷いた。すると「おっちゃん、ビール2つ。あといつものおまかせセットで」と元気よく告げる。「はいよ。今日は綾乃が男連れてきたから、サービスしてやるよ」と割烹着のおっさんは言い、「それじゃあ、よろしく」と彼女は応戦していた。
 この時のオレは目の前に居る人物が、社内のヒロインで営業成績2位の実力者ということを忘れそうになっていた。
「意外だったでしょ?」
 彼女は柔和な表情で訊いた。オレは「驚いた。小洒落たイタリアンにでも行くかと思ったよ」
 クスリと彼女は笑い「本質を見抜けてないな。同期のくせに」と言うので、反射的に「同期でも飲んだことないよ?」と言ってしまう。
「確かにそうだ。他の同期とはご飯なり飲みなりに行ったことあるけど、正人はなかったね。でも他の同期でもここには来ないけどね」
 そんな意味深な彼女の発言に戸惑っているうちに生ビールのジョッキが二つテーブルに置かれた。運んだのは割烹着のおっさんではなく、小さく優しげな初老の女性だった。その姿を見て、すぐに割烹着のおっさんの奥さんであることを認識していた。性格や背丈、佇まいのバランスが良かったのだ。
「それじゃ、初めての同期飲みに乾杯」
 差し出した彼女のジョッキに手に持ったジョッキで乾杯した。カチーンと鳴った音は、賑やかな店内に吸い込まれていった。

文責 朝比奈ケイスケ

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