グラウンドの中心を見つめて③【ショート・ショート40】

「まさか、こんなことになるとは思わなかったよ」
 真夏の横浜スタジアムのマウンドの上で、奏多と正対して亮太はこぼした。
「オレは、そうは思わなかったけど?」
 あっけらかんと、ここにいることは当たり前だと言わんばかりの表情で、奏多が口にした言葉は疑問文であった。まるで、その先に隠した何かを触ってほしいと訴えているように亮太の目には映った。
「さすがだよ」
 亮太は敢えて触れることなく、奏多の後方で点灯されている大きな電光掲示板に視点を合わせる。電光掲示板には、神奈川を代表する甲子園常連校の名前と亮太たちが通う公立高校の名前が並んでいる。もう九回も越えて、十三回の裏を迎えている。夏の照りつく日差しが及ぼす暑さと球場の熱気で幻想を見せられているような嘘みたいな展開だった。しかも一点差で勝っているなんて。
 スターティングメンバーには、奏多の名字である佐藤と亮太の名字である志村の文字が左から三番目、四番目で仲良く並んでいる。アウトカウントを示すランプは二つ、赤く灯っている。
「にしても、しつこいな。アイツら」
  奏多は呆れたように言い、一塁ベンチを睨んだ。その時、奏多がチームメイトなのが心強く、頼もしく、そして何より最後にバッテリーが組めて良かったと、亮太は本気で思った。そして奏多が隠していることに関して、確認しないといけないことを亮太は口に出した。
「奏多、肘大丈夫か?」
「どうして?」
「延長戦に入ってから、肘の位置がおかしい」
「ったく、よく見てるな、亮太は……」
 舌を出して笑顔のまま奏多は続けた。周りの内野陣は浮き足立ち、にこやかだったのが亮太の質問と奏多の答えを聞いて急に黙り込んだ。タイムを掛けてダイヤモンドの中心の小高い山の上に集まった六人プレーヤーの中で、状況を正しく把握できていたのは亮太と奏多しかいなかった。その円陣は、本来の実力、身の丈を示しており、バッテリーと他のプレーヤーには境界線が確実に存在していることを見てしまった気がした。
「正直、次の回は投げらんないと思う。もう痛くて仕方がない――でも、ここでマウンド降りることなんて絶対にしない。これで最後な気がするからさ」
 内野陣の表情が更に凍っていき、奏多の本音を聞いた亮太も表情が固くなっていく。
「最後のマウンド、亮太に受けてもらって良かったよ。それにさっきのホームラン、最高だった。オレの引退の花道に相応しい演出だったよ」
「何、勝手に終わろとしてんだよ?」
「終わらせるよ、次で確実に。亮太、本気で行くぞ」
「今までも十分に本気だっただろ?」
「腕がぶっ飛んでもいいくらいに振る」
「暴投は勘弁してくれよ。満塁なんだから、それでおしまいだ」
 亮太たちがタイムを取って、マウンドで円陣を組み話している間、各ベース付近では相手高校のユニフォームを着た選手が三人、屈伸などをして、ゲーム開始を待っていた。追い込まれているのに、それを感じさせない強さ。奏多がいなければ、恐らく飲み込まれていただろう。そして負けてしまう映像が容易に想像できる。そもそも奏多がいなければ、こうした展開にはなっていなかっただろうが。
「亮太、炎天下の下で防具付けながら野球やって頭やられたか?」
「……」
「オレが暴投で負けたことなんてないだろ?」
「……最初の試合があるだろう。まぁ、あれは奏多の暴投で始まった話だったけどな」
「小学生の頃の話だろ? オレは、もうちゃんとしたピッチャーになったんだ。中学時代に本気で投げられなかった分、最後は……」
 その先を言わせないように、左手にはめたキャッチャーミットの芯を叩いた。
パチン、パチンと気持ちの良い音が小高い山の上に響く。
「この音、聞かせてやるよ」
 シニカルに笑い、息がこぼれた奏多の表情は、小学生の時に一緒に練習した表情になる。しかし目の鋭さは、中学最後の対決で見せた時よりも鋭い。
「んじゃ、最後頼んだぞ、奏多」
 亮太はそう言った。すると、おー、と円陣の中で大声が広がった。
 内野陣は、それぞれのポジションに戻っていき、亮太も同じようにホームベースに向かい歩を一歩、二歩と進めて止まった。そして小高い山、ピッチャーマウンドにいる奏多を見る為に振り返った。
 どうした、と言っているような表情をしている奏多に向かい、亮太は言葉を放る。
「あの勝負はオレの勝ちだった。だから、ここで負けることは許さない」
 中学最後の対決の映像が鮮明に蘇る。我ながら綺麗な放物線だったな、と思い返せる打球の行方はフェンスを越えて観客席にぶつかるまで亮太は見つけられなかった。手応えはなかった中学最後の打席、最高のフルスイングだった。今日もこうして同じことができたことには奏多の存在が大きいのだろう。
「もう、あんな風には打たれない。そんで亮太には、ちゃんとリベンジする」
 右手を亮太に向かいまっすぐ伸ばして、奏多が言った言葉を亮太はしっかりと聞き取った。
「なら、決めてくれ。最後の下克上だ」
 プロテクターの上から心臓部分を叩き、そうして、もう一度キャッチャーミットを叩く。奏多へ向けての無言の合図であり、そして最後の要望だった。
  最高のボールを頼むぞ、奏多。
 奏多は、その意味を読んだのか、静かに右足で足場を馴らし始めた。
  審判に一礼し、マスクを被った亮太はキャッチャーの基本姿勢を作る。深夜のコンビニで見かけたら近寄りたくない、そんな姿勢で配球を検討した。
そして導いた答えはノーサインだった。いや、正しくは投げるボールは、二人の中で暗黙のうちに決まっていた。指先でサインを送ることなく、ホームベースの真ん中にキャッチャーミットを構えて、ポケット部分を奏多に向けた。
 投球モーションに入る前に深呼吸をした奏多は、獲物を狙う目つきで、キャッチャーミットを見据える。グローブで口元を隠すように覆ったまま、あの時と同じように左足を一旦前に出して、力強く、振り子の動きを見せて一気に後ろに引いた。
 恐らく最高のボールが来る。そう思った亮太の左手、キャッチャーミットが急に小刻みに震え始める。どんなボールが来るのかという怖さ、今日一日で百九十三球も受けてきた痛み、そして何キロのボールが収まるのかと言う好奇心、絶対に打たれないと思える強さが同居した複数の思案が生み出す感情は名前も知らない言葉にできないものであった。この後に起きる最高で最悪の結果に対する武者震えと喪失感をセットにした心の身体反応なのだろうか。
 マスク越しに見える奏多は、いつも以上に迫力のある投球モーションの最中であり、その景色、奏多の姿、チームメイトの姿を色褪せさせないように亮太は目に焼き付けていく。
 奏多の右手から離れたボールは、一筋の光のように、まっすぐ亮太の構えたキャッチャーミットめがけて進んでくる。相手打者が、動き出すのが見えた。
 次の瞬間には、バットの軌道とボールの軌道がぶつかったのを目の前で確認できた。恐らく、芯より二センチくらい上をボールの下を叩いたと、一秒にも満たない時間で亮太は判断した。焦げた臭い、耳に響く金属音を聞いた時、条件反射で右手を動かし、マスクを外して、空を見上げた。雲一つない青空が広がっている。
 空高く打ちあがった打球を見ながら、相手打者、全てのランナーが一斉に走り出すが全員が下を向いている。うるさかったハズの相手高校のブラスバンドの音が力強さを徐々に失っていく。
「亮太」
「キャッチャー」
「志村」
 奏多や他の内野手達が、一斉にそれぞれの声を出す。その全員が亮太を指さしながら、亮太に近づく為に走り出してくる。
 今以上に打球を見失わないためだけに、集中して空を見ることなどないだろうなと思いながら、打球を探す。すぐに青空に舞い上がった白い点を見つける。亮太は、ゆっくりと落下地点を探しながら、身体を少しずつ移動させていく。限界まで上がったボールは、力を無くして、重力に逆らうことなく、無力に、それでいて、厄介な回転をしながら、ゆらゆらと落ちてくる。
「オーライ」
 両手を最大限に伸ばして、今までで一番の大声で、亮太は叫んだ。
 打球は落下地点に向かい、一直線に落ちてくるようだった。実際は、厄介な回転のせいで、意思を持った生物のように少しずつ変化しながら、悪戯に落ちる場所を探していた。
 グラウンドに近づくボールは、次第に大きくなる。
 集中を切らすな。亮太は心の中で何度も何度も言い聞かす。今、打球を探している集中力は、あの打席以上の集中力だった。そしてボールがはっきりと見え始めた。そして落下地点にいる亮太の頭上に落ちてくる。最後の最後、培った経験で、無意識で広げた両手を捕球体勢に変える。
 パチン、奏多のボールを受けるよりも弱い音が聞こえた。
 ボールを掴んだ感触が左手いっぱいに広がっていく。この時間が永遠に終わらなければいいのに、そんなことを思いながら、ゆっくりキャッチャーミットを目の前に持っていく。その中には、試合中に何度も何度もグランドを転がった土の色が付いて茶色になった硬球が、確かにあった。
 自然と右手が伸び、数秒遅れて左手も青空に向かって伸びた。
 静かになっていたスタンドから、緊張と不安からが作り出した制限が解かれ、歓声と悲鳴が混ざり合った声が聞こえる。その声は、あの対決以来に聞く、耳から離れない声だった。
 内野陣、外野陣、ベンチからチームメイトがホームベースに向かい走り出した。奏多はゆっくり歩きながら、亮太に向かって進んでいた。しかし、右手は力を無くしたことを伝えるように、ぶらぶら無気力で力なく揺れている。
「本当に出し切ったんだ、奏多」
 下馬評を覆す下克上に歓喜に酔いしれるチームメイトや三塁スタンドの高揚感は亮太にも伝わってくる。涙を流しながら整列に向かい下を向き悔しさを涙で表現している相手高校。そのどちらにも染められてしまいそうな奏多は見せないようにしていたけれど、汗の中に紛れて、目から涙が、一筋落ちていた。
  亮太は、悟った。もう奏多の本気のボールを受けることはない。
  整列に向かう前、亮太は思わず奏多に近づき、抱きしめた。その映像は優勝をした瞬間を切り取ったかのようだった。しかし現実は歓喜に酔いしれるのではなく、それは二人にとって終わりを労わるものだった。心がある場所は、イマイチ分からないけれど、胸の辺りに大きな穴が開いた感覚が生まれ、その穴に向かい、色々な感情が吸い込まれていく。凄く痛く切なさを含んでいた。
「ありがとう。最高のストレートだった」
「ありがとう。楽しかったよ。最後のボールを捕ってくれたのは、やっぱりお前だったな、亮太」
 そんなことを言いながら握手を交わした。けれどそれ以上、グラウンドで亮太と奏多は言葉をすることはなかった。ふと亮太がマウンドを見た時、小高い山を中心に囲うような陽炎が揺れていた。
 僕らにとって最大級の下克上を決めたこの日、今年の七月で最高気温だったことを知るのは、その後、ずっと先だった。

文責 朝比奈 ケイスケ

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