グラウンドの中心を見つめて②【ショート・ショート39】

[いよいよだな」
 そう呟いて亮太は三塁側のベンチでストレッチをしている奏多を見つめた。奏多は、防具を着た背番号二番と談笑をしている。それがなんだか気に入らなかった。
 お互いの意思で選んだ道で、再び交わることになった現実は亮太を高揚させ、いつも以上にアドレナリンが脳内から放出され、全身に通っていくのを自覚していた。しかし、それと同時に奏多のボールを受けるのが自分でないことへのやるせなさと相手捕手への嫉妬のようなものを抱えていた。それは、いつか奏多に好きな女の子の好意を向けられて時に感じたそれとは、どこか色が違った。
 シニアリーグの大会で奏多と同じチームと当たることはチームに所属してから一度もなく、敢えて別の道を選んだことを対戦相手になるまで、正直言えば後悔していた。
 けれど中学最後の大会で、順調に勝ち上がった。初めて奏多の所属するチームにぶつかることになったことを知った時、その後悔は嘘のように消え去った。一緒にバッテリーを組んでいた少年野球時代とは比べ物にならない程にレベルを上げた奏多は、地域を代表するような右腕になっていた。風の噂で聞いた真偽の怪しい話では、県内外の甲子園常連校として有名な高校からスカウトを幾つも受けているらしい。一緒に戦った仲間であった奏多が自分とは違う場所に行ってしまった寂しさが心の片隅でしっかりと芽生えていた。
「あの佐藤って投手、この大会ずっと無失点らしいよ」
 一塁側のベンチでチームメイトが話しているのが亮太の耳にも届いた。
「それも前回はノーヒット・ノーラン、前々回は完全試合を達成してる。しかも十八奪三振。噂だと百四十キロ以上のストレートをバンバン投げてたらしいぞ」
「これ、オレら負けんじゃない」
「負けんじゃない?じゃないよ。敗戦濃厚、いや確実だよ」
 試合が始まる前から、負けることを前提としているチームメイトに嫌気がさした。亮太はベンチから出て、試合では使わない、一キロ近くのマスコットバットを振った。負ける前提で戦に出る奴がいることへの苛立ちや嫌悪感を振り払うかのように、黙々とバットを振り続けた。二十回も振らないうちに目線が亮太に向いている気がした。素振りを止めてグラウンドを見渡すと、三塁側ベンチの外から手を振っている姿が見えた。奏多だ。五十メートル程度離れている場所からでも、あの頃とは異なる伸びた身長や逞しい筋肉をした奏多が見て取れた。
 亮太は、奏多が振っているその手に応えるように、バットのヘッドを奏多に向けた。亮太の動きを見た奏多は懐かしい笑顔を見せて右腕の力こぶを見せるようにL字を作っていた。上腕二頭筋をひけらかす人間と同じ動作ではあったが、何か決意を表明しているように亮太の目には映った。
 そして試合が始まった。
 亮太は、相手チームの力を一番近い場所でマスクを被りながら痛感することになった。変化球とコントロールが売りのエース岸川が放るボールを、トスバッティングの練習なのかと聞きたくなる位、いとも簡単に打ち返していく。気付けば、アウトを一つも取れないまま初回に二点を献上していた。
 なんとか一回の表を終え、ベンチに戻る。実力差を肌で感じたチームメイトたちは早くもお通夜モードに染まる。チームメイトどころか監督やコーチ、ベンチにいた誰もが言葉を口にしなかった。元気な声でチームを活気づけるチームカラーが嘘のように剥がされて球場の一角、一塁ベンチには静けさというチームにとって一番好ましくない雰囲気が自然と流れている。
 一回の裏、亮太たちのチームの攻撃。一・二番の二人が呆気なく凡退し、クリーンアップマンの先頭、三番に名前を連ねている亮太はネクストバッターサークルから打席へと向かい歩き出した。
 ヘルメットを被らずに右手に持ちながら短い距離を進んでいく小学生時代からのルーチンに従う。審判と捕手に一礼し、石灰で区切られた白い長方形の中に入った。右足で、軸足のポジションに当たる土を確かめるように二度、軽く蹴り足場を固め、ヘルメットを被る。亮太は構えに入る前に、一つ深呼吸して、マウンドに立つ奏多を睨んだ。
 睨めつけて強張った表情をした亮太。奏多は打って変わって、少年野球の時に見せた無邪気な笑顔を作っていた。まるで、この対決を心待ちにしていると言わんばかりの表情であり、無垢な少年の笑顔そのものだった。亮太を驚かしたのは、バッターボックスで見る奏多の姿であった。笑顔はあの頃のままではあったが、さっき一塁ベンチから見たイメージより大きく、マウンドの高さも重なって、威圧感という感情に初めて出会った。奏多の自信が作り出すそれに、亮太は早くも飲み込まれていた。
 捕手とサイン交換をして頷いた奏多は、両腕を大きく動かし、頭の上に持っていき、ワインドアップの形を作る。
 ランナーもいないし、振りかぶる理由は当然だった。けれど凡退した二人の時は、セットポジションからの投球だったことを亮太は気付いていた。
 お前には本気で投げる、と宣言している態度。ゆっくりとしたモーションから始まる全身を使った理想的で、ダイナミックなフォームから放たれたボールは、予想以上に速い速度を保ってベースの右端をかすった。本当に百四十キロ以上が出ているかもしれない。
「ストライク」
 審判の無駄に大きな声が耳に届く。
 反応できない速度ではないことを亮太は実感した。けれど同時にベースを舐めるように掠ることができるコントロールの良さは相変らずであり、精密機械の異名は健在であった。マスクを被って奏多のボールを受けていた時期よりも遥かに良くなっている奏多に対して、敵対している投手と打者という関係性なのにも関わらず惚れ惚れしてしまう。この時点で亮太は奏多に負けている。少しベースから離れて、バットを二回、三回と軽く振る。イメージを整えてから、再び馴らした足場を確かめ構える。奏多の表情は相変わらず笑顔のままだ。
 二球目は、インコースだった。
 亮太は、得意なコースを通過しようとするボールを許さずにフルスイングで弾き返した。打球は、レフト線を大きく逸れていく。場外に出たファールだ。
その打球を見ながら、奏多は少し驚いた表情に変わった。何に驚いたのかは、分からなかったけれど、笑顔が一瞬消えた事実は、何かを意味していると亮太は考えた。電光掲示板にはストライクカウントの黄色いランプとアウトカウントの赤いランプが二つずつ点灯する。奏多有利。キャッチャーの意思を無視して次のボールを亮太は予想する。
 奏多の性格なら、間違いなく三球勝負。ボールでアウトコースに定石の遊び玉はあり得ない。球種はストレートで来るだろう。奏多がリードを組み立てていることは、ワインドアップで投げた時から亮太には分かっていた長年のバッテリーの付き合いで導く次のボールはストレート。球種を絞った亮太は、気負いと緊張で少しだけ強くバットを握ってしまう。
 三球目、亮太の読み通りにストライクゾーンの中を通過する軌道のストレート。しかも奏多も知っている亮太の一番得意であるインハイだった。亮太は迷わずバットを振り抜く。
 硬球を金属バットで弾き返す甲高く乾いた、それでいて鋭い金属音が球場に響いた。バットの上っ面で弾いた打球は、放物線を描く。しかし力負けした勢いを失い定位置に居たレフトのグローブに収まった。一塁ベンチから大きなため息が聞こえ、三塁ベンチとグランドからは明るい声が飛び交う。奏多のチームが一層盛り上がっていくのが視覚、聴覚で嫌と言う程伝わってくる。
 奏多のチームに二回に二点、三回に二点と得点を入れられ、亮太は何もできない無力さをマスクの奥で感じてしまっていた。一方の亮太たちのチームの攻撃は、同じように何もできず淡白に凡退してしまう。地力の差を思い知り、亮太はチームメイトに見えないように拳を作った。
 四回裏、再びツーアウト、ランナー無しで亮太に打席が回ってきた。初打席から続けているルーチンをこなして、一打席目と同じようにバットを構える。奏多は、やっぱり笑顔だった。
  三球目のアウトコースギリギリに収まるスライダーをバットの先で当てて、ファーストフライに倒れた。他のチームメイト同様、簡単にアウトカウントを献上してしまう。
 五回表から奏多のチームは急な代打攻勢を始めた。背番号が二桁の選手が、続々とバッターボックスに立っていく。それは勝ちが決まったから、控え選手にバッティングチャンスを与える調整へと変わったサインだった。無性に腹立たしく、怒りが込み上げる。自分自身の無力さと、そんな風に見られていることが。
控え選手に変わったこともあり、得点力が下がった奏多のチームにその後は得点を与えることはなかった。亮太の意地、岸川を始めとするチーム全体の意地で、普段では見ることのないプレーが幾つもグラウンドで起きた。負けるかもしれないが、簡単に負けてたまるかという底力で、コールドゲームを避けることができた。けれども、電光掲示板の亮太のチームのHは未だに0のままだった。
 七回裏、正真正銘の最終回、ツーアウドで亮太の打席が回ってきた。
 これが中学最後の打席になることは分かっていた。その印籠を渡そうとする相手が奏多だったこともあり、野球をやっていて一番複雑な感情を隠して打席に入った。
 最後に印籠を渡すのが奏多。今までの結果から生じる絶望感と奏多だからこそ打ち返さないといけない。誰も課していない、自分で課した一種の使命感。混在した感情は容易に亮太から、今を楽しむ余裕を奪い去る。
 気合が空回り、その言葉を具現化してしまった。奏多の放るアウトコース高めのボール球だったが、速いストレートをフルスイングし、空振りをしてしまう。しかし、この一振りで亮太は全ての邪念を振り切った。少しずつ気持ちが晴れ晴れする違和感が脳内を巡る。
「これで最後なら、派手にいかないとな」
 独り言で呟いた。思った以上の声量だったようで、キャッチャーはマスク越しに亮太の顔へと目線が注がれた。
 バットを右脇に抱えてながら、両手に装備していたバッティンググローブを外して、ケツポケットに押し込む。再び、バットを両手で握る。バットの先の部分をスパイクに二回ぶつけて、土を落とす。そうして足場を固めて、左手でバットを時計回りに回す。気持ちが整理され集中力が無意識に高まっていく不思議な感覚に亮太の身体は反応する。構えに入りつつ、顔だけを奏多に向ける。大きく見える威圧感が少し薄れた、気がした。  
 次の瞬間、思わず笑ってしまった。奏多が初登板して、ボコボコに打たれたあの日。奏多は涙を流しながら、誰もいない校庭で一緒に投球練習をしている映像が蘇ってきたからだった。
「奏多、お前、凄くなったな」
 本気でそんなことを思ったら、自然と強張っていた亮太の表情筋が緩んでいく。けれど集中力が鉛筆削りで極限まで鋭く削った鉛筆の先端のように研ぎ澄まされていく。
 そんな亮太の変化に気付いたかのように、笑顔だった奏多の表情が、佐藤奏多の本質を見た時と同じ表情に変わっていく。
 奏多は下を向きながら帽子のツバを触り、帽子を少し深く被り直した。それは何かのサインだと亮太は確信した。今ある本気のボールを投げると言わんばかりの動作に自然と心臓、全ての血管、神経が高鳴りを主張し始めていく。
 次の瞬間、正面を向いた奏多と目が合った。対戦相手になって初めて見る鋭い眼光。亮太はぼんやりと感じたサインは、間違いないと改めて確信した。
 奏多はグローブで口元を隠しつつ、左足が一度、亮太の方へと動き、一気に後方へと戻された。力強い振り子に似た動きを見せる下半身。両手は天高く上げられ、ワインドアップの動きが始まっていた。綺麗で全く無駄のない動き、この試合で一番と思えるほど強く右手を振られ、投じられたボールはど真ん中を通過した。
「ストライク」
 審判はコールするが、亮太の耳には相手捕手のキャッチング音が聞こえなかった。代わりにミットで弾いてしまった音が耳に届く。思わず、キャッチャーを見ると座っているはずのキャッチャーは後ろを向いて、防具の紐で隠れた背番号の断片が目に入る。
 審判の後ろに転がったボールを拾い、ミットを脇で抱えた相手捕手は、両手でボールをこねながら、ゴメン、と奏多に声を掛ける。ふわりと投じられたボールは奏多のグローブに収まるが、十八・四四メートル間に漂っている空気は変わっていた。
 亮太は、すぐに空気の変化に気付き、そして理由を見抜いた。
 奏多は本気で投げられない。怪我とかではなく、単純にキャッチャーの力量の問題で。常に力をセーブしている奏多に対して亮太の頭の中では光ファイバー並みの速度で思考を始めた。
 もし、奏多の球を受けている捕手がコイツではなく自分であれば奏多にセーブをさせず好きなように投げさせてやることができるのに。
 敵対している奏多、相手捕手に対して歯がゆさがあったが、それ以上にリミッターを外した本気のボールを投げる奏多に勝ちたいと、純粋な欲求が亮太の中で巡る。
 最終回ツーアウト、ツーストライク。両軍に限らず球場全体が、次のボールが最後だという共通の認識を持ち始める。グラウンド内には両軍ともに今日一番の声を出して何かを言っている。その声は、声変りがしていたり、していなかったりする。亮太は指揮者不在のヘタクソな合唱が浮かび、今のヘタクソなアンサンブルと重ね合わせた。
 亮太は、高ぶる感情を勢いに変換したいと思った。そしてもう一度本気のボールを要求するため、左手を伸ばしてバットをスタンドに向ける。野球経験者なら、誰でも分かるホームラン宣言だ。
 一塁側ベンチからは驚きの声、三塁ベンチからは、ふざけるな、といった類の罵声が飛んでくる。
 奏多はそれに応えるように、ボールを持った右腕をまっすぐ伸ばす。
 親指、人差し指、中指の三本の指で掴んだ茶色くなった硬球を亮太に向ける。オールスターゲームで阪神の藤川球児が強打者に対して起こしたパフォーマンス。その意味は、ストレートを投げるという意思表示だ。両軍の声が入れ替わる。
 公式戦という石垣の上で、亮太と奏多は、この瞬間だけ私物化し始めた。それが許された気がしたのは、まるで、二人に用意された空間だったからからだろうか。野球マンガでありがちの世界観に似た空間に身を投じていると意識した瞬間から周りから雑音が消えた。
 さっきと同じ無駄のない綺麗なフォームで放られたボールは、亮太の一番得意なインハイを通過しようとするのを亮太は許さず、一気にバットを振り出して、人生最高のフルスイングだと思うベストスイングで振り抜いた。バットの先端や根っこで打った時に感じる鈍い音も芯以外で当てた時に生じる痺れや痛みなど亮太は感じなかった。殆どボールの感覚がなかったが、野球をしてきた中で聞いた打球音の中で一番の音が耳に届いた。
 打球は青空に飲み込まれて、姿を消したように亮太の目に映らなかった。代わりに呆然と立ち尽くながらも凛としている奏多の姿が目から離れなかった。

文責 朝比奈 ケイスケ

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