虚像と現実の間で【ショート・ショート37】

「応援してるよ、頑張れ、ヒカリ」
 小雨が降り落ちる新宿の歩道橋で叫んだ。恥ずかしさを飲み込みながら、伝えた言葉は、彼女の耳に届いた。そのことを証明するように後姿だった彼女は振り向いて、紡の姿を見つめた。紡と彼女のやり取りをもの珍しそうに、それでいてイタイカップルだと言われるような目線が絶えず刺さってくる。
 初めて会った時、整った顔によく似合っていた長い髪をしていた。でも目の前にいる彼女は、驚くほどばっさりと髪を切ったショートカットにイメージチェンジをしている。ゆっくりと紡の居る場所へと歩き始めた。緊張か寒さか、それとも両方だろうか、内外の刺激が身体に反応を示しているように手が震え、用意した言葉が飛びそうだった。
 手を伸ばせば届く距離に彼女は止まり、まっすぐな視線を送り続ける。雨が紡たちを翻弄させるように強くなる。着ていたシャツが、それまでとは異なった速度で濡れ、気持ち悪さを抱かせる。彼女も同じように髪の毛から、靴まで濡れて、服の色が濃くなっていくのが分かった。
 そんなことを感じながら、心臓の鼓動はアップテンポに高鳴り、血液を体内へと巡らせる。もう何度も会っているはずなのに見慣れないのは、恐らく今まで一番可愛いからだ、ウソみたいに。そんなことを頭の片隅に無理矢理押し込んで、紡も真っ直ぐ彼女を見つめる。
「本当に?」
「うん、好きだからさ」
「本当?」
 雨が強くなって、彼女から発せられる言葉は聞き取りにくかったが、震えているのは分かった。抱いていた緊張が、伝播してしまっているのかと不安になったけれど、無視を決め込んで用意した言葉を吐き出す。
「本当だよ。オレはヒカリのことが好きだ」
  言い終わった後、笑顔を作る。そろそろだ、と心で呟く。
「こんな私だけど、本当にいいの?」
 雨でびしょ濡れになった髪から垂れる雨粒が彼女の隠れていた色っぽさを露わにし強調させ、同時に涙が流れているように見える。
「だからさぁ……」
 左手を伸ばして、彼女の肩を掴み、一気に引き寄せた。
「もうさ、そういう風なこと言うのやめろよ」
 彼女の顔を見つめる。雨で冷たくなっているが、どこか温かさを感じる彼女の身体をぎゅっと抱きしめる。
「……うん、ありがとう」
 傘を差した通行人たちは、ちらりと、ボクらを一瞥し、何もなかったように視線を元の場所に戻して歩いていく姿が目に入る。
 三十秒もしない時間、無言で抱き合った。
 これくらいでいいだろうと判断して、抱きしめていた両腕の力を緩め、控えめな力で彼女の身体を押した。抱き合っていた距離に僅かな空間が生まれる。紡とヒカリとの間にできた空間は、この後の行為の準備。数秒もしないうちに紡は、ヒカリとの空間を埋めるように顔を近づける。
 条件反射のように彼女は目を瞑り、そのまま唇と唇が重なり合った。小刻みに震えていた唇は、次第に落ち着きを取り戻していく。もしかしたら、この時間を人は幸せと呼ぶのだろう。紡は考え始めていた。
「はい、カット」
 その言葉で、状況が劇的にかつ急激に変化する。ゆっくりと唇を彼女の唇から遠ざけていく最中に抑え込んだ恥ずかしさが顔を出した。そして意図せずとも表情が緩む。それを間近で見ていた最近話題の作品に引っ張りだこのモデル兼女優の優希は二十歳らしい無垢な少女と色っぽい大人の同居した表情で笑った。やっぱり可愛かった。キスシーンが終わった解放感からの油断だろう、心が持っていかれそうになる。
「なんか紡さん、可愛いですね」
 さっき見た笑顔の数倍の可愛い笑顔で言うものだから、照れ隠しで苦笑する演技をするしか選択肢がなかった。
「なんだよ、それ」
 ささいなやり取りの間に、スタッフが持っていた傘が紡と彼女それぞれの頭の上で広がり、雨を遮断した。片手に持っていたタオルを手渡され、髪の毛から吹き始める。優希も同じようにタオルを使って、濡れた髪や顔を拭き始めた。
「お疲れさん、良かったぞ、紡」
 ドラマの監督が近づき、肩を叩いた。
「ありがとうございます」
 丁寧に頭を下げると、次も頼むな、と紡の耳に届く。えっ、と狐につままれたような感情が表情として前面に出てしまった。すると監督は黙って、右親指を立てた。五十を過ぎたおっさんらしくない笑顔を向けて、優希に話しかけた。
次の瞬間、仲良くしていたAD小室の大きな声が耳に届く。
「以上で、朝倉紡さん、オールアップです」
 拍手と共に、花束を渡された。何度目かの体験なのにも関わらず、未だに慣れないままで恐縮してしまう。
 片手に花束を抱えながら、その場に相応しいと思われる言葉を演者、スタッフ、エキストラへと大きさの声量で伝えた。雨は、少し弱まり、シーンの始まりと同じくらいの小雨に変わっていた。
 見ている風景、拍手、労いの言葉、色々なことが積み重なって、俳優という仕事の楽しさが全身に巡っていくのを実感する。こんな非日常的な体験を何度も繰り返して、いずれ映像作品になる。その過程は、この仕事を生業にしてからも擦れることなく、純粋に嬉しいと思える感情は生き続けている。
 でも続かない。すぐに何者でもない二十歳過ぎの若者に戻ってしまうから。
 この場所は、最初に出ることになったドラマでも使った思い出の場所だと認識する。そして記憶に刻まれた出来事が悪意を持って全身を包み込んでいく。でも演技をしている時間、その瞬間だけは解放される。紡にとって演技をしている間だけは、過去との決別ができる唯一の時間だった。

文責 朝比奈 ケイスケ

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