まっすぐに純粋に【ショート・ショート36】

 アスファルトに陽炎が出来ている。夏らしい風景ではあるが、連日のように続くと嫌気が差す。だからと言って梅雨のように雨が降り続けたとしたら、それはそれで暑さと同じように嫌気が差す。人間という生物はない物ねだりだ。そんなことが不意に頭に浮かび、苦笑してしまう。
「人は後悔する生き物です。だからこそ、後悔の無い人生を歩んでほしい」
 高校生活最後の日、学生服を着て受ける最後のホームルームで担任の教師が言った言葉を思い出した。同時に窓から見えるグラウンド、その奥にある街並みに盆地ならではの山ばかりの風景が蘇る。あの時の僕は、形式ばった日本らしい行事、いや儀式である卒業式など興味が無く、ぼんやりと窓から見える風景を眺めていた。しかし何故か、その言葉だけは頭の中に残っている。そのことに恐らく意味という大それたものはない。例えばそれは渋谷のスクランブル交差点を歩く通行人の中で、一際目立つ格好をした人間を見たような感覚。要は、違和感があっただけの話だ。
 お前の発した言葉は矛盾している。後悔する生き物が後悔しない生き方をするなんてことは冷静に鑑みておかしな話で、お前は後悔しない生き方をすることができたのか、と好戦的に問い掛けたくなる衝動があった。その頃の僕は尖っていた。十八歳という年齢を踏まえれば、決して不思議ではない。しかしあの学校の中で一番尖っていたと思う節が僕には確かにあった。自意識過剰と言われてしまえば、次に出すのは弁解の言葉ではなく、壊れた右肩で繰り出す右ストレートだっただろう。自分の気に喰わないことに対して、言葉ではなく力でねじ伏せることが正義だと思っていた。目が当てられない程度に尖っていた。その事実は僕の中では消したい記憶の一つだった。最近の言葉で表現するのであれば、黒歴史だった。
 あれから十年の月日が経って、尖ったものも世間の荒波と呼ばれる何かに静かに研磨され丸くなった。それは川の流れによって角を失った石という表現が正しいのだろうか。そんなことは正直どうでもよかったが、あの時のようにすぐに手が出るなんてことは無くなった。それは血の気が減ったのか、はたまたモラルや常識と言った誰が宣言したかすら分からない見えないルールに染まったという訳でもなかった。ただ、何かに対して苛立ちを覚え、力で制圧しようとする熱量が僕の中から失われただけの話だった。そう考えると、あの時の僕には制御することが困難なほどの熱量や活力のようなものに溢れていたのだろう。十年間という月日が過ぎ去る間に、生きていく上で重要な何かを失った気がする。正確には、その何かを僕は承知している。でも敢えて口に出さない。出さないと決めたから。
 
 太陽の光で目を覚ました。眠気眼でローボードの上の時計を確認する。十一時を少し過ぎた時刻を示している。寝坊だと動揺したが数秒で、行くべき場所がこの世から消え去ったことを思い出した。
 会社は社会人になってから僕の何割かを占めるアイデンティティだった。しかし無情な程脆く、まるで砂の城のように昨日それを失った。急な倒産や解雇であれば怒りを会社に向けることができた。しかし経営不振中でも今までの年数に見合う以上の退職金を支払ってくれる優しさを見せた、ある意味円満的に倒産した会社に怒りを向けることはできなかった。その代わりに社会で生き抜くことの難しさを痛感した。僕を可愛がってくれた上司や先輩、慕ってくれた後輩の顔が浮かび、悲しさと切なさが胸の中を占拠する。そんな状況だからか、有名女優がリリースした陳腐なメロディを口ずさんでしまう。どうやら精神が不安定になっているようだ。

 大輔からLINEのメッセージが届いたのは、昨日の夜だった。『飲みに行こう』という文字の後に人気アニメのキャラクターのスタンプが連続で三個送りつけられた画面を見ていると、相変わらず変わっていないなと思った。あの頃はメールが全盛期の時代だったからスタンプなどといった突起な表現方法はなかったが、顔文字や絵文字満載のギャルのようなメールばかりが届いていたことを思い出す。あの頃から今に至るまで、大輔は大輔だった。
『明日の二十時以降なら空いてる』
 僕が送った淡白で飾り気のない返信も変わっていない。もう十年近くが経過している事実が嘘のように感じるのは、あの頃から進歩していないことを意味しているように思え、笑いたくなった。一番多感で、何でもできた時間を溝にブン投げるように無駄に昇華した過去の自分を殴ってやりたい。
 テーブルに置いてあったタバコを手に持って、ベランダに出た。大学時代から使っているジッポーライターで火を付け、煙を吐き出す。身体が重くなっていくのを感じながら、ゆらゆらと青空に伸びていく煙を眺めた。セミの鳴き声ばかりが耳に届く昨日と変わらない昼だった。この繰り返しの中で、僕はいくつ可能性を捨ててきたのだろう。そして得たものは一体なんだろうか。答えの見えない問いかけは、最近。睡眠導入を妨げるように明け方まで頭の中を巡り続けた。


「で、昨日のテレビ見た?」
 ビールジョッキを片手に頬を赤らめた大輔は尋ねた。安さを売りにしているチェーンの居酒屋は金曜日という事で必要以上に騒がしく、店員たちも忙しなく動き回っている。
「昨日のテレビって何?」
 大輔は驚いたような表情を浮かべた。まるで見ていないことが常軌を逸しているかのような、今まであったことのない動物を眺めるような表情だ。大輔が何を言いたいのか、僕は全く分からなかった。あの頃なら、その問いかけに対して簡単に答えを出せていたのに。時代の進歩による弊害のようなものを抱いた。インターネットやスマートフォンが普及し、必要な情報をテレビじゃなくても獲得できる時代だ。ドラマや映画だって持ち運びのできるスマホやタブレットでも見れる。テレビは必需品とは言えない物へと移り変わっている。そういえばテレビもここ数週間、電源を入れていない。
「テレビオタクだった敦也がテレビの話に着いてこれないとか、オレらも大人になったな」
 大輔は笑いながら、タバコに火を付けた。
「で、昨日テレビの話は何なの?」
 ビールで口を潤してから訊いた。サーバーの整備を怠っているのか、ひどくマズいビールの味が口の中で広がった。次からは瓶ビールに変えよう。
「昨日な、息子を寝かしつけた後にスポーツ番組を見てたのな。勿論、巨人戦のハイライトを見たかったんからなんだけど」
「阿部がサヨナラ打ったんだよな」
「そうそう。インコースの厳しいコースを上手く腕を畳んでな。あれが出来るなら、来年も四番打てるぞ」
「阿部って何歳だっけ?」
「もう四十目前。キャッチャーを辞めちゃったのは悲しいけど、充分戦力だよ」
「もうそんな年齢か……。オレらが中学時代に入団したんだよな、確か。あの頃は、ダブル村田のどっちかで行くのかと思ったけど、まさかのスタメンだったな。あんなに細かったのに開幕マスクって凄いよな」
「細いブルペン捕手が何言ってんだよ?」
「だから余計に凄いと思うんだよ。今の阿部には、細かった頃の面影なんて全くないけどな」
「そうだな。でも阿部を見てると、小和田が身体をデカくしろって言っていた意味が分かる気がするよ」
 高校時代の野球部顧問、鬼軍曹の異名を持つ小和田の名前を聞くだけで背筋が真っ直ぐなった。パブロフの犬、その実験が三年間行われていたことを振り返る。あれは実験というよりかは、軍隊養成の方が相応しいか。それだけ厳しかった小和田のおかげで、大抵の理不尽には耐ええる守備力を身に付けている。それが社会人になった今の僕を支えていると思うと、感謝したい気持ちが少しだけ芽生えた。でも二度と戻りたくない、本音だ。
「別に身体をデカくしないと野球ができない訳じゃないだろ?」
「まぁな。体格が全く変わっていないイチローはまだまだ現役だし、山田とか坂本みたいに細い選手も活躍しているな」
「野球の勝敗は体つきや筋力で決まる訳じゃない。ここが重要なんだよ」
 僕は右人差し指でこめかみに二回ほど叩いた。
「はいはい。分かってるよ、盗塁阻止一割台の名捕手さん」
「バカにしてるだろ?」
「勿論。敦也に筋力があったら、レギュラーだったってのは野球部の共通認識だから」
 その言葉に少しイラッとした。どれだけ筋トレをしても他の奴みたいに筋力が付かない悲しさを語ってやりたい衝動が芽生える。喉元までやってきた言葉を音にせずにタバコの煙と一緒に吐き出した。
「で、阿部の話がしたかったの?」
 大輔、いや野球が好きな奴と話すとどうしても脱線してしまう。定期的に野球をやらなくなった今でも野球というスポーツは僕の中に根を張っていることを自覚する。
「巨人戦からこんなに脱線するとは思わなかったんだけどな……」
 テーブルの端に置かれていた電子パネルを手に取った大輔は、話を一度中断し、ビールと幾つかのつまみを注文した。僕も大輔の注文に乗っかる形で、瓶ビールを注文した。
「で?」
「その一言で質問追及するの変わってないな」
「うるさいよ。その番組のアナウンサーが可愛かったとかだったら、今日の飲み代は大輔のおごりだからな」
「なんだよ、それ。確かにあのアナウンサーは可愛いけどさ、オレが話したいのはそのことじゃないんだ。プロ野球と高校野球の試合結果の後に、特集があってな。北関東で発足した独立リーグの話なんだけど」
「四国や信州よりは目立たないけど、独立リーグがあることは知ってる。それがどうした?」
「その特集の中でな、北関東独立リーグで最年長の選手が特集されてたんだ」
「別に不思議な事じゃないだろ? プロになれるギリギリの年齢、オレら位の年齢の奴を特集すれば、野球を続けるか辞めるかみたいな葛藤も撮れるし、いい材料だろ」
「相変わらず醒めてんな。まぁそれが敦也だからいいんだけど。その特集されてた選手がな……」
 大輔が選手の名前を言おうとした瞬間に、大学生くらいの店員が僕らの席に注文した瓶ビールやら玉子焼きなどを持って現れた。持ってくるタイミングが絶妙に悪く、結末を先延ばしにする安いバラエティー番組の映像と重なった。
 運ばれたものがテーブルに置かれ、互いに新しいタバコに火を付けて会話に戻る。
「特集されてた選手って? 元プロとか?」
「元プロとかなら話さないよ。同年代の選手をきっかけにプロ野球話に花を咲かせるも楽しいけど、それ以上に衝撃だったからな」
 左の口角だけを器用に上げて、大輔は僕の様子を伺っている。まるで配球を読んでいるバッターのような不敵な笑みだ。この笑みをする大輔を僕は紅白戦で押さえたことは無い。久し振りに負けるのだろうか。ただ負けるのは癪だった僕も大輔が出そうとしている人物を当てる為に可能性を挙げていく。でもことごとく外れた。最終的に該当しそうな選手の名前は底をついた。
 お手上げだ、と伝えるように首を挙げ天井を見上げる。見えない冷気を送り出す業務用のエアコンの姿が目に入った。最後の夏、僕らが引退することになった地方大会準決勝の映像が不意に浮かび上がってきた。エースだった剛が投げ込んだアウトコース低めのストレート、豪快なフルスイングで弾き返した打者のスイング、音の消えたグラウンド、見えなくなった白球。槻木に思い出すのは、諦めを詰め込んだ感情を抱きながら、俯いた僕が目にしたブルペンの汚れたホームベースだった。まさかな、と思った。でも大輔の勿体ぶり方を踏まえたら十分にあり得る答えだった。
「まさか、剛?」
 半信半疑で僕は言った。ビールの泡のようにすぐに消える小さな声だった。天井のエアコンが勢いよく稼働し、僕の声を飲み込んだ。でも大輔にはしっかり届いている。大輔の表情が、それを物語っていた。
「ここ当てる? 驚く敦也の顔を見たかったのに……。そう、塩崎だったんだよ。見た時は驚いたぜ。息子が起きるくらいの大声を出しちまったよ」
 悔しさを含んだ顔をしてから、すぐに大輔は豪快に笑い出した。息子を起こしてしまったという瞬間を再現するように。そして僕の前に自分のグラスを差し出す。乾杯ってことか。空だったグラスに瓶ビールを適当に注ぎ、大輔の持つジョッキに申し訳ない程度に当ててから、一気に飲み干した。大輔も同じくビールを飲み干す。僕達は骨の髄まで野球部、体育会系の時代不相応の血が流れている気がした。
 大輔は楽しそうに特集の話をしている間、僕の心中は穏やかじゃなかった。二十八歳という年齢を踏まえれば、夢を追っている剛は同級生の中で言えば、極めてイレギュラーな存在。大学四年のドラフトで指名されなかったことを知っていたから、野球は辞めているだろうとタカを括っていた。だってアラサーの僕達は、そういったもの全て清算して、好きでもないことを生業にするのが当たり前だと思っていたから。ましてや目指す先がプロ野球選手。頑張っている剛には申し訳ないが、その夢は叶わないぞ、と毒づいてしまった。そして何より独立リーグとはいえ野球選手として給与を貰っていることが気に喰わないから。言葉にすれば、嫉妬という二文字で片付く人間らしい感情が胸の中で渦巻いていることに、僕は敏感に反応してしまう。
「塩崎、まだ野球やってたんだな」
 ひとしきり話を終えた大輔は、感慨深く言った。目線はまるで過去を思い出すかのように遠くを見ている。その気持ちは、よく分かった。僕らが関わった先輩、同級生、後輩を含めてプロで活躍する奴は誰もいない。一緒にプレーをしていて度肝を抜かれても結局は地元止まりだった。それだけプロへの道は厳しく、そして険しい。その事実は僕の伸び切っていた鼻を簡単にへし折り、そして高校一年の春に決断せねばならない状況にぶち当たった。苦い思い出を掘り起こして自己嫌悪に陥る前に、目の前の瓶ビールを注ぎ、再び一気に飲み干した。抱えた後悔は、思った以上に心の柔いところに根付いている。
 どうやら僕は後悔の無い人生なんて全く歩んでいなかったみたいだ。

文責 朝比奈 ケイスケ

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