横顔【ショート・ショート34】

 教室の視線は、前方で演説のように語る教授に向いている。経営についての知識がない下級生にも伝わる分かりやすい説明は、基礎を取り損ねた身としては復習の役割を果たしていた。けれど二回目の講義を真面目に聞くほど優秀じゃない僕は、ルーズリーフにシャーペンを走らせ、何本の線を紡いでいた。
「何書いてるの?」
 友人が尋ねる。単位を落とした仲間は僕と同じような姿勢を貫き、彼女とのLINEに勤しんでいる。
「線」
 視線を移さず、冷めたトーンで答えた。お前は知ってるだろ? という本音を閉じ込めて。
「斬新な返しするなよ。線って、なんだよ」
「辞書を引け、辞書を」
「別に何か書いててもいいけどさ、単位落とすなよ」
「それ、お前が言う?」
「オレとお前の落とし方には違いがあるだろ? オレは出席が足りなかっただけ。お前はどうだ? 違うだろ?」
 返す言葉が見当たらないのは、僕は出席が足りなくて落とした。お前は教授の研究室所属であり、「基本が抜けている」と強烈な指摘を受けて受講している身だった。友人がボケていることを理解しながら、僕は「確かに。僕は点数が足りなかったからな」とこぼした。
「いや、すんなり受け入れるな。ボケを潰すな」
 友人の声が大きくて、教室の視線が僕らの座る席に向いた。教授も呆れた顔で僕らを見つめている。
「教授、そんな目で見ないでくださいよ。オレらがアホなの知ってるでしょ?」
 友人は教授に向かい陽気に発言する。教授は口角を上げ、何も見なかったような振る舞いで、再び話し始めた。諦めなのか、友人との関係性が良好なのかは僕には分からないけれど、集まった視線は自然と黒板のある前方に戻っていく。でも最後まで僕らを見る人が居た。笑みを浮かべて、軽く手を振った彼女は今日も可愛かった。普段ならまっすぐ彼女を見ることができないけれど、講義のような集団かつ物理的な距離が生じる環境では不思議と大丈夫だった。
 友人は「ちょっと寝るわ」と言ってから、机の上に突っ伏した形で昼寝を始めた。大学生という身分は、講義を受けるという必須事項よりも大切なことで溢れていて、本分が疎かになることを体現する友人は、気持ちよさそうな寝息を立て始めた。僕は苦笑してから、ルーズリーフに目を落とした。
 無数に描いた線の群れは、一つの形をおぼろげにしている。完成に向かってシャーペンを持った手を動かしていく。彼女の横顔とルーズリーフを交互に見ながら書き進めていくのは、大学時代に入ってからの習慣になりつつあった。気持ち悪いけれども、僕は止めることを選ばなかった。
 一度だけ、完成間近の顔を隣で眠る友人に見られたことがあった。確か、一回生の夏前だ。あの時、全てが終わったと悟った。でも彼は笑いながら「お前、恋してるな」と呟いてから「ってかめっちゃ絵上手くない?」と僕の気持ち悪い所作を肯定してくれた。初めてできた友人の存在は僕にとっては心強く、気付けばいつも隣にいるようになった。
 彼の広い交友関係の為せる技に飲み込まれて、高校時代まで教室の端で絵を描いていた根暗な学生生活が大きな変化を生んだ。友人関係が広がったし、サシで飲みに行くような仲間ができた。何より彼女と思わぬ形で近づくことができた。
 遅く来た青春。高校時代にできなかったことを回収するかのような毎日は、本当に美しくて鮮やかだった。ただ、知ってしまったことで悩むことも増えた。彼を始めとしての関係性においての自分の存在意義なんて哲学的な課題、彼女との距離が近づけば近づくほど想いが大きくなり、関係性が壊れてしまうことへの恐怖が芽生えて辛くなってしまうことを。
 書き上がった人物画、真剣な表情の彼女の横顔だ。シャーペンにルーズリーフという選択で絵を書く時点で芸術的には落第点だろうし、ただのエゴであることは分かっている。でも、いつか正面から書いてみたいという欲求が募っていくけれど、ストレートのバーボンとセットのチェイサーのように一気に飲み込む。彼女の横顔を見ているだけで満足できなくなっていることへのエゴをしっかりと汲み取っては、自戒のように呟く。彼女の前にいるのは僕ではない、と。
 カバンの中から一冊のクリアファイルを取り出す。ファイルに収まったルーズリーフには講義の時間に書き続けた友人達の絵が入っている。全て横顔だ。その絵が訴えかける。僕は友人達と真っ正面から向き合ったことがないことを静かに伝える。なんだか警告のようだ。
 机においたスマホが震えた。慣れた手つきで操作すると、LINEが一通届いていた。
『今日は何を書いてるの?』
 彼女からのメッセージに驚いて、思わず前方に座っている姿に視点を合わせた。彼女はこちらを向いて、まっすぐ僕を見つめていた。心拍数が上がっていくのを感じる。顔が熱くなっていく感覚もあって、真っ赤になっていないか心配になった。
 そういえば隣の友人が言ってたな。
「お前はさ、もっと自信持てよな。絵にも仲間にも、何より彼女にもさ。お前は実感ないかも知れないけどさ、オレらにとってお前の存在は結構大きいんだぜ? 困ったことがあったらオレじゃなくてお前に相談する奴の方が多いのは、お前が信頼されている証拠だぞ。それにそういうお前の姿を好意的に見てくれている人もいる。彼女と良い関係性なのは彼女が良い人だからじゃねぇよ。お前が積んできたことの結果だぞ」
 二十歳になって初めて抱く想い。
 どうやら、僕はどうしょうもないくらいに彼女に恋をしている。

文責 朝比奈 ケイスケ

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