恋の記憶【ショート・ショート30】

 部屋の掃除も中盤になって手が止まった。部屋に差し込む日差しは眩しくて、外にでも出たいという欲求が溢れ出そうになったけれど、外出自粛という紋所をチラつかせて、我慢した結果だったのかも知れない。クローゼットの奥に閉まった高校時代の記憶を詰め込んだ箱、その横には大学時代の記憶を詰め込んだ箱があって、かつての僕はやけに几帳面だったことに思わず笑ってしまった。どうするか、少し迷ってから、二つの箱を引っ張り出した。
 高校時代の3年、大学時代の4年、合わせて7年の青春の断片に触れるには、覚悟が必要だった。思い出に浸るには、まだ若かったし、色合いの乏しい現実を踏まえれば、中毒症状のように過去に身を焦がしてしまう可能性が高かったからだ。
 部屋の中心に置いた二つの箱の前で、胡坐をかく。まるでパンドラの箱を目の前にした登場人物の心情を推測する。この箱を開けた先に待っているのは、希望か或いは絶望か。
 部屋に流れる音楽に耳を傾ける。かつては聞かなかったジャンルのリズムは、社会人になって変化している自分を顕著に表していた。丁度流れ出したサビの歌詞を口ずさみながら、ゆっくりと、かつ丁寧に箱を蓋を持ち上げた。
 かつて使っていたガラケー、好きだったアーティストのCDなどが視界に入る。これはタイムカプセルだな、なんて自嘲しながら箱の中で一際主張していた卒業アルバムに手を伸ばす。
 1ページ目から、小説を読むときのようにページを捲っていく。青春時代に通い続けた校舎を中心に据えた上空写真。何一つ感情が揺らがなかったのは、思い入れが何もなかったからかも知れない。選手名鑑のように顔写真と名前だけで埋まるページを開いても、揺るがない感情。どうやら、後悔も未練も何も抱いていないらしい。
 懐かしい顔や名前。仲良くしていた友人も含めて、その誰もが同級生というカテゴリーから抜け出すことはなく、疎遠になっている。連絡先も知らなければ、SNSで繋がってもいない。まるで歴史上の人物を教科書で見るような感覚だ。僕自身、疎遠になったことを望んでいたことを思い知る。そういえば、結婚式二次会に招待されたな、なんて遠い過去を回顧するのが精一杯だった。
 ページを捲り、自分が在籍していたクラスを開いた。坊主頭で仏頂面の写真からは一抹の憎しみを抱いているようだった。思い出せば、楽しかった記憶は無い。汚い感情で溢れた時間、ねじ曲がった自意識をこじらせた成れの果てを見事に体現しているようで、ページを乱暴に閉じた。高校時代を適切に表現すれば、黒歴史。可能であれば記憶から消去したいことばかり。二度と戻りたくない時間だった。
 目を背けるように立ち上がり、ベランダに出た。エアコンの室外機に置いたままのライターを手に持ち、ポケットからタバコを取り出して火を点した。
 晴天の空、近くからは子供の声が聞こえ、車の走行音が断続的に耳に入る。目には見えない脅威に対抗することを強要された状況を説明しなければ、普段と変わらない休日だった。煙を吐き出す。習慣化した動作、もはや無意識の領域だ。人差し指と中指で掴むタバコを見つめ、感慨に浸る。この習慣が身に付いたのは、大学時代のことだ。
 高校時代の忌まわしき関係から逃れるように上京した。学が無かったから、受験はかなり苦戦したけれど、なんとか抜け出す切符を手に入れた。あの時に抱いていた活力は、人生でも類を見ないほどだった。 スーツ姿で大学の入学式に向かう日、玄関で手足にまとわりついた鎖が外れた音は、今でも鮮明に思い出せる。
 全てを捨てたことで真っ新になった自分は、活き活きしていた。誰もしならない場所でリスタートする人間の気持ちは痛いほど分かったし、その選択肢は人生において重要な意味を持つことを身をもって知った。
 都内のキャパスに通い、僕は大きく変わったと思う。本質の部分はひどい油汚れのように落ちなかったけれど、それでも変わったという実感が僕に生気をもたらしていた。
 大学時代には、高校時代の貴重とされる時間では得ることができなかった青春が詰め込まれていた。そして酒もタバコも麻雀も覚えた。そういえば、最近は麻雀できてないな。
 時間を金で買う。言葉にすれば賛否を抱く事実のおかげで、自由の断片を触れることができた。
 短くなったタバコを灰皿に押しつけて、僕は部屋に戻り、もう一つの箱を開けた。高校時代の箱と同じように使っていたガラケー、卒業アルバム、誕生日に貰ったプレゼントなどが詰まっていた。圧倒的な物量は、時間の濃さを語っていた。物に付属する思い出から滲む懐かしさには言葉に出来ない心地よさが漂っていた。卒業アルバムを持ち上げると、お菓子の缶が申し訳ない程度に顔を出した。
 何を入れたか覚えていない缶の中身を確認しようとした時、心拍数が一気に上がるのを感じた。断片的になった記憶をかき集めて、答えを導こうとする理性を無視して、缶を開けた。中身を見て、苦笑してしまった。
 ピンクの封筒と何枚かの写真。
 直列回路で電流が走り、豆電球が光る理科の実験が頭に浮かんだ。これは、大事な青春の記憶。数少ない後悔の切れ端だった。一度、目を瞑ってから、全てを受け入れるように目を開く。
 元カノに貰った手紙とツーショットの写真は、自分の未熟さと傲慢さを映し出すには十分すぎるほどの破壊力を抱いていた。笑顔の二人が壊れたのは自分自身の失態であり、可愛らしい彼女の笑顔は今見ても僕には分不相応だった。
 封筒に入っていたスケジュール帳サイズのノートには、僕には書けないような丸文字で僕への思いを綴られていた。卒業アルバムを見るときよりも慎重に文章を読み込んでいく。所々、接続詞がおかしくて気になったけれど、まっすぐ自分のために時間を割いてくれたことが嬉しく感じられた。僕の欠点を指摘しつつ、私が補うからと言わんばかりの言葉に胸が張り裂けそうになった。別れる前から思っていたけれど、やっぱり大事にすべき人だった。でも僕に芽生えた厄介な自意識とプライド、そして大事な人だからこそ幸せになってほしいと思った感情が邪魔をした。言い訳だ。素直に謝ることができなかったこと、ちゃんと言葉にして伝えなかったことへの後悔が、痛みに変換されて襲いかかってきた。まるでダッシュを繰り返した後のような心拍数。絶対に消してはならない後悔は、時間と共に風化してしまったことに自覚的になって、嫌悪感を抱いてしまう。
 逃げるように卒業アルバムを手に取ろうとしたとき、掴みきれず音を立てて床に落ちた。まるで過去から現実に戻す合図の音が、無意識に遮断した音を聞き取り始める。
 彼女が好きだったアーティストの曲。しかもタイミング悪く、失恋ソングだから、神様の悪戯に憤りすら覚えた。
 床に落ちた卒業アルバムを手に取り、青春時代を過ごした仲間の写真を探した。卒業アルバムの構成なんて普遍的なものだから、高校時代のソレと同様に名前と顔写真で埋まっている。仲間の顔は、半年前に見た顔を変わらずで笑みがこぼれた。でも僕の顔だけが違った。こんなに笑えていたのか、と思い知るほどの充実感に染まった顔。でもさっき見たツーショット写真の方が、はるかに良い笑顔を浮かべていた。もはや比べものにならなかった。
 色々な初めてを教えてくれた彼女は、僕の人生において重要で大きな存在だった。今更、理解する愚かな自分を呪いながら、今だからこそ分かるのだろうなと思った。
 彼女は元気にしているのだろか。幸せなんだろうか。いや、彼女は大丈夫だ。すぐに思考が切り替わる。僕のような人でなしを僅かな間だったけれど、支えてくれ、人間にさせてくれたのだから。彼女の柔らかく暖かな手の感触が左手に蘇ってきた気がした。
 いい恋をさせてもらった。感謝しか無かった。
 時間が経過してから大事さに気付く僕の時間軸とどうしょうもない女々しさは、彼女の残した僕へのアドバイスのようだ。
 前を向きなよ。辛いときは辛いといいなよ、黙ってちゃダメだよ。
 涙が出ないのは、それだけ時間が経った証明で、大人になったことを意味しているのだろうな。
 だからこそ僕は強い気持ちを込めて、十年前に言えなかった言葉を口にした。
  
 文責 朝比奈 ケイスケ

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