4月19日の戯言

 変な方向に跳ねた寝癖と無精ひげを蓄えた風貌で、コーヒーを飲みながら、タバコを吸って、読書に勤しむ。お気に入りのバーに置いてあるような椅子に座り、HIPHOP流す休日を過ごしていると、断捨離的なことを考え始める自分に気付いてしまう。
 何が必要で、何が不必要なのか。
 考えなくても良いことを考えてしまう程度に、余裕ができた頭の中を俯瞰しながら、部屋に差し込む日差しを眺めている。暇。その一言で回収できる時間の過ごし方は善なのか、悪なのか。僕には分からないけれど、普段と寸分の誤差のない過ごし方であることは否めない。
 スマホをいじれば、ツイッターやネットニュースで感染症情報や各々の過ごし方について言及している文章ばかりが目に入る。
 テレワーク、ZOOM、インスタライブなど、関わりの薄い単語を読みながら、人は人との関わりを大事にする傾向が強いのだと思い知る。そしてこんな時期だからこそ、今までできなかったことに取り組む様子が見受けられて、人間としての生き方をどこかで誤ったきらいを抱いてしまう。
 友人は音楽を演奏したりやラジオという方法論を用いて情報というか、存在を世間に発信している。なんだか新たな試みに意欲的だ。そうした出来事を見ていると、自分自身の過ごし方について振り返ってしまう。
 友人が少ない。この絶対的な壁を越えられないから、独りで取り組めること、満足できることにずっと昔から手が伸びてきた。誰かの領域に足を踏み込まない日本人らしい奥ゆかしさを体現するように、それでいて自己完結で収まる事柄で生活を満たしているからこそ、自分とは異なる他者がどのように過ごしているのかについて考察してしまうし、誰かにとっての自分の存在について問いかけてしまう。
 音楽を歌うことも演奏することも、モノマネや一発ギャグを考えて実施できることもできない。映画やアニメに造形が深くもないし、テレビも部屋にないから再放送されているらしいドラマを見ることもない。そんな僕は、教室の片隅でどうしょうもない空想を描いている生徒のように、自分の頭に浮かぶ映像や心情を言葉に落とし込んでいく自慰行為か文章から想像する行為を繰り返している。
 ラジオが生活の一部になっているから、幸い、誰かの声を聞くということはできるし、笑うこともあるけれど、声を出さないことが日常になっていることを自嘲してしまう。自分の声が出るかな、なんて思いながら、今日も意味の無い言葉を発信して安堵する。
 そんな状況、立ち位置というか、自分という存在を無言で、それでいて強く主張するもんだから、関わりもドラッグストアのマスクの在庫みたいに希薄で、連絡ツールは鳴りもしない。そういえば、一週間くらいLINEのアプリを開いてない。誰かの懐に飛び込んでもいなければ、飛び込まれていないことで、名前などのコードとして認識はされていても、それ以上の関わりということでいえば、それこそ不要不急なんだろうなと感じてしまう。
 幾分、寂しさを抱くけれど、そういう場所に居すぎているから慣れてしまっていて、恐らく耐久性は他の人よりも高かったりする。そういう生き方だから、他人への興味よりも、自分へと矢印が向くという悪い傾向が如実に顔を出す。奥ゆかしさ、引っ込み思案など日本人の美徳であり、ワールドワイドにおいての課題が直に向かってくる。
 自分の弱さを言語化できない。誰かを巻き込んで解決を得ようとするエゴが抜け落ちているというか、方法論が見えてこない。言語化できないことはないと同義で、自分の愚かさだと思い込む自分の頑なな思考回路は、文章に魅了された副作用なんだろうか。書けない物語は、存在しない。ならば物語を口にするには書かないといけない。その愚直にすら感じてしまうことが、実生活でも根を張っている事実に我ながら呆れてしまう。
 この世で一番かっこいいのは、スラムダンクでいう流川のようなクールで、根に熱い意思を抱く生き方であると信じているからこそ、スキルも無いのにガイドラインに沿ってブランディングしてきた過去があって、その側面から見れば成功していると判断できる。けれど絶対的な部分、圧倒的な力がないと、それはプライドばかりが高いイタい奴になってしまう。カッコいいという理想と実際に誰かを信じて自己犠牲すら厭わない小暮のような生き方を各所で実践してきた現実との差が、僕を惑わし、グラつかせる。
 流川のスタイルは僕の人(にん)と合ってないのかもしれない。
 プライドの捨て方なんて知れれば何かが変わるのかも知れないけれど、今になって自分の見え方を考えている時点で、そのプライドの高さは天井が見えないし、外面だけを切り取れば、自分勝手に生きてるからこそ、内面に焦点が合ってしまう。自分だけしか知らない部分。ジョハリの窓か。残りの窓がぼんやりでも見れれば、やっぱり違うのだろうか。
 自分にできることに没頭する。ネガティブを変えるには、ポジティブではなく没頭とかつて語った、オードリーの若林の言葉を鵜呑みにして、140字小説だけは書き綴る。数年前から始めた行動は、気付けば日常に溶け込んで習慣化している。毎日、毎日、140文字という制限の中で伝える物語を描くために、試行錯誤を繰り返すことは時間を忘れるくらい楽しい。暇すぎると、物語を書くことを辞めるなと自分を律するかのように何作も書いては投稿する。
 たまにショート・ショートや中編のプロットを考えて、実際に文字に起こすこともあるけれど、下手なことに気付いてしまうから、完璧主義者として認められなくて手が止まってしまう。
 あぁ、変わってないな。ずっと前に生きている過去の自分から。人生は過去の地続きであり、未来にも繋がっているということを嫌でも実感してしまう。環境、他者との関わり、社会情勢が変わろうとも、自分の内面は一向に変わっていないことを突きつけられて、思う。
 変わらないことは美徳ですか? それとも悪行ですか?
 同じ場所に立ち続けて、ぬるま湯に浸かっていると言われればそれまでのこと。変わらない感性を持ち続けることと、変わることを恐れずに一歩踏み出すことでは、どちらが難しいのか。
 今までは後者だと思っていた。だから二の足を踏んでいた。でも最近は、環境の及ぼす影響で変わっていく人を見続けたことで印象が変わりつつある。いつまでもこのままでいいとは思わないし、見ている景色に飽きている自分も確かに存在している。
 タバコを吸ってきた期間よりも長い間、生きている意味を問うてきた僕は、恐らく自分自身で定義できない誰かに依存する愚かな人間であることに、自覚的になる。
 誰かの為に生きることで、生きがいを感じる。それは自分自身に対しての責任からの逃亡であって、誰かが言った価値観に盲目な、どこかの信者みたいだ。
 新しい環境では誰でも新人。僕はもう従来の環境において肩を叩かれる手前のベテランみたいだ。
 そんなことを思い、僕は今日もTwitterで140字で収まる物語を紡ぐ。
 誰が見ているわけでも、評価するわけでもない。いつかこの積み重ねが報われるかもしれないという打算は多少あるけれど、それ以上に物書きとして、存在を維持するために綴る。共鳴者を求め、それでいて、どうしょうもない僕みたいな人間を反面教師にしてもらえるように。そして何より、自分自身のために。

 文責 朝比奈ケイスケ

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