指輪【ショート・ショート26】

寒くなった。
ちょっと前まで冬は遠いと
思っていたのに気付けば
肌身に感じるくらいの距離に
確かに存在している。
その姿は、余力のあり脚力のある
スプリントランナーみたいだ。
多分、気付けば春になっているだろう。
そんな季節の移ろいに揺れる心は
冬には幾つかの大事な記憶が
詰まっているからなんだろう。
もう何年が経つだろうか。
悴む指を折りながら
ぼんやりと数を数える。
八年、早いものだ。
もう少しすれば三十歳という
節目を迎えるからこそ
余計に敏感になってしまう。
指を折れなかった薬指につけた
指輪が街灯で悲しく照らされている。
結婚指輪みたいにしっかりしたものでも
高価なブランド物でもない
学生が買うような安っぽさが
切なくて、でも少し暖かい。
歩きながら星空を見つめて
対になる指輪のことを想った。
あれは付き合って二年経った時だ。

「あのさ、ワガママ言ってもいい?」
彼女の部屋で一緒に映画を観終えた時に
ボクの肩に頭を預けた彼女が唐突に言った。
「なに?」
彼女にしか口にしない柔らかな口調だった。
「あのね、欲しいものがあるの」
物を欲しがるような子じゃなかったから
ちょっと意外だった。でも嬉しかった。
「何が欲しいの?」
横目で彼女を見る。無意識で胸のあたりに
目線が行ってしまったことに彼女は
気付いているだろうか、少し不安になる。
「指輪が欲しいんだ。安いやつでいいから」
彼女は明るい表情で、でも力強い口調だった。
「いいけど、どうして指輪なの?」
まだ二十歳になったばかりで
恋愛ということに疎かったボクは
指輪を欲しがる彼女の気持ちを
正しく理解できなかった。
「アナタを近くで感じていたい」
どこかで聞いたことのあるような
妙に芝居がかったセリフだった。
「どうしたの急に?」
びっくりして思ったことを口走ると
「ちょっと言ってみたかったの」
彼女は恥ずかしそうに笑いながら答えた。
頬が少し赤くなっていた。
彼女も恋愛に疎かった経緯もあって
こういうやりとりでも気恥ずかしさが
隠そうとしても溢れ出てしまう。
言ってしまえばお互い似たもの同士。
上京という背景も好きなジャンルの
映画が好きという共通点もあった。
「お前らは付き合うべくして付き合ったな」
初めての彼女ができたと友人に報告した際に
言われた言葉が不意によみがえってきた。
「でもね、本当に指輪は欲しいんだ」
大学生という身分では付き合うと
何かしらの対になる物を持ちたがる傾向が
確かに存在していて彼女もその傾向に倣って
発言しているのだろうか。
或いは、友達に何かを言われたのだろうか。
別に理由はどうでもよかった。
そういう秘密というか、二人だけの、という
フレーズはとても心地が良いのだ。
「付き合っている証拠みたいなものを
一つは持っておきたいんだ。
私と貴方だけの共通の秘密みたいに」
彼女は頭を戻し、そしてボクに正対して
ゆっくりと目を瞑り、キスをせがんだ。
二人になると時より積極的になる彼女は
ボクは好きだったし、似たようなことを
やったりするからおあいこのようなものだ。
ただ可愛らしい顔をずっと見ておきたかった。
でも彼女の行動を無碍にはできずに唇を重ねた。
その状態で少しの時間を過ごした。
彼女の方からゆっくり唇を離すと
意地悪な表情を浮かべて呟いた。
「さっき、おっぱい見てたでしょ?」
女性はよく見ているな、と思った。
その視野の広さに感服しながらも
ボクは正直に頷いた。
すると「バカ」と言って両手で
ボクの顔を横に引っ張った。
少し痛かったけれども
彼女が笑っていたから
もうどうでも良かった。
そんなささいなやり取りが
ボクにとっては大事な時間だった。
ベッドの上で目が覚めると
時計の針は十六時を示していた。
目をこすりながら彼女の姿を探す。
彼女は化粧台の前に座り
最近腕の上がった化粧をしていた。
「今日バイトだっけ?」
「今日も明日も休みだよ。
これから出掛けるから用意してね」
器用に手を動かしながら彼女は言った。
「どこに行くの?」
起き抜けのどうしょうもない声で訊くと
「下北沢だよ」
「なんで?」
「なんでって、指輪を買いに行くの」
呆れたような表情をする彼女に即され
ボクも身体を起こし、準備を始めた。

あの時古着屋で買った指輪は
すっかりと塗装が剥げているけれど
ちゃんと二人の秘密として機能していた。
でもあれから僕らの距離は
遠くなった気がしていた。
心の距離は近づいているけれど
遠くに感じてしまった理由を
最近になって理解できるようになっていた。
ふとリュックサックに隠した
サプライズプレゼントのことを考えた。
お互い忙しくなってすれ違うことは増えたな。
彼女の部屋まで残り僅か。
緊張と不安でマラソンを終えたランナーのように
心拍数が上がっていることに自覚的になる。
僕らの関係が変わるまであと僅か。
ゆっくりと噛み締めて歩いていく。
震える足を強引に踏み出しながら
彼女の部屋の前まで行き、深呼吸をする。
指輪と関係が新しいことに変わってくれることを
期待し祈りながら、インターフォンを押した。

文責 朝比奈ケイスケ

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