終電前

時刻が日付変更線を超える頃
僕らは駅に向かって歩いていた。
二人で歩くのはいつ振りだろうか。
僕よりも小柄な彼女に合わすように
歩幅を小さくすることを意識する。
普段見ている景色もゆっくり進み
少しだけ非日常感を抱いてしまう。
懐かしい。純粋に懐かしかった。
「どうしたの?」
不意に彼女は訊いた。
舌足らずの声は、子供ぽっさがあり
一度聞いたら忘れないくらい印象的だ。
「なんでもないよ」
何に対しての「どうしたの?」だったから
返答に困ってしまう。
結果、絞り出した言葉の陳腐さを自嘲する。
「主任、嬉しそうだったね」
僕の後悔など全く意に介さない彼女は
さっきまでの飲み会での縦軸の話を持ち出した。
主任が結婚する。
年齢的にも不思議ではない話題を掘り下げたのは
まぎれもなく彼女で、でも少し悲しそうだった。
少し、胸が締め付けられた。
男の僕から見てもシュッとした佇まいと
物腰の柔らさは魅力的に映る。
現に女性社員からの人気は高かったし
恋心を抱いてアプローチしている人もいた。
そして誰もが見事なまでに玉砕していく様を
僕は入社当時から見続けてきた。
そういえば、主任のモテ伝説の語り部は
僕だけになってしまったな、と思った。
「実はね、主任のこと好きだったんだよね」
どんな風に話を転がすのかと思ったが
予想以上にど真ん中のストレートが投げ込まれた。
「そうだったんだ」
僕は何も知らないフリを演じた。
口が裂けても「知っていた」なんて
言うことはできなかった。
彼女はそれ以上何も言わず
心地の悪い沈黙が続いた。
細い路地と大通りがぶつかった場所に
たどり着き、急に視界が開けた。
昼間よりも人は少なくて
頬を赤らめたサラリーマンばかりだ。
駅も近い証拠、もうこの時間も終わる。
終わりを自覚すると、時計の針が
さっきよりも早くなるような
飲み会終わり独特の感覚に襲われる。
思わず僕は時計を見る。
あと数分で終電がホームにやってくる。
その電車に彼女を乗せるのが
主任から与えられた使命だった。
でも、心がざわつく。
終わらせたくない。来るな、終電。
閉じ込めたはずの本音が次々浮かぶ。
「今、何時?」
彼女の質問に対して
極めて正確に時刻を告げる。
自分の生真面目さが嫌になってくる。
時刻を聞いた彼女は歩幅を
大きくして歩き始めた。
彼女も分かっているのだ、終電の時間を。
彼女のペースに合わせて歩く速度を上げる
僕の姿は従順な犬のようだった。
会話の内容も主任の話から
当たり障りのない話へと変わっていく。
あの路地で吐き出したかった想いは
家まで持って帰る覚悟を決めたようだ。
脳裏に浮かんだのは、彼女が部屋の中で
叶わなかった片思いを思い返して
涙を流している映像だった。
そこまで感受性が豊かどうかかは
分からないけれど、そんな気がした。
どんどん駅に近づく。
街に合わない立派な建物は
物静かに僕らを見下ろしている。
何かが起きたらいい。
例えば、終電の時間が今日だけ早いとか。
他人頼りの空想が頭の中で踊る。
彼女は心情を誤魔化すかのように
明るく振る舞っていて、痛々しかった。
すぐに終わってしまう中身の薄い
会話のラリーを何度か繰り返しているうちに
改札が目に入る場所まで来てしまった。
駅の時計は、終電前の時刻を示している。
間に合った。間に合ってしまった。
意味は同じなのに含まれる
感情が真逆の言葉を反芻する。
僕の本音はどっちだ。考えるまでもない。
気付けば、腕を伸ばして彼女の腕を掴んでいた。
細くて白い腕。掴んだ右腕から伝わる体温が
心拍数を一気に上げた。
「どうしたの?」
唐突な僕の行動に戸惑う彼女は
僕を見据えて言った。
不思議なことに僕の腕を剥がす仕草はない。
明確な疑問符に相応しい返事を探しているうちに
駅のホームから発車のサイレンが聞こえた。

文責 朝比奈ケイスケ

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