2019年3月28日(木)の戯言

桜の開花宣言が発表されて
春がやってきたことを知る。
あくまで知識的な部分の話で
着るものの量が減ったことと
目が痒くなる機会が増えたこと
或いは人事ネタが耳に届く機会が
増えたことが影響して感覚的に
春が来ていることは自覚していた。
春が来る。何度も繰り返す出来事に
少しばかり感慨深くなってしまうのは
四季の豊かな日本に生まれたことを
無言で伝えているようだった。

去年の秋、新幹線の中で
今年の三月が楽しみになったのは
オールナイトニッポン主催の
オードリーの武道館ライブに当選したからだ。
数年前にはラジオが人生を彩るツールになり
毎日聞くような生活がやってくるなんて
思ってもみなかったし、ライブに足を運ぶなんて
それ以上に想像していなかった。
三月二日のライブは記憶に残っているし
早朝から聞かないでおいたラジオを聞きながら
電車に揺られて武道館に向かった記憶も
ライブ開演時間まで神楽坂を中心とした街を
散歩した記憶も色褪せることはない。
その足で久し振りにスタジオへと向かったことも。
完全に同居人の色に染まった部屋の中で
かろうじて残っている僕のスペースは
あの夏からほとんど更新されていないことに
自覚的になってしまった。
変わっていないと思っていたし
更新されていないからこそ変わっていないけれど
見事に変わっている自分を知ってしまった。
良くも悪くも僕を見事に表現していた。
物語を紡ぐことは音楽のように音が出てしまい
周囲に迷惑を掛けるなんてことは、まずない。
好きなだけ自分の頭の中に浮かぶ傑作に
浸っていればいいのだから。
ただ傑作は実に脆くて、文字に起こした時には
見事なまでの駄作に落ちていることや
染まった思考回路が仕事をするうえで
悪影響を与えること以外、実害はない。
書くことに怯えるのは何故かを考えなくなって
駄作、つまらないと思っても綴ることを正当化し
なんとか自分と小説を繋ぎとめている。
勿論、書いていれば時間は忘れるし
コレだ、って思えるネタが浮かべば
自然とにやける程度には生活の一部だ。
ただ、文字を起こすことによって
傑作が崩壊する様は、やっぱりしんどい。
この気持ちは、大好きな小説が実写化されて
色々な要素が削られたり、加えられたりして
原型をかろうじて留めているだけだと
映像を見ていて感じるソレとよく似ている。
誰も知らない作品で一人でそれを感じるのは
非常にヤバい奴なんだろうと思うけれど
そのヤバさが僕には多分必要で。
ライブハウスでステージの一番近くで
音楽を全身を使って喜怒哀楽を表現する
客の所作と通ずるものだろうか。

数えるのも面倒なくらいに参加している
結婚式に今月も参列した。
人の結婚式を見る機会が多いのか
無駄に目が肥えてしまっている自分に気付く。
讃美歌も聞きすぎて食傷状態だし
次の動きに期待もしていなかった。
誰かが結婚という目に映る「幸せ」を
見たところで感情が変わらないのは
冷静な観察者を体現している気がした。
勿論、気持ち的には嬉しいことだし
良かったとは思うけれど
それ以上の感情は、見事なまでに希薄だ。
そもそも嬉しさなどで感情が緩まない
人間として大事なものが欠損していること
結婚式に呼ばれるという表面的な
事実で満足している節があるのだろうな。
まがいなりにも社会に属して
居場所があることを確認する場。
言葉にすればかなり不躾だけれども
妙にスッと落ちるから
自分が自分中心で生きているかを知り
同時に余裕がないことを突き付けられる。
イルミネーションが綺麗な観覧車を
誰かの隣で眺めることになったことや
解くのも厄介な設問を出されることは
予想の範囲外だったけれども。

野球観戦に連日足を運んで
友人の子供に会う機会や
仲の良い友人とライブや飯に行くこともあり
なんだか自分以外の環境も変わっていく。
変化とは無自覚で、でも気付いた時には
思っていた場所とは全く異なる
別の場所に足を着いて歩いている。
全ての事柄が遠くなっていくのを感じながら
何もしない休日を過ごした先で
布団の温かさは罪だと再確認した。

文責 朝比奈ケイスケ

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