「ある夜の話」【ショート・ショート7】

一人の夜は静かであって欲しかった。
まるで世界の人々が消えてしまい
取り残されたかのような感覚を
想像することで感情を抑え込む理性。
それは使い込んだ孤独論理の末路と
言ってもよいのだろうか。
だが思いとは裏腹に時計の針が
鳴らし続けるかすかな音すら
煩く感じてしまっている。
神経が過敏になっているのだ。
その理由は寂しさだ。
ただただ寂しい、と心が訴える。
そんな感情が芽生えるなんて
相当弱っているのだと自覚してしまう。
時計の針だけが鳴る部屋で
タバコを吸いながら立ち上る煙を眺める。
大人になったつもりで吸い始めたタバコは
いつの間にか拠り所になり
弱くて、寂しがり屋の自分を
さらけ出せる存在の一つになっている。
「あぁ何してんだ、オレは」
右手で頭を掻きむしりながら
弱気になった自分を叱咤する。
さっさと眠ってしまえばいいのに
睡魔と闘っている僕は
思春期からの筋金入りの夜型人間であり
生活リズムを変えることなど
到底できることもないと思い込んでいた。
そういえば夜更かしを始めたあの頃から
漠然とだけれども朝が来るのが怖かった。
胸に抱えている諸問題を解決しないまま
太陽の光を浴びたら壊れてしまうような
一抹の危機感を抱いていたからだろうか。
それとも朝になったら外向きの仮面を被り
何もなかったように振舞わなければ
ならないという強迫観念のせいだろうか。
どちらにしろ救いようのない、と思った。
ただ、心は正直な反応を見せて
気付けばスマホを手に取っていた。
誰かと関わりたくて仕方がないのだろう。
しばらく操作してから、ため息がこぼれた。
登録されている友達に本音を吐露する
勇気のようなものが欠落していたからだ。
偽りの顔ばかりを晒した副作用。
いや、それ以前にこの時間に起きている
友達などいるはずもない。明日は月曜日だ。
こんな時間に哀れな僕の相手をしてくれるのは
風俗店に勤務する女性くらいだろうか。
あるいは……淡い期待を飲み込んだ。
異性、酒、ギャンブルで破滅した偉人たちが
持ち合わせていた心の隙間が、今はよく分かる。
金が絡まないと、孤独を埋められないことに
情けなさを抱いた深夜二時過ぎ。
僕は、紛れもなく一人ぼっちだった。
慣れていたはずの独りの時間に
弱さが顔を出すようになったのは
友達と付き合ってきた女性の存在が
強く影響しているのだろう。
彼らは独りだった僕の手を握り
真っ暗闇の世界から引っ張り出してくれた。
そして後ろ姿を記憶に残して
見事なほど離れていった。
至らない僕のせいだったし
心に住み着く化け物みたいな弱さが
彼らを避けた要因でもあった。
あとは悲運がもたらした結果でもあった。
見放されたくないはずなのに、と
今更自嘲しても過去は戻ってこない。
いっそのこと、旅立とうと思ったことも
大庭葉蔵、いや太宰治が抱いた
回数程度には経験している自負がある。
彼のように生きられないことを
恥じたことだってある。
静かな部屋で、再びため息をこぼれる。
座っていたソファーから立ち上がり
ネット通販で買った本棚の前まで歩いた。
並んでいるのは純文学から大衆小説、洋書と
それは多岐に渡っておりその中心には
何度も読み返した『人間失格』が
ひと際存在感を放って存在していた。
女性の髪を触るような優しい手つきで
ボロボロの背表紙を触れた。
擦り切れた紙の感触が指を通して伝わる。
泣きそうになった。
理由は分からなかったが
ひどく心を打つ衝動によって
涙腺が刺激されたのだろう。
意味不明で理解できない感情の鼓動を
正しく表現できないことに苛立ちを覚える。
同時に情緒不安定な自分の心に動揺した。
幾つもの作品の描写が頭の中を
走馬灯のように駆け抜けていく。
本能が訴える、ヤバいと。
逃げるように『人間失格』を手にして
パラパラとページをめくった。
小難しい表現、時代錯誤の言葉が
目まぐるしく視界に入り、消えていく。
堀木との会話、正確には葉蔵の心情が
綴られたとある頁で、しなやかだった
本の動きが不意に止まった。
そこには一枚の紙切れが挟んであったからだ。
全く身に覚えのない紙切れ、僕は戸惑った。
思わず、タイムカプセルという単語が過る。
そんなことを浮かべてしまったのは
蛍光ペンで記された見覚えのある
可愛らしい丸文字があったからだった。
「貴方が、このメモを見るときは
辛いときだと思うの。でもね、大丈夫。
貴方は独りじゃないよ。大丈夫だよ――」
何度も書かれていた大丈夫という
言葉の響きと貴女の優しさによって
見ないようにしていた最後の扉が開き
大粒の涙が、幾つも頬を走り抜けた。
貴方は誰かの弱さに寄り添える
優しく温かい稀有な人だった。
ただ、純粋に会いたいと思ったけれども
あの頃のように気軽に会える関係ではなく
むしろ近くて遠い存在になってしまったことを
心の底から後悔した日は、貴女の結婚式以来。
「思えば恥を晒さないつまらない人生だな」と
口ずさんだ時、ささやかな決意をした。
寂しがり屋の自分を認めようと。
もっと恥の多い人生を活きようと。
煩くて仕方はなかったはずの
時計の針の音は聞こえなくなっていた。

文責 朝比奈ケイスケ

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