帰り道【ショート・ショート72】

 大人になるってどういうことだろうか?
 自転車を漕いで進む帰り道、そんなことを抱いた。子供の頃に描いたり、見ていた大人の姿とは乖離した自分。何が違うのだろうか。足から伝わる力を推進力へと変えてスムーズに動く手入れの行き届いたペダル。でも頭の中は錆び付いて、耳障りな音が響くチェーンのようだ。
 一番に浮かんだのは外的な要因だった。ステレオタイプと笑われるかもしれないけれど、大人はスーツを着ているイメージが強い。学生時代、満員電車には疲れた顔したスーツ姿が溢れている空間を見続けてきたし、ドラマなどのフィクションの世界でも見た記憶がある。でも時代は変わって、スーツじゃない人間でも大人として仕事をしている。現に自分自身もラフな格好で職場までの往復をしているのだ。
 少し先の信号が黄色から赤に変わった。ペダルを回す力を緩めて、慣性の法則に頼る。静かな夜に響く気持ちよいラチェット音に耳を傾けながら、横を過ぎ去る乗用車を一瞥した。無表情の中年男性が目に入る。僕を抜き去ってすぐにブレーキランプが赤く光った。暗い夜に映える赤に対して、自分の持ち物が子供じみているのかと頭に過る。
 童顔な顔と体型、格好、乗り物も、もっと言えば趣味や聞いている音楽も学生時代からさして変化がないことに気付いたからだ。大人になったと呼ばれる歳になっても公私問わずユニクロや無印商品の低価格のTシャツは着ているし、腕に巻いた時計は学生時代から使い続けているG-SHOCKだ。乗り物もママチャリからシティバイクへと変化しているけれど、自転車には変わりが無い。趣味だって変わってない。大人になればゴルフでもやるのかなと思っていたけれど、その気配は全くない。音楽も未だにロックバンドを聞いているし、むしろ若者のトレンドもしっかりと確認している。むしろ真っ直ぐな歌詞の音楽に学生時代よりも惹かれている節すらある。
 信号が青になり、再びペダルを回す。次第に速度が上がり、顔に当たる冷たい風の勢いも強くなっていく。見えない壁にぶつかっているように、露出した部分だけが冷えていくのを感じる。重ね着で覆われている部分には熱がこもっているけれども、少しずつ頭の中も落ち着きを取り戻そうとしていた。
 ずっと大人になりたかった学生時代に描いた大人像は、悲しいほどに虚像だったのかもしれない。いや、そうなるための通過儀礼を悲しい程度には、見逃している気がした。未だにこんなことで悩む自分の青年具合に呆れながら、きっと本当の意味で大人になるまでには途方に暮れる時間が掛かるように思えて、ため息が出た。冬の訪れを示すように白く着色された息を置いていき、情けない自分自身から必死に逃げるように全力でさっきよりも重たくなったようなペダルを回した。
 どうやら僕は過去に囚われすぎているのかもしれない、という核心的な答えを胸に抱きながら。

文責 朝比奈ケイスケ

休日の朝【ショート・ショート71】

 窓を閉めた部屋にも入り込む冷たい風は、冬の訪れを静かに伝えていた。普遍的な日常にも顔を出す四季。歳を重ねるごとに有り難みを感じるようになっているのは、きっとおじさんになっている証拠だ。天窓から引っ張り出した布団と毛布に包まりながら、眠気眼で天井を見つめる。朝日でしっかりと分かるクリーム色。もう数えるのも嫌になるくらいに見つめた天井は、代わり映えのない僕の姿を投影しているようだった。
 手を伸ばしてスマホを掴む。相変わらず誰からの連絡は無い。人生においての必要性で言えば、きっと誰にとって僕という存在は大したものではないのだろう。正直なことを吐露すれば、欲する部分はある。でも社交的な人間ではないから、連絡が無くてもやりくりが出来る程度には耐性が出来ている。褒めるべきか悲しむべきかは、この際気にしないでおこうと思い飲み込んだ。
 Yahoo!のトップページを開き、話題の情報を眺めていく。変わらない日常を過ごしていても、自分の知っている範囲外の世界では毎日何かが起きている。でも眺めているうちに、全ての出来事の対象物が変わっているだけなのだと思い知る。ここ最近、メディアを賑わす不倫騒動や不祥事を見ていると余計にそんなことを感じる。誤字脱字が目立つ辛辣なコメントに目を通す。まるで見世物小屋だ。不幸は人間の根源で求めているのだろうか。それとも暇を潰すためか、自分よりも不幸な人間を見て、安堵感を得たいのか。どちらにしろ、普段聞かないような文言が活きの良い魚のように舞っている惨状は見るに堪えなかった。
 ブルーライトと朝日の光で次第に覚醒していることを自覚しながら、何も予定のない休日の過ごし方をぼんやりと描き始める。必要必至な出来事なんて数えるほどで、大半のことは時間を空き時間だ。テレビでよく話されるドラマの待ち時間によく似ている。時間を持て余していることに対して、埋めるほどの術と熱意がない。なんだかしょうもない自分の内面を浮き彫りにされているようだ。
「このまま寝ていたい」
 誰に言う訳でもない独り言が部屋に浮く。シャボン玉のような脆い言葉。消して見えることはないけれども。眠ろうと試みるも夢の世界には誘われなかったこともあり、ため息交じりにベッドから起き上がり、素足でフローリングに触れる。冷たい。その触覚が身体を動かそうとしていることを自覚させる。
 一歩一歩、冷たさを噛み締めながら台所に向かう。近いうちにスリッパを購入することを決め込んで。シンクのカランを動かして、蛇口から水柱を作り出す。給湯器が働き始めて次第に湯気が立ち上る。人肌よりも温かなお湯で顔を洗い、歯を磨いた。習慣は思考停止していようとも機能して、現時点で最適とされた行動を導くのだろうなと思った。
 朝の習慣を終えるとすっかり目が覚めた。一人がけのソファーに腰掛けて、冷蔵庫から取り出した飲みかけのカフェオレを口に含む。冷たさと甘さが共存した感覚が口の中に広がる。マスクが必需品になって、外に出ることに対して、幾ばくかの危機感を抱くようにならなければ、きっとどこかに出かけていたのだろうな。リモコンの中で、一際目立つ赤い電源ボタンを押して、テレビを起動させる。すぐに映し出される映像を見つめながら、何もやることのない贅沢であり虚しい休日を過ごすことを噛み締める。
「まるで消化試合だな」
 消極的な言葉を反芻しながら、今日やるべき数少ない必要必至なことを挙げていく。どう抗ってみても、やはり午前中には終わってしまう。でもやらないことには面倒なことになることを経験則で知っているからこそ、洗濯カゴに溜め込んだ衣類について考えた。
「あぁ、めんどくせー」
 重たい腰を上げて、脱衣所に向かう。洗濯カゴに入った三日分の衣類を洗濯機に入れる。用法用量を守るように集中して洗剤を計って、洗濯機に回し入れた。スタートボタンを押すと同時に音を立てる洗濯機、もう何十何百と聞いた騒音に蓋をするように、脱衣所の扉を閉めた。音量が小さくなったとはいえ、聞こえる起動音。かき消すようにテレビのボリュームを上げる。最近になって見る機会が増えた芸能人の当たり障りのないコメントが部屋で大きくなっていく。その芸能人の声には聞き覚えがあったけれど、なかなか思い出せない。記憶を辿りながら理由を探す。同時進行で値上がりして、買うことが億劫になり始めたセブンスターに火を点す。吐き出す煙を見つめながら、また面倒なことを思い出してしまった。
 寝癖で逆立った髪の毛を掻きながら、仕事用のカバンを手に取る。社会人になった時から使っているカバンには、思ったよりも汚れと傷が目立った。でもどうでもよかった。営業職ではないことの利点なのかもしれない。手指の脂で塗装が剥げ始めているチャックを動かして口を開く。仕分けしたクリアファイルの束から、青い色したファイルを取り出す。給与明細と年末調整、保険の書類が入ったファイルだ。未記入であったことと提出日が迫っていることを思い出したのだ。書類に目を通しながら、毎年変わる細かい記入方法にため息が出た。近くにあったボールペンで必要事項を記入していく。もうこれで十回目くらいの記入だろうか。慣れた手つきで書き進めていく。
 独身だからか慣れたからか記入はあっという間に終える。あまりにも呆気なく、そして淡泊に。全て書き終えた後、記入漏れやミスの確認をするためにもう一度、書類に目を通した。十年前までは扶養されていた。こんな書類も書く機会はなかった。でも形式上、独り立ちしたとされることで扶養ではなくなった。自分のために生きている。嬉しかったのは、もう遠い昔。今では自分のために生きていると強がりを口にしながら、自分ではなく、社会やいつ消えるか分からない会社と社会の為に生きている。顔も名前も知らない誰かのために税金を納める人生。そのおまけで自分のことに使える金が少しだけある人生。面白みのない冴えない人生だなと笑いたくなる。そして悲しさが胸を染めていく。
 誰かに必要とされる理由が税金と人口維持。
 きっと扶養することのない甲斐性なしの自分の愚かさに呆れながら、ゆっくりと書類を専用の封筒に入れた。
 テレビからは相変わらず不倫と不祥事についてのコメントが流れている。不要な情報を垂れ流しながら、扶養できない自分の存在をあざ笑うかのように。

 文責 朝比奈ケイスケ

不用意な一言【ショート・ショート70】

 風に含まれる冷たさには冬の匂いが紛れている。夜が来るのが早くなり、通勤通路の住宅街の外灯も合わせて点灯するのが早い。ひどく寒がりの僕には苦手な季節がやってきた。まだ吐息も白くならない季節の中間地点を歩きながら、今年も残り少ないことに自覚的になる。
 コンビニで買ったカフェオレで暖を取りながら歩いていると、幾分感傷に浸る。歳を取ったと自虐的に笑ってみても、年齢ほどの深さが皆無だからこそ、余計に虚しくなる。押しているロードバイクがなんだか重たく感じた。
「今日はありがとう」
 そんな僕を現実に戻したのは、横を歩く同僚の声だった。スーツの上にコートを羽織い、マフラーを首元に巻いている自分とは同じ季節にいるとは思えない秋のファッションを着こなす君は、感謝の意をい表情に出しながら訊いた。君も僕と同じように自転車を押している。街乗り用のシティバイクだ。
「そんな大したことしてないよ」
「私だけだったら直せなかったし、何より手が真っ黒だよ」
 僕はその言葉で右手を確認する。確かに夜でも分かるくらい手が黒くなった。

 帰宅途中、君に声を掛けたのは、速度の出せそうな国道なのにも関わらず、綺麗に整備されたシティバイクを押していたからだ。別に声を掛ける必要性などはなかった。でも気になる相手が目の前に居れば、声を掛けたくなるのは男性の性のせいだろう。それに今日は満月。少しはらしくないことをしようと背伸びをした結果だった。僕の顔を見て開口一番「パンク直せる?」と訊かれた時は面食らったけれど、君の頼みならば断る理由はなかったし、幸い、自転車に飲め込んだ時期に身に付けたスキルがあった。
「簡単なパンクくらいなら」
「じゃあ、お願いしていい?」
 僕らは目に入ったコンビニの駐車場に向かい、歩き出した。5分も満たない僅かな時間で事の顛末を確認した。どうやら道の段差を通ってしまったようだ。しかも昨日タイヤの空気圧を少し多めに入れたと早口でしゃべる君の声は、新鮮だった。トラブル自体そこらへんに転がっている路傍の石のような自転車トラブルだ。視界が制限される夜には多いし、何度か僕も同じトラブルに出会ったことがあった。
 コンビニに着き、明かりが差し込む駐輪場で、君のシティバイクを確認する。見た目でも分かるくらいに空気の抜けたマヌケな姿をしたタイヤに触れる。どうやらガラスの破片などの鋭利な物を踏んだ様子はない。
「換えのチューブ持ってる?」
「持ってないな。いつも修理するときは自転車屋さんに行っちゃうから」
「そうだよね、それが一番正確だもんな」
 僕は背負っていたカバンを下ろして、中身を確認する。パンク用に持ち合わせているチューブとコンパクトな空気入れを取り出した。
「多分、サイズは合うはずだから10分もかからないうちに直せるよ。寒いからコンビニの中に入っててもいいよ」
 マフラーを外し、スーツの上着を自分のロードバイクのサドルの上に置く。ワイシャツ姿ではやっぱり肌寒い。でも作業効率と汚れる可能性を踏まえて、袖を捲る。そしてシティバイクを逆さにした。サドルとハンドルを支点にした姿は、僕にとっては見慣れた光景だったけれど、君は心配そうな表情を浮かべていた。でも何も言わずに作業を始める姿を確認してから、僕の言う通りにコンビニの店内へと足を運んだ。その後ろ姿を見つめながら、ひとつ深呼吸をする。安堵の深呼吸だ。君に見られた状態では、思うように手が進まないと思える程度には僕の恋愛偏差値は低い。中学生にも負けそうな程度に。
 誰もいない駐輪場で、店内の光だけを頼りに作業を進めていく。タイヤを外して、専用の道具を駆使して、タイヤとホイールの間にあるチューブを抜き取る。少しずつ気持ちが高揚していく。きっと、久し振りの修理だからだろう。自転車の修理や電子機器の配線などの作業は楽しいと感じるなんて一人暮らしをするまでは知らなかった。因果なもんだと思う。もし知っていたら、人生は違ったものになっていたはずだ。のめり込んだら長い性格であり、苦手だった理系の授業もちゃんと受けていたかもしれない。どうでもいいことを考えながらも、慣れた手つきで工程をこなしていく。
 宣言通り、10分も経たないうちに修理は完了した。君が両手に紙コップを持っていることに気付くのは、その時だった。

「カフェオレご馳走様です」
「カフェオレで解決するなら、安い修理代だよ」
 君は笑って、紙コップを口に近づける。緩やかな上り坂を進みながら、僕はラッキーな展開であることを本当の意味で自覚する。そしてトラブルが近づけた好機に浮かれてしまったのだろう。夜空で存在感を放つ満月を見て、思わず口が動いた。
「月が綺麗だね」
 不用意な一言だった。僕が口にした言葉に隠れた意味を君が知らないことを隣で歩く君が知らないことを願った。僕は臆病者であることを再認識して、そして妙な和訳をした夏目漱石を恨んだ。
「そうだね」
 君は普段と変わらない声で答えた。どうやら知らないらしい。或いは知っていても、隠れた意味を掬わずに、事実として受け取ったみたいだ。僕は君にバレないように胸をなで下ろして、君の横顔を盗み見る。君は僕の言葉に誘われたようで、夜空を見上げていた。丁度、坂の頂上だった。平坦な道が続くベッドタウン、きっとこの辺に君の家があるのだろうなと推測する。僕の部屋がある場所は、もっと先にある丘の入り口だから、この辺で別れるのだろうと思った。
 夜空を遮る障害物のない場所で光る満月が二人を照らす。ふとした瞬間、君の右手が僕の左手に触れた。「死んでもいいわ」と口にしながら。
 僕は混乱した。そして不用意に口にした言葉が粋な返事で肯定された。  
 どういうこと? えっ、もしかして? 次々と頭の中で疑問文が錯綜する。
 整理の追いつかない僕の姿を見て呆れたのか、君は僕の油で黒く汚れた左手を握った。もう言及するのは無粋だった。僕は君の右手を握り返した。君の手から伝わる温度を感じながら、ゆっくりと歩き始めた。そんな二人を静かに祝福するように夜空は澄んでいて、綺麗だった。

 文責 朝比奈ケイスケ

タイムトライアル【ショート・ショート69】

 目覚まし時計の音が部屋に響いた。布団から出たくない思いを抱きながら、音の鳴る方へと右手を伸ばす。スイッチの感触を感じながら、弱々しい指の力で押す。音が止まり、静まりかえる部屋。眠気眼をこすりながら、止めた時計の時刻を確認する。八時半を少し過ぎた時刻を示す二本の針を見た途端、さっきまでの弱々しさが嘘のように、身体を起こした。
「やべー」
 放った独り言に追いつこうとするように、ベッドから出る。冬の入り口に入った部屋は思っていたよりも寒い。そんなことを気にしている暇も無い。僕は普段の三倍程度の早さで着替えを済まして、昨夜に食べようとしてテーブルに置いた封の開いていない菓子パンを口に咥えながら、リュックを背負い外に出た。朝日が眩しい。まだ起きてから五分も経過していないからこそ、その光は暴力にすら感じた。
 小走りで駐輪場へと向かう。チェーンが錆びて、カゴもボロボロの高校時代からの愛車のステップを上げる。自転車を取り出してすぐにサドルに跨がり、ゆっくりとペダルを回す。アパートの駐輪場を出て、すぐの通りの状況を確認する。車やバイク、自転車、そして歩行者の確認をしてから、一気にペダルを踏んだ。耳障りな音を鳴らす。どんどん目が覚めていくのを感じる。全身が固く、起き抜けの状態にも関わらず、自分の身体に鞭を打つ。まっすぐな一本道を進みながら、道沿いに店を構える床屋の時計を一瞥する。
 八時四十三分。出勤時間まで残り十七分。
「ギリギリだな」
 静かに呟きながら、速度を上げるようにサドルから腰を上げた。立ち漕ぎの姿勢で、身体を前傾させる。冷たい風が無防備な顔に触れたことで、速度が速くなったことを自覚する。積み重ねてきた経験値は、いらない場面や不意に急に顔を出した。
 ったく、久し振りのタイムトライアルじゃねぇか、と心で毒づきながら、高校時代の朝を思い出していた。高校生の頃から朝が弱くて、起き抜けで自転車を漕いでいた。いつもギリギリで生きていたけれど、無遅刻無欠席の三年間だった。そして毎朝のタイムトライアルは生きていることを体感できる数少ない機会だった。社会人になってからは歳を取ったせいなのか、朝、寝坊することはなくなった。代わりに十分前には目的地にいることが当たり前になった。それなのに、今日は寝坊した。不思議な違和感を抱いていることに自覚的になったとき、目の前の信号が赤になった。条件反射で両手を握る。チェーンよりも甲高い錆びたブレーキ音が聴覚を刺激して、そして道中に広がった。でも誰も気にしない。そんなもんだ、社会なんて。
僕の前を過ぎ去る車の窓に自分の姿が映る。跳ねた寝癖は、自分の状態や体調とは裏腹に、元気だった。滑稽な状況に笑いが込み上げる。でも押さえ込む。ブレーキ音のように誰も気にしないなんてことはないからだ。きっと変人か何かに誰かの目には映るだろう。ブレーキ音と自虐的な笑い。音声という共通点があるのに、物か人間かで見方は大きく変化を生む。自由なんてないように思えた。多分、自由に見えるものも、きっと不自由さを孕んでいるのだろうな。憂鬱な朝、まだ冴えてない頭は本質を無防備にさせる。整えなきゃ、まっとうな人間になるために。
 信号が青に変わった。僕は無表情でペダルを回した。マヌケな音を全身に背負って。誰かの目を気にして怯えることで得る心地悪い生きた感覚よりも高校時代のように純粋に生きていると体感できる機会が欲しいと思った。切に、強く思った。そしてそんな自分を振り切るように、全力でペダルを回した。何かかか逃げるように。ただ、目的地は職場だ。何かから逃げようとしているのに、その先は労働という逃げられない義務だ。あの頃は教育であり、目的地は学校だった。おおよそズレていないのに、印象は大きく違う。改めて、成りたくない大人になっちまったなとため息をこぼした。
 職場の外に設置された時計は八時五十五分を示していた。間に合ったと思った。でも扉は閉まったままで、電気は付いていない。その時、僕は気付いたんだ。今日が定休日の土曜日であること、そして、自由よりも習慣と義務に従順だったことに。

文責 朝比奈ケイスケ

栓抜き【ショート・ショート68】

「冷た」
 思わぬ声が浴室に響いた。カランの時は温かかったはずなのにシャワーになった瞬間に冷たい水が流れるシャワーの構造を忘れていた。冷水を全身に浴びたことで、毛穴が閉まっていく感覚に思わず声が出てしまった。逃げ場のない狭い閉所で、何もできない姿は、なんだか今の自分を体現しているようで堪えた。
 本来の銀色を浸食する水垢だらけの蛇口を捻り、シャワーを止める。一気に冷え込んだ身体を温めたい思いを抱きながら、右手で蛇口をゆっくりと捻る。勢いの弱いシャワーに左手を当てながら水温を確かめていき、ほどよいタイミングで勢いを強くした。お湯の温かさと勢いよく放出する無数の水柱を身体に当てながら、ようやく気持ちを落ち着かせる。シャワーを浴びると体力が回復するような錯覚を抱き始めたのはいつ頃だっただろうか。
 物心ついたときから、シャワーは自分の生活には当たり前に存在している。気にすることでもないのだろうな。身体を洗うことで、なんだか気持ちが楽になるというか、何か張り詰めた糸が弛緩していく。きっと知らぬ間に強張っていた筋肉が緊張から解放されているからだろう。そんな仕組みについて考えを巡らせてしまう時点で、子供心は失った気がした。
 頭から足の指先までを濡らしたお湯が排水溝へと流れていく。透明の水も顕微鏡かそれに類する器具を用いて見ればきっと呆れるほど汚れていているのだろうな。どうでもいいことが芋づる式に出てくる思考回路を自嘲しながら、鏡に映る自分の顔を見つめる。
 目は充血しているし、目の下にはクマができている。おまけに生え際も後退しているとなれば、普段から見ているとはいえそれなりのダメージを受ける。
 歳を取った。
 たった言で片付けられる事実は、思いの外、堪える。外見は老けていくのに、全くもって中身は変わらないからだ。全てのことから目を背けたくなって、目を瞑って、もう一度シャワーを全身に浴びた。視界の失われた真っ黒な世界。浮かぶのは、今日の出来事。そして消してしまいたい過去の出来事ばかりだ。マイナス思考と僕を表現した人がいたけれど、物事に対して、ミスや後悔、苦さばかりに目が行くのは、完璧な人間に憧れたエセ完璧主義者の成れの果て。過去はやり直せないし、時間を戻すこともできない。分かっているけれど、躓いた記憶にこだわる悪い癖は、最近より顔を出すようになった。
「最悪な日だったな」
 口にした本音は、他の部屋にはない浴室の特殊な作りによって反響して、ブーメランのように戻ってきた。

「お前はさ、何のために生きてんだ?」
 大学時代の飲み会の後、終電を逃した友人と大学近くの線路が横を走る誰も居ない公園で、缶ビールと咥えタバコしているときに言われた言葉が不意に耳元でささやいた。彼にはデカい夢があった。嫌悪感を抱く単語を用いてまでも広げた風呂敷に僕は愛想笑いをしながら、アイツの愛用している栓抜きでビールの王冠を外した。泡が口から少し漏れたを確認して、こぼさないように口へと運んだ。喉を鳴らして飲み込み、手に持っていた栓抜きを持った手をアイツに向けて伸ばす。栓抜きを受け取ったアイツの顔は真剣だった。回答を待っているのが分かる。
「生きる意味を知るためかな」
 酔った勢いで吐露した本音。面倒なことに足を突っ込んだと誰もが顔をしかめる返答。最低なことに友人である彼を試したのだ。お前は僕の心に抱える厄介な化け物との付き合い方を教授してくれるのかと。そして救ってくれるのか、僕のことを。藁にもすがるような本音だった。
 公園には訪れる沈黙。急に寒くなった気候のせいか、少し前まで夜に鳴いていた虫の声すら聞こえない。飲み過ぎたアルコールのせいで焦点は合っていない、更には公園の心許ない街灯のせいでよく見えない彼の表情、機微を僕は見つめる。迷ったような表情の隙間から見え隠れする本音を読み取ろうとする狡猾さには、自分のことなのに強烈な吐き気を抱く。
「それもいいな。生きる意味なんて考えたことはなかったけど、なんかお前らしいよ。オレには思いもつかない未知の領域だ」
「じゃあ、なんで生きてんだ?」
「そりゃ死んでないからだよ。でも生きる意味は見つけるものではなくて、作っていくもんだとオレは思うんだ。最後の瞬間、生きてきた時間を思うだろう。その時に能動的な記憶であって欲しいんだよね。なんかこういう志がある上で、オレの生き様はどうだったのかってな。生きる意味を見つけるってなるとさ、なんか受動的だろ? 歴史の授業を受けているみたいに。どこか他人行儀になって、自分の持っている時間を有効に使えたのか? とか思いそうだし。最後の最後、後悔で終わるなら、オレにはここまでしかできなかったけど、考えられる手は全部打ったって、できたことに焦点を当てて終わりたい」
 思いがけない返答に戸惑った。背中には冷や汗が流れ、露出した肌には鳥肌が立っていることに気付いて、無意識で捲っていたシャツを手首まで伸ばしていた。
「まぁ、偉そうに思ったことを言ってだけから気にすんなよ。お前はお前だし、オレはオレだ。みんな均一にする必要性なんてないんだからさ。量産性の人間ばかりじゃつまんねぇだろ?」
 アイドルが見せる爽やかな笑顔を浮かべた彼は、手に持っていたビールの瓶をラッパ飲みで飲み干した。僕も彼に倣って、ビールを煽った。
 シャワーを浴び終えてから、冷蔵庫から瓶ビールを取り出した。首元に濡れたタオルを巻いた半裸の姿で生活スペースである部屋に戻る。ベッドの上には、さっきまで着ていたスーツやネクタイが乱雑に置かれている。
「やっぱり、おかしいだろ」
 彼に向けて声を上げた。死んでいるような生き恥を晒して漠然と生きている僕が機械的に年齢だけ重ねて、生き様を刻んでいた彼の年齢が止まってしまうなんて、理不尽も良いところだ。
 旅立った昨日まで刻んだ彼の孤独な戦いを思いながら、僕は彼の大好きだった瓶ビールの王冠を遺品の栓抜きで開けた。
「なぁ、聞いているか?」
 誰も居ない部屋で涙を堪えながら、彼を模倣するように瓶ビールをラッパ飲みした。最高の友人を失った夜に飲むビールは、今までで一番の苦さを口に広がらせていた。

 文責 朝比奈ケイスケ

シーラカンス【ショート・ショート67】

「携帯ラジオ持ってる人、初めて見ました」
 無邪気に言う大学時代の後輩は、一目で結婚式帰りだと分かる格好をしていた。夜も浅い電車内には程よく遊び疲れたカップルや補導の時間とのせめぎ合いをする中高生の姿が目立っている。日曜日ということもあって、スーツ姿は少ない。幹生のように礼服であれどスーツを着ているのは少数派だった。
 同じようにドレス姿も少ない。結婚式会場からほど遠い都会に向かっているからだろうか。彼女の姿を見ながら、また新しいドレスを買ったんだなと思った。共通の友人の結婚式で顔を合わせる度に思うけれど、男と違って女性のドレスは毎回違う。被らないように、同じ服を着回してるのがバレないようにと苦労している話を思い出した。そんな話をしていたのは、確か彼女だった。
「幹生さんって、時間というか時代に合わせることをしないですよね。大学時代も連絡するには県人寮の電話でしたし、掛かってくるのも公衆電話でしたし」
 笑いながら話をする彼女を見つめながら、どうして毎回、一緒の電車に乗って帰っているのだろうかと疑問に思った。同じ方向の街に住んでいる。ただそれだけのことなのに、なんだか運命なんて陳腐なことを抱いてしまう自分の抜けない青臭さは、タバコの匂いのように身体に染みついている。
「時代のスピードに合わないだけだよ」
 幹生は抑揚のない、味気ない返事を口にする。スマホ、タブレット、もっと昔は携帯電話にMP3と持っていないことに対して、外野からとやかく何かを言われる人生だった。持っていなくても困った経験なんてのは、あまりない。さすがに就職試験の面接会場で、メールアドレスもなく、実家の電話番号と県人寮の番号だけを記述した履歴書を見ていた面接官に苦笑されたことはあったけれど。記憶上、それくらいだった。飲み会や遊びの予定は前もって決まっていたし、予定が変更になった時も県人寮の電話が鳴った。待ちぼうけの経験も何度か経験したけれど、それも今となっては良い思い出だし、ある側面で言ってしまえば、子供の頃から変わらない日常だった。
「幹生さんのおかげで、私たちのグループは時間前集合と急な変更が少なかった気がします。あの頃は携帯くらい持っててよって思いましたけど、今ではその経験が活きてるんですよ、意外と」
 かつての幹生のことを軽く皮肉っている無邪気な笑顔に返す言葉は見つからなくて、黙って頷いた。きっと幹生の知らないところで、知らないドラマがあったのだろうなと推測する。グループの面倒な足かせだったのかもしれないけれど、今でも繋がっていることはデメリットよりもメリットの方が大きいということなのだろう。その事実は嬉しくもあった。
「今では携帯電話は持ってるよ」
 車内の合うアナウンスとすぐにやってきたブレーキ音でかき消された声は、彼女には届かなかった。
「幹生さんって、今でもアナログ派の人間ですよね。私は利便性を優先するようにしていますから、幹生さんの取捨選択が分からない子との方が多かったです。でも最近、絶滅危惧種を保護する人の気持ちが分かるようになってきましたよ。もうここまできたら、最後の一人になるまで抵抗して欲しいって」
 そう言った彼女は小さいカバンからスマホを取り出して、何かの操作を始めた。少しの間、彼女の動きを見ていた。どうやら誰かからの連絡に対して返信を書いているのだろう。幹生にはできない指の動きは忙しない。当分、会話がないと判断して、胸ポケットに忍ばせた詩集を取り出す。カバーもなく、手垢で汚れた文庫本タイプの詩集は、こういう時に重宝する。小説だと途中でページを閉じることに抵抗があるし、かといってイヤフォンを耳に入れるのは、誰かと一緒に居る時間には相応しくない。漫画でも読んでいれば良いかも知れないけれど、それはそれで違う気がしていた。
 ページを捲りながら、周囲の状況を確認する。乗客の多くは、スマホとにらめっこしており、同じくらいの人がイヤフォンで何かの音声を聞いている。今、この状況で聞かなければならない音声なんてのはきっと存在していない。電車という行動の制限が生み出す時間を有効活用しようとする文化が息づいている。形は変われど、空き時間にボーッとすることは無駄な時間に定義されるのだろうか。座席には座らずに車窓の向こうの景色を見ている人が、異物のようだった。
「幹生さんって、今でも本屋に足を運んでるんですか?」
 横から聞こえてくる声に対して、「うん」と答えた。どうやらメッセージの返信が終わったようだ。
「電子書籍で発売前の小説も先読みできるのに?」
「面白いものはいつ読んでも面白いからさ。そこに競争はないよ」
「先輩、やっぱり時代のねじれに生まれたシーラカンスですね」
 幹生と彼女の中での価値観が決定的に相違していることに気付いた。小説を読むという行為自体は変わらないのに、求めるものが違う。彼女は面白いものをいち早く読みたいのだ。でも幹生の価値観には存在しない。面白いものはいつ読んでも面白い。それは太宰治やサリンジャーが証明している。問題は手にするタイミングだ。あらかじめ決め打ちして購入するのと、本屋で目に留まったとでは、野球で言えば硬球と軟球くらいの違いがある。もう別のジャンルだ。幹生も面白いものは早く読みたいという欲はある。でも本屋に並ぶまでの時間、探すまでの時間に生じるはやる気持ちを焦らされるのが好きなのかも知れないと思った。同時に思う。ネットの世界は、きっと瞬間風速が強い。早くしないと消えてしまう側面があり、その風をいち早く感じることと確認したという事実が大事なのだろう。勿論、ネット上のどこかには残っている。でも探すことが億劫なのだ。誰かが起こした風に乗れば、取り残されず、今を生きていることを感じられる。内容云々よりも答え合わせが大事。嫌な世の中だな。
「じゃあなんでラジオは聞くんですか? それこそ、いつ聞いても面白いものじゃないですか? 今はYouTubeでもradikoってアプリでも好きな時間に聞けるのに。深夜まで起きて聞くほどのものでなんですかね?」
「ラジオは別物なんだよ。あれは新鮮さが命の生物だから」
「へぇー。そうなんですね」
 ラジオは生物だ。生放送に生まれる化学反応のようなものには、後から聞くのでは冷めてしまう熱量がある。それこそ瞬間風速。学生時代からの日常、世界が劇的に変わる瞬間を何度も体験しているからこそ、幹生は今でも深夜に周波数を合わせてしまう。
「その生き方、きっと損しますよ」
 利便性に特化し受動的な生き方とアナログ的ではあるが能動的な生き方ではどちらが損をするのだろう。そんなことを考えていると、電車が止まった。アナウンスは品川に着いたことを伝える。
「それじゃ、私はここで降りますね」
 彼女は立ち上がり、振り向くことなく颯爽とホームへと歩いて行った。そして人の波に飲み込まれて見失う。後ろ姿を目で追い掛けながら、彼女のこの後のことについて考えた。この後、最終の新幹線に乗り込むはずだ。卒業時に地元に移り住んで、有事の際には新幹線でやってくる彼女の生き方は、利便性を優先しているようには思えなかった。
「オレみたいに時代錯誤でも東京に残るのと、時代の最先端に乗っかり地元で暮らすのではどっちが利便性があるのだろうか? そしてオレは損をしているのだろうか?」
 利便性の相違に思いを巡らせながら、携帯ラジオの電源を入れた。都内じゃないと聴けない声が、耳元にささやき始めた。

 文責 朝比奈ケイスケ

一通のメール【ショート・ショート66】

 言葉にならないような感情に陥るのは、どうでもいいことばかりを考えてしまうからだろうか。歳を重ねれば重なれるほどに考えることが増えていき、それでいて消化することが難しくなっていく。
 でも学校ではそんなことを黙っていて、夢を持つことを必要以上に強要する。大きければ大きいほど良いとされた夢を。それでいて叶わなかったことに関しては、妥協という使い勝手のいい言葉で誤魔化す。あの頃には気付くはずのない教育の闇、そして僕の指針だった。
 その誤った指針を信じて疑わずに生きた。呆れるほど真面目に。そして学校と言う後ろ盾が無くなった瞬間、表情を変えて、追い込まれるかのように泥沼に嵌っていった。どんな些細な違和感でも何も抵抗しないままに生きれば、違和感という形に変化して、そのまま自分の中に存在して、悪い友人のようにいつまでも付きまとう、厄介だ。
 義務教育という概念の中から一歩出て、それでも学校と言う後ろ盾が存在する大学という場所は、そうした違和感を修正する機関として大きな意味を持つような気がしている。だからこそ、未成年での飲酒や喫煙が黙認されている実態もあるだろうし、異性を買うことですら場所さえ誤らなければ可能な自由な時間。準備期間という定義でモラトリアムと名付けた心理学者もいる。それを一番有効的に使用できるのは、おそらく十八歳から二十二歳までの時間軸。そこで転んでしまうようなことがあれば、恐ろしいほどに理不尽な社会の顔を見ることになってしまう気がした。
 生きていく上で必要なのは、学力や金銭といった後天的な因子ではなく、人との関わり方。その謳い文句を現代社会では狂ったように口にする。結果、コミュニケーション能力が長けている人間が上位であり、下位にいる者は、それが足りていないとされるような階層のようなものが出来上がりつつある。それは自然界の食物連鎖という絶対的な関係性のようだ。人間のように感情や思考能力を用いる生き物では、形を変えて、野生動物よりも複雑さを生み出しているようだ。
 こんなことを考えながら、帰りの誰もいない明け方の道を進むと、自分の存在意義のような答えのない質問を問いかけてしまう。生産性のない帰り道ほど、地獄だと思うようになったのは、大学を卒業以降であり、青春と言う眩い光を主張する時間から追い出された結果論だ。
「今日もゴミのような一日だったな」呟く言葉は、寒さによって白く着色されて目に映る。一瞬でも言葉が形になる映像に救いを求めている。何もない自分を何かに着色できるような魔法に繋がるなんて現実逃避から生まれた産物。こんなことばかりを考えているから、内定という社会参加への切符は手にできずに夜勤のバイトなんかに精を出している。こんな将来は描いても見なかったと言えば、嘘になる。けれど夢の風呂敷を無限に広げてもいい時期には、考えることはなかった。それよりも野球選手とか医者とか、そういった今思えば血反吐を吐くほどに自分を追い込み、目の前に広がる誘惑を拒んだ者がたどり着ける領域に行けると信じていた。けれど成れなかった。
 。努力が足りなかったとか才能がとかお金がなんて逃げる人間が使い続ける言い訳の常套句は、今では口癖になって、何をするのにも言い訳が先行している。だからこそ、多くの物を失い、得るものは恐ろしく小粒なものになってしまうことを教えてくれれば道を外すことは無かった。
「言い訳ばかりの負け犬人生……か……」
 今にも消えそうな言葉がこぼれ、嫌悪感で全身が包まれて死にたくなる。けれども睡眠欲、食欲、性欲は消えることなく、心臓で製造された血液は絶えず、巡り続けて生き続ける努力を惜しまない。この機械的な動作でも行動にして落とし込めていれば、世界は表情を変えたように思う。考えを巡らせて歩き続ける、寝るためだけの部屋に向かって。おもむろにポケットに忍ばせたタバコの箱を取り出す。握り潰されたかのような箱から、今にも折れそうな一本を口にくわえて、火を付けるためにライターを少し震えた手で動かし、手頃な火を作り出し、先端に近づける。ジュッ、と焼ける音がしてオレンジ色を生み出す。空へと延びていく煙を顔面に受けながら、煙を吸い、吐き出す。口からは大量の煙が放出されて、血液の流れが悪くなる。不摂生な感覚は気になるけれど、嫌いにはならないのは、身体が示す拒否反応のようなものであり、それが三大欲求以外で生きていると感じさせるからだろうか。
 くわえ煙草で歩いても気分は晴れない。むしろ余計に思考の世界へと踏み込むようだった。家までの距離はないからこそ、吸い切ることを優先した遅い歩みで進んでいく。
 そんな時、携帯電話が震える。ほんの数秒で震えは収まり、何もなかったかのように静けさが戻ってきた。ポケットから取り出した携帯電話のランプは点滅し、何かの連絡を受けたことを知らせている。二つ折りのコンパクトになった携帯電話を開き、連絡を確認する。
『新着メール1件』
 無機質な文字が画面で表示される。メールボックスを開くと、見覚えのないアドレスで届いたメールが未読という表記で残っていた。迷惑メールかと思いつつ、開けた。
『深夜に悪い。明日ヒマか? 関本守』
 見覚えのある名前が記載されているのは、向こうの設定だろうか。どうでもいいことが気になってしまった。気怠さを抱きながらも、大丈夫という旨のメールを作成して送信ボタンを押す。一瞬の間に、インターネットの回線に乗り、康太の元へと送られた。当たり前になり過ぎてしまっているから、何とも思わなかったけれど、今日はその一連の流れが可能になった仕組みが気になった。けれども少しだけ気持ちは高揚して、歩く速度が速くなった。

文責 朝比奈ケイスケ

理想と現実【ショート・ショート65】

「いいか、覚えておけよ。おざなりな綺麗事を並べた所で、世の中は不条理で不平等だ。だから覚えておいてほしい。どんな境遇でも、決してブレることのない信念を持て。一つでいい、これからの人生の中でそれを見つられるか、見つけられないかで、お前らが見ることになる景色は大きく変わるからな」
 卒業式を終えた最後のホームルームで担任である日下部が、やけに真剣な表情をしながら口にした言葉は、老舗の中華飯店にある中華鍋の汚れのように今もなっても尚、頭の中にこびりついている。
 卒業式で校長やら名前も顔も知らない来賓と呼ばれる大人達が口を揃えて、夢や希望とか根拠のない言葉を連発していた後だったからか、真逆の言葉を言ったからか、それともやるせない世間に嫌気が指していたからか、尾崎豊を聴いて太宰治を読んで自分とは何かという哲学を絶えず考え続けていた十八歳の健斗には、衝撃的であり自分自身の価値観を肯定された気がした。
その瞬間、健斗は脳内に存在しているカメラのシャッターを切った。窓から見える風景は、健斗の歪んだ思考や日下部の言葉には不釣り合いな爽やかな青で塗られた空が広がっていた。

 発泡酒で口を潤わせながら、大学時代から使い続けている最新機種から遠く離れた型落ちのパソコン画面を眺めて数分が経過していた。画面上には、身体を寄せ合い、手を繋いでいる男女の姿が映し出されている。西洋一の繁華街と呼ばれる新宿歌舞伎町からすぐのホテル街へと続く道を歩く二人の姿は、容易に次に展開を彷彿させるには十分過ぎるほどの写真。しかも男の方は、昨年結婚報道をされた人気イケメン俳優であり、女の方は今人気絶頂のアイドルグループのセンター。
 金になる一枚であることは間違いない。老若男女から絶対的な人気を誇るイケメン俳優と恋愛禁止というグループ内条例が敷かれたアイドルのスキャンダル、しかも不倫というオマケ付き。それなりの展開が望める一枚を撮ったにも関わらず、健斗の心は穏やかではない。正確に言えば、こういうスキャンダル系のスクープを撮ると嫌悪感に苛まれるのが常であった。
 気持ちが萎えそうな感覚に支配されながら、ワンルームの中心に置かれたガラス張りのテーブルへと視線を移す。テーブルの上には一眼レフカメラと望遠レンズが置かれている。有名写真家の写真集や下世話な言葉が踊っている見出しと共にグラビアアイドルが表紙になっている週刊誌が片隅で山積みになっているだけの個性しかない部屋の中で、そのカメラとレンズは異彩を放っている。
健斗は片手に持っていた飲みかけの発泡酒を一気に口に含んだが、味はしなかった。
「結局、有名人だろうが、穀潰しのクズだろうが、所詮は人間。脊椎動物の哺乳類でしかない。生殖活動、一時の快楽に溺れる哀れな生物でしかない」
 健斗は誰に聞かすつもりもない言い訳を呟き、胸ポケットに忍ばせたハイライトを取り出し、火を点ける。毒々しい煙が灰を通じて身体の中に入り込み、血管を収縮させていく。煙を眺めながら、未だ解けない哲学について考え始めた。
 自分とは何か、と。
「オレの信念は、いつか形になるのだろうか……」
 尻つぼみになる言葉は、ハイライトの煙と共にあっさりと消えてしまう。それを弱音と呼ぶのであれば、最近は弱音ばかりが目立っている。厄介なことに、自らした人生の選択に対して後悔している節が見え隠れしており、更に信念の逆を突き進み続けている現実は健斗の頭を悩ます種だった。
 ろくに吸っていないハイライトを灰皿に押し付け、何かを引きずった傷跡や抜けた髪の毛や埃が目立つフロリーングに寝転がり、健斗は目を瞑った。近くの公園で騒いでいる若者の声が聞こえる。真っ暗になった視界には、程よいアクセントとして適度に聴覚を刺激した。しばし暗闇が支配する視界で最初に映ったのは、写真に収められた仲睦まじい二人の姿であった。自分の想起力にため息が出る。片や芸能人としてスポットライトを浴び、世間の目に晒されながらも出来上がった仮の姿を演じ続けている俳優やアイドル、片や芸能人が一人の人間、いや生物に変わる瞬間を捉えるハイエナ。深夜の眩しいほどの光を絶えず照らし続けているコンビニの映像が不意に浮かぶ。
不条理で不平等である世の中を生き抜くには必要な犠牲だと言い聞かせ、そのままやってきた睡魔に抵抗せず飲み込まれた。
 数日後、健斗が撮影したスキャンダル写真をきっかけとした波がマスメディアを通じて広がっていった。週刊誌も昼のワイドショーもTwitterやSNSなどでも波紋を呼んだ写真だけが一人歩きを始め、手元から離れていく。少しだけ気持ちが軽くなる感覚が健斗にはあった。
「よくやった。少し色を付けられるように上に掛け合ってみるぞ。それに夜にはおごってやろう。何がいい? 焼肉か? 寿司か? それとも風俗か?」
 消費税の引き上げで国家が揉めている社会の中で、バブリーな発言を聞くは少しだかり気がゆる。腹部が脂肪で盛り上がり、恰幅の良さを必要以上に主張しているのにも関わらず、ワイシャツの裾をスラックスの中に入れて、サスペンダーで留めているハゲの姿は編集長である飯澤だ。
 健斗が撮った写真やディスクトップ式のパソコンや仕事関係の書類やスキャンダル写真が掲載された雑誌、マッサージグッズなどによって本来持っていたスペースを奪われた編集長のディスク。その前に淡い青色のワイシャツとチノパン、スニーカー姿の健斗は立ちながら、今回の写真の件を報告していた。健斗の横にはカメラを持ち歩く際に使う専用のカバンが置かれている。
 飯澤はにこやかな表情をしたまま、健斗ではなくパソコン画面に目を向けた。相変わらずパソコンのディスクトップ画面には、中学生くらいの幼さを残す女の子が水着姿になっている写真が背景に設定されている。
 一応ジュニアアイドルとして活動しているらしいが、見るたびに気持ち悪さを抱く。このアイドルには罪はない。でもAVなどの求めていた世界とは異なる場所へと進んでいくかもしれない少女の将来の行く末を考えると不憫でならない。勿論、このスタートラインから走り出し、ドラマや映画に引っ張りだこの女優やアイドルグループの中心メンバーとして活動している人もいるのから一概には否定的なことは言えないし、AVで光を浴びていることに胸を張る人もいる。わざわざ声に出してまで言いたいことはない。ただ健斗自身の価値観、色眼鏡であることが影響しているだけの話だ。そんなことを思いながら飯澤の姿を見ていると、近く少女誘拐でも犯しそうな危険因子であるかもしれない気がした。
「色の方はお願いします。夜の件はお気持ちだけで結構です」
 健斗は謙虚に答えた。飯澤がこんな風にバブリーなことを言うのは、健斗が断りを入れることを承知しているからであり、退屈な冗談の一つに過ぎない。そのことは口にせずとも二人の中で了解している。
「健斗はいつも謙虚だな。今回の写真で、飛躍的に部数が増えそうだ」
 ご機嫌だな、おい。健斗は言葉にしないで毒づく。恐らく今日の夜は若い女の子が在籍する風俗にでも行くだろうなとも思った。飯澤の性癖など興味がないけれど、いつか警察に厄介になるのではないかと危惧しているのは事実である。飯澤自身のことなどどうでもいい。単純に収入源が減ってしまうことへの一抹の不安だ。
「これで相手側がどう出るかで変わってくるが、最近世間を賑わせていない週刊誌のスキャンダル記事としては十分すぎる程だ。次回も頼むぞ、健斗」
「頑張ります」
 双肩に重たい物が乗っかってくる感覚があった。プレッシャーや緊張ではない。本当の気持ちに嘘を付いて、信念を捻じ曲げていることを容易に行なっている自分自身への不甲斐なさと、しょうもなさが生み出す重さ。この重さには、未だに慣れない。
 予定の無かった編集部を後にし、夕暮れ時の山手線に揺られた健斗は新宿駅に降り立った。スーツ姿のサラリーマンや大学生と思しき若者、やけに厚化粧をしたおばさんなどがマスゲームをするかのように歩いている。誰しもが各自の世界観に浸りつつ、歩く姿は物悲しさと共に日本を象徴しているようであった。新宿駅西口の改札を抜けすぐそこの階段を登り、地上へと降り立った。秋になったにも関わらず、健斗の額には少量の汗をかいている。迷わず喫煙者のオアシスまで行き、大学時代に身に付けた喫煙所の場所取り能力を駆使し慣れた手つきでハイライトに火を付ける。
 高層ビルが列挙している都会の風景を眺めながら、この後のことを考え始めた。どこかに行く予定も無ければ、少し大人しくしていたいという気持ちが根底にある。その気持ちに最大限応えられる現職場でのカメラマンという身分に感謝しつつも、やはり将来への漠然な不安が顔を出す。芥川龍之介もこんな気持ちになって死を選択したのだろうか、と生産性皆無なことを頭で浮かべてしまう。横道に逸れた思考を戻す為に、ハイライトの煙を吸い込み、吐き出した。その繰り返しの先、何も得られないことは分かっていたが止められない。メビウスの輪とでも言うべき青年期の発達課題に頭を悩ませながら、健斗は夜の予定を決めた。
 高層ビルの中でも一際存在感を放つビル、東京都庁がすぐそこの新宿中央公園内で、何も考えずに健斗はカメラのシャッターを切り続けていた。厳しい季節を生き抜くために静かに活動をしている木々、秋らしい花々、健斗よりも若さが目立つグループ。シャッターを切る度に、切り取られる風景がメモリーカードへと蓄積されていく。芸能人御用達の街で夜な夜なカメラを構える時とは全く感じない高鳴りが、絶えず健斗の中で訴え続ける。良くも悪くも写真、カメラの存在は健斗と切り離せない程の重要な因子になり、未だ叶えられない信念を刺激する。目の前の道路を走り抜ける車やバイクの騒音や楽しそうな声が響く時間は、健斗にとって数少ない心穏やかな時間であった。
 シャッターを切った時、ポケットに入れてあった携帯電話が震え始めた。なんだか嫌な予感がした健斗は、震える携帯電話を無視してファインダー越しの風景を切り取り続ける。バイブレーションの震えはすぐに止まると予想したが、一向に止まる気配がない。止まったと思っても、すぐに震えることに集中力を乱された健斗は、ポケットに手を伸ばして携帯電話を取り出した。スマートフォンではない、ガラパゴスという俗称を持つ折り畳みの携帯電話だ。二つ折りになりコンパクトな状態から長方形の形になるように開き、ボタンを押す。画面が明るくなると、着信が四件という報告だけが見慣れたトップ画面に表示されている。編集部からか、それとも飯澤からの直接の連絡だと思い込んだ健斗は、気だるさを表情に出して操作を始める。着信相手は、予想した相手ではなく、十一個の数字と数字を繋ぐ二本のハイフォンだけが並んでいた。
「ったく誰だよ」
 健斗は呟く。敢えて着信のあった番号にかけ直すこともせず携帯電話をポケットにしまい、再びカメラを構えファインダーを覗き込み風景を切り取り続けた。夕暮れ時にやってきた公園は、夕日が沈み始め、夜へ向かう準備を始めていた。

文責 朝比奈ケイスケ

予知夢【ショート・ショート64】

 今にも雨が降りそうな曇天。文則は、目の前にいる姿を見つめていた。
「文則、私と別れて良かった?」
 真剣な表情でキミは不意に尋ねた。
 文則は返す言葉を模索して、口をつぐんだ。
 オレは後悔しているよ。
 心に引っ掛かったまま本音は言える訳もない。それは決して口にしてはいけない言葉。分かっている。仮に口に出してしまえば。ダムが崩壊したかのように感情が溢れ出すことは想像に容易だった。
 キミは、文則の言葉を待つように次の言葉を発しないまま時間が経過していく。我慢比べのような時間には、忘れかけていた懐かしさが帯びている。このまま時間が止まればいいのにと本気で思ってしまった。やはり文則の中では決心がつかないことを意味しているようだった。もう別れて何年もの月日が経過しているのにも関わらず、未だにキミに惚れている覆すことのできない事実。その事実は文則の中に潜んでいる女々しさを見事なまでに浮き彫りにする。
「ねぇ? 黙ってたら分からないよ?」
 口調は物腰柔らかく、そして甘えたような声。あの頃と何一つ変わらない声に、文則は意を決した。
「……葉月。オレ……」
 言葉を続けようとした瞬間、金縛りのように身体が硬直し始めて、気付けば全身の自由を奪われていた。まるで、エサを求める金魚のように文則は必死に口を動かした。しかし声にならない。文則の抱いた本音は届くはずもない。その姿を見ていた葉月は、不思議そうな表情をしている。
 本当の気持ちを言葉にしなければ。心の奥底に押し込んだ本音を言わないといけない。その気持ちに反して、身体の硬直はキツくなり、最終的に口も動かなくなった。諦めの念が広がっていく。文則は唯一機能している視覚に全神経を集中させる。せめてもの抵抗だった。
 大学時代、講義をサボってタバコを吸いながら眺めていたお気に入りだった空間。葉月の後ろには、青春時代に見つめてきた東京のビル街が広がっている。
「なんで、この場所なんだよ?」
 文則は頭の中で今の状況を整理しながら、胸の中で毒づく。
 葉月に告白して、その3年後に別れを切り出された場所。その因縁とも言える場所で、意味も分からないままに葉月と正対している。次第に思い出がフラッシュバックし始めた。まるで死に際に見ると言われている走馬灯のように。
 その時だった。曇天だったはずの空から一筋の光が差し込み、葉月を照らした。
「これ、天使の梯子って言うんだよね? 文則が教えてくれたよね」
 笑顔で言う葉月の姿は恐ろしいほど眩しい光に吸い込まれていく。キツく硬直していた身体が緩んでいくのを感じた。もはや反射的に文則は反射的に右手を伸ばした。光の中に吸い込まれていく葉月の手を掴む思い、いや、正確には葉月を引き寄せて抱きしめようとするために。
「さよなら。ありがとうね、文則」と言った葉月は、眩い光の中に消えていった。
「葉月」
 声を上げると、見覚えのある天井が目に入った。悪い夢を見ていたようだ。文則はため息をこぼす。あの映像を見ている時から、夢だと分かっていた。だからこそ、今になって葉月の夢を見たことを真意を求めようとしていた。女々しさは健在であり、ふがいない自分を笑いたくなった。その時、スマホが震えた。嫌な予感は抱いていた。最悪の展開だけは避けて欲しかった。
 友人からのLINEだ。アプリを起動させてメッセージを開いた。
『葉月、結婚するらしいぞ。どうする?』
 決まってるだろ。文則は言葉にしない決意を固めて、葉月の連絡先をタップした。我ながらキャラじゃないと自嘲する。でもやらない後悔を積み重ねたからこそ思う。時にはワガママに誰かを困らせてやろうと。土足で踏み込んで、一生忘れられない存在になってやろうと。
「もしもし?」
 葉月の声を聞いた文則は、条件反射のように言葉を発した。

文責 朝比奈ケイスケ

抜け落ちた記憶【ショート・ショート63】

「あと、何回殺せば、救われますか?」
 誰もいない明け方の公園のベンチで誰に向けた訳でもない私の言葉は、頭の中で跳ね返ってくる。自棄にでもなりそうだ。いや、もうなっているか。
 殺して、殺し続けたのかを考えるだけで胸の辺りが締め付けられるような痛みが走ることにも慣れつつある自分がいる。心臓なのか心と言う未確認因子なのかは分からないままに、不意にやってくる痛み。付き合っていくことが宿命めいているのは、殺し続けた代償なのだろうか。しかし、痛みがあろうが、なかろうが、私の人生は進んでいく。もっと言えば社会にとってはひどく些細な問題で、目に触れることはほとんどない。私の仕事が話題になったところで、時間が清流の役割と果たし、気付けば風化する。どんな凶悪事件が起きようと、それは混乱や狂気という安っぽい印象で留まり、最終的には暇を持て余した連中の暇つぶしの道具になるだけ。薄くなったテレビの映像で流れる情報のほとんどは、そうしたことを意味している。
 お前が居なくても、社会は何一つ影響はないと言わんばかりに。
 救いようのない世界だからこそ、私は殺し続ける。殺し続けた先に見える景色が、それこそが救いだと思い込んでいるからだろう。曇天が頭上には広がり、雨がいつ降ってきてもおかしくない。雨を欲していることに気付いた。古来から雨は神聖なものとあがめられて、崇高な自然現象。その神聖な雨という名の液体を被ることで、私の中の俗物を流し去ってくれることを期待した。
 しかし雨は、一向に振り落ちることはない。淡い期待も失望へと変わっていき、私のささやかな願いすらも受け入れてもらえない曇天を睨む。そんなことばかりだ。不平不満を頭の中で文字に御こして頭の中にある倉庫にしまう。もう、同じようなことを何度も倉庫にしまっているから、これは私の癖だ。
 ベンチから体を起こして立ち上がる。頭が痛み、足元が覚束ない。それに加えて平衡感覚が鈍っている。手を汚したことから逃れるための酒のせいだ。そんな自業自得の末路に手を添えるような人間はいない。千鳥足で歩きながらも頭の中では選択に迫られている。自力で部屋へと向かい歩くか、その場に倒れこんで通報を受けた救命救急士の手を借りて白い館に搬送されるか。アルコールに毒された私が選べる情けない二択しかない選択肢。選択を迫られている中でも私は足を前へ前へと動かしている。薄暗い道には、ここよりも遠い場所で新聞配達のバイクが鳴らすエンジン音だけが無機質に響いている。周りに見える住宅の窓には光は灯っていない。同じような無個性の住宅が並ぶ道は、私のような人間を拒んでいるようで、私の存在自体がことが罪のようにすら思えてしまう。
 罪は行為であり、私ではない。
 虚ろな目が、ささやかな光を見つける。とりあえず、そこまでは歩くことにしようと決めた。思った以上に光までの距離は短かった。自動販売機が私の姿を照らす。ジーンズのポケットに入れてあった財布を取り出し、小銭を入れて温かいコーヒーのボタンを押した。ドスン、と缶が落ちる音と共に音声はお礼の言葉を再生していた。缶コーヒーを取り出し、プルトップを開け、コーヒーを口に含んだ。甘さが口の中で広がる。気持ち悪い。自動販売機を眺めて、ペットボトルの水を購入しなかったことを悔やみ、その場所から再び歩き出した。最終的に自力で家まで帰るという選択肢を選ぶことにした。右手で掴む缶コーヒーは、まだ熱を持っており、温かい。その時、私には温もりと言うものを求めているような気がしてしまった。でも私は殺し過ぎた。
 そんな人間には、その欲求は手の届かない雨と同じ崇高なものだ。欲してはならないと言い聞かせて、進む速度を上げる。少しずつではあるが、まっすぐ歩けるようにはなっている。これで部屋に戻れるという安堵を感じる。何かを失ったような浮浪者のように
 私は量産的にすら思える作られた華やかな住宅地を進んでいく。歩く方向とは逆側の遠くの方で救急車のサイレンが耳に届いた。
 部屋に戻った私は、着ていた服装のまま万年床に身を預けた。次の瞬間には眠りについていた。正確には気絶なのかもしれない。そんなことを思うのは、目を覚ました夕暮れ時であり、明け方の曇天が嘘のようにオレンジ色の優しい光が四畳半の部屋に射し込んでいた。携帯電話を開き、時間を確認した。16時47分という文字が画面で大きく主張している。画面の大半を時刻が映っているが、下の方には着信とメールのお知らせがあった。
 メールの中身は「人気某アイドルが病んでしまっているから助けてほしい。貴方にしか頼めないのでお願いします」という文言が並んでいる。誰が心を打たれて助けようとするのだろうかと思うほど味気ない文章と青文字になっているメールアドレスには呆れた。本当に病んでいるのであれば、精神科かどこかカウンセリングセンターにでも送ればいいのではないかと思いながら、消去ボタンを押した。
 着信はSからであった。金をせびるIからではないことに一つ安心して、息が零れる。リダイアルをするがSは出なかった。果たしてSからの要件はなんだったのだろうかと思いながら、台所に行き、どこの店か分からない妖妖しい紫色の文字が印刷された箱の中からマッチを取り出し、煙草に火を点けた。煙草の先端からは、白い煙が漂い、吸うごとにオレンジ色の火が顔を出して先端が燃えていく。そうして灰が長くなっていくのを眺めながら、Sの着信を待った。
 結局、煙草が吸い終わるまでにSからの着信はなく、万年床をめがけて携帯電話を投げつけた。投げつけたことで一抹の満足感を抱いた私は、再び煙草を吸うことにした。最初の一本を吸うときには付け忘れてしまった換気扇の頼りない紐を引っ張り、起動させる。油汚れで黒く変色したプロペラは、起動することを心待ちにしていたかのように元気に回っている。その姿を見ていると、少しだけではあるが、気持ちが穏やかになる気がした。同時に仲間意識を感じた。
「オレらは似ているような。やることが決められて、それを遂行するだけで評価される」とこぼした私に返事をするように風を切り裂く音が台所には広がっていく。
 何もしないまま、時間が流れることに従順なままに過ごした。外は暗くなり、街灯が光を灯している。どうやらSの連絡には、急を求める内容ではないことを確信した私は、最寄りのコンビニへと向かうことにした。洗濯した服に袖を通すには勿体無いと思い、そのままの服装で、髪の毛が跳ねた寝癖など気に留めることもなく、スニーカーを履きながらドアを開ける。
 左足に湿った不快感があった。その正体を知るために目線を足元に落とす。明け方に買った缶コーヒーが玄関には転がっており、中身がこぼれていた。違う靴を履き変えることよりも食欲が勝った私は、その違和感と共に外に出た。
 秋の風が吹き、シャツだけでは少し肌寒さを感じるが、コンビニまでは5分も掛からない。気持ち早歩きで向かう。左足の不快感が苛立ちに変わっていくのを噛みしめながら、そして食欲を満たすためだけに歩いた。
 店内からは眩しい明るい光が広がり、外にもその光の存在が程度に暗い道を歩いていく中で、昨日の記憶が欠如していることに今更気付いた。何故、あんなに泥酔していたのだろうか。普段ならありえない。酒場でのことを思い出そうにも思い出せない。何があったのだろうか分からない不安で頭は占めていき、穏やかさが消え失せる。元々、穏やかさなど持ち合わせていないから、自分の感情の機微がバカバカしくて、店内で笑った。
 足早に弁当とお茶を購入し、来る時よりも早い速度で部屋に戻った。しかし、部屋に戻ったところで解決に導くようなものはない。記憶を繋ぐのは、缶コーヒーの空き缶と作られた華やかさが際立つ住宅地、そしてベンチのある公園だけだった。抜け落ちた空白が想像力を掻き立てる。記憶のない時間、何をしていた?何をしてしまったのだろうか? なんてことを必死になっていく。分かっているのは、昨日も生業に身を投じたことくらいだ。
 空白の中身は、ふとした瞬間に気付くか、もしくは永遠に思い出せない。どちらか二択である。どちらにしろ、いずれ忘れる。社会で起きる出来事のように有ったことを無かったことにするだけの話だ。忘却は私の、いや人類の武器である。そう答えが出たとき、徐々にではあるが、歩く速度が遅くなった。そして今まで早足で進んだ私自身をひどく恥じた。
「まだ、ダメだな。救われようとするなんて」
 誰にも聞こえないように呟く。この時、私の表情は緩んでいただろうか。

文責 朝比奈ケイスケ