忘れられない【ショート・ショート85】

「雫ちゃん、忘れられない恋ってある?」
 送迎帰りの車内で先輩に唐突な質問を投げかけられて、私は返事に困った。何を言っているのだろう、いきなり。本音を隠すように笑みを作って誤魔化そうと試みた。でもうまくいかない。さっきまで、おばあちゃんやおじいちゃんのにぎやかな声が響いていたハイエース内とは思えないほど静かで、先輩の声は行き場所をなくしたように車内に沈殿していき、そしてエンジン音にかき消されていた。
「いきなりなんですか?」
 無言の環境下で始まった先輩との根気比べに負けた私は、観念するように言葉を発した。そして運転席で小さく動く時計を見つめる。残り15分。この後の会話の展開が読めない中、話題を振った先輩を撒く方法を模索する。
「雫ちゃんって、男性職員と適度な距離を取ってるし。それに飲み会で盛り上がっている恋バナとかも参加しないじゃない? かといって彼氏がいる訳ではないらしいし。私、何か忘れられない恋でもあるのかなって思っちゃって。ちょっとした興味心で聞いてみたの」
「私はそういう恋の経験したことないので羨ましいです。なんだか先輩の恋の話聞きたくなったので、聞いていいですか? 先輩の旦那さんとの出会いって何だったんですか?」
 結婚して3年になる先輩は常々「誰かを好きになることは素晴らしいこと」だと力説する節がある。でも決して押し付ける訳でもなく、ただ自分の感想を口にしているだけだというのは口ぶりから伝わってくる。私もそうだとは思う。けれど若干の嫌悪感を抱くのも本音だった。仕事中にプライベートに踏み込んでくることについては嬉しいけれど、恋の話だけはしたくなかった。
 その思いが私の口を動かす。正直言ってしまえば、先輩の恋の話なんてどうでもよかった。でも先輩は楽しそうに出会いの話を始めた。私は気の利く相槌を打ちながら、恋バナを羨ましく聞く後輩役を全力で演じる。でも頭の中では、楽しそうに話す先輩に違和感を抱いていた。なんでこんなにも楽しそうに話せるのだろう。
 私は恋の話をすることが苦手だ。自覚はしている。だから話さない。理由を考えた時期もあったけれど、辿り着いた結論は曖昧で掴めた感じはしていないけれども。口にすると鮮度が落ちるというか、なんらかの帰着をしなきゃいけないし、話し終わった後に求めていない意見をもらうことに抵抗感があるからなのかもしれない。恋の話、しかも過去形になると元カレの悪口か、未練の有無みたいな当事者だけで話に辿り着くことが嫌いなのだ。色々なことを何も知らないからこそ、好き勝手いうことが耐えられないのだと、先輩の運転している背中を見つめて思った。そしてこれから先も先輩に話すことはない気がした。ハイエースは狭い道を巧みな運転技術で通過していく。先輩は表情一つ変えずに、恋バナを続けている。私は早く事業所に戻りたくて仕方がなかった。
 狭い一本道を抜けて丁字路を右折したハイエースの車窓から事業所が見えた。安堵感が芽生えていくのを感じる。でも油断はしない。私は今、先輩の恋バナを楽しそうに聞く後輩なのだから。
 サイドミラーを見ながらアクセルをゆっくり踏みながら、車止めに向かってバックする。バックが苦手な先輩と運転を代わるのは送迎を組む時に生まれた私たちだけのルール。今日も健在だ。運転するのは負担が多いから助かるけれど、バックだけの運転はなんだか申し訳ないと感じている。早く、自分で運転していかなきゃと思う。
 車止めに後輪が当たったことを確認してからエンジンを切る。走行距離を書類に書き込み、外に出ると先輩は笑って私を待っていた。
「ホント上手だよね。どこかで習ったの?」
 感心するという表情を見事なまでに表現している顔を見ながら、首を横に振る。
「教習所以外では習ってないですよ。勿論、無免許で運転もしてませんよ」
「そうだよね。雫ちゃん、今日もありがとね」
「いえ」
「雫ちゃんには、きっとふさわしい人が現れるから。その時は絶対に逃しちゃダメよ。あと臆病になっちゃダメ。人を好きになることは素晴らしいことなんだから」
 そう言った先輩は踵を返して事務所に向かって歩き出す。私はその背中を見つめながら、静かに口を動かす。
 私がバックがうまいのは理由があるんです。それと先輩。私、本当はしたことあるんです。忘れられない恋を。
 きっと、バックが上手いのは彼を忘れられないから。ずっと過去ばかりを見ているから後ろを見ることが得意なことになっていた。
 ねぇ、貴方は今も元気にしていますか?
 そんな私の弱弱しい声は、16時半を伝えるメロディにかき消された。貴方と何度も聞いた懐かしいメロディに。

 文責 朝比奈 ケイスケ

シンデレラ【ショート・ショート84】

「ゴメン、待ったよね」
 駅の騒がしさに紛れて消えていく謝罪の言葉。でも待ち人は、心配そうな表情から安堵感に変わっていく。その表情の変化を見ていると、申し訳なさが普段よりも重くなっていくのを感じる。
「仕事でしょ? 美加がやりたくて頑張っているだから気にすることはないよ。でもね、無理だけはしないでね。辛そうな表情はあんまり見たくないな」
 そう言った彼は静かに歩き出す。クサイ言葉を口にすると恥ずかしいのか、その場から離れようとする。そんな後ろ姿を何度も見てきた。頼りないけど、優しい背中。
 私も倣うように歩き出す。そして後方から彼の無防備な左手を掴むように右手を伸ばす。抵抗しない彼は優しく私の左手を包み込む。付き合ってから変わらない習慣だ。けれど、最近は妙な違和感を抱いている。やけに冷たいのだ、彼の手が。
「今日はどうしようか?」
 彼は人波をうまく避けて歩きながら問いかける。昔取った杵柄なのか、サッカーに青春を捧げたスキルがあらわになる。あと最終的な決定権を誰かに預けるプレースタイルも未だに健在だ。突破できるのに、決められない元ストライカーと高校時代の仲間に言われ続けることを彼は恥じるけど、実際は決めるところは決めているというのがマネージャー目線の私の意見だった。県大会の準々決勝も勝負所で決めている。後半終了残り僅かに決めたゴール。ボールがネットを揺らしたと同時に鳴った笛の音は、その後の劇的というかドーハの悲劇くらいの残忍な結末でみんなの記憶が改ざんされているけれども。
「ドライブ行きたいな」
 私の要望を了承したように頷く彼。駅から駐車場まで15分。冬の夜風が顔や手など露出した部分に当たる。冷たい、だから冬は苦手だ。私は空いていた左手で首元のマフラーを上げて、鼻の辺りまで覆う。そして左手をセーターの裾で可能な限り隠した。彼は特段、防寒する様子はない。スーツの上に着たダウンジャケットだけだ。それでも平然とした表情を浮かべている。寒さへの耐久性が羨ましく見えた。歩きながら今日一日で起きた出来事を機関銃のように話し続ける。マスクとマフラー越しだから音量を上げることも忘れない。早く春、いや夏が来ればいいのにと思った。
 彼の運転する軽自動車は綺麗に掃除されており、運転も上手だ。カーステレオから流れるラジオは地元FM番組。古い曲かあら最新曲まで予想できない音楽、時よりDJの小気味よい話術が車内に流れる。今日のテーマは「初めて」だった。リスナーからのメールは、淡い恋の話から、新しい趣味を始めた話まで多岐に渡る。色々な初めてを聞くのは新鮮で、頭の中で自分の初めてを抽出していく。バラ色の回顧なのか、どの記憶も鮮やかな色彩が脳内編集で加えられている。
「初めてって緊張するよな」
 彼はポツリとつぶやく。
「緊張するね。何を思い出してたの?」
「仕事のこととか、あと美加とのこととか」
 聞いているこっちが恥ずかしくなるようなことをノーモーションで、呼吸をするように平然とした口調で彼は言う。誰かに気にされていること、大事にされていることが私にとってはかなり重要だったからこそ、彼の何気ない言葉は嬉しい。
「私とのこと、思い出してたの?」
 意地悪だなと自覚しながらも懐かしい話をしたくて、敢えて口にする言葉。本当なら声を二トーンくらい上げたい気持ちだけど、恥ずかしいから自嘲する。照れ隠し、彼なら分かってくれているだろうな。
「うん。美加のことを思い出してた。付き合ってオレら長いじゃん。色々なことがあったけど、初めてに対して焦点を合わせることって少ないし、何より大枠で言えば初めてのことも少なくなってるだろ?」
「大枠って? どういうこと?」
「例えば、二人でどこかに行くってのも学生時代は初めて場所が多かったけど、今は結構さ落ち着いてるだろう? 去年は色々あって旅行にも行けなかったし、行動も制限されてたし。手を繋いだりすることも当たり前になってるし」
 彼の言おうとしていることには心当たりはある。確かに行動が制限された去年、私たちの初めてはかなり減った。少し前から同棲していることもあって、同じ空間で抱く相違点についての喧嘩もやり終えた部分はある。手を繋ぐことについても彼の言う通り、当たり前になっているし、それこそ抱き合っていることもあるのだから、その先で初めてを探す方が難しいのかもしれない。
「そうだね。去年は家にいることが多かったもんね」
「うん。それに自惚れだけど、美加のことで知らないことよりも知っていることの方が多い気がするしな」
「自惚れじゃないよ。こーちゃんは、私のこと私よりも知ってるよ」
「そうか? オレ鈍感だからな」
 マスク越しで分からない彼の表情を見ながら、彼は何を話そうとしているのかを無粋だと理解しながら予想する。彼は静かに私との初めての話を喋り始めた。優しい運転の中で彼と話していると心が安らいでいくのを感じていた。まるでお腹の中にいる胎児の気分を味わっているようだった。
 国道一号線から高速に乗り、辿り着いたのは横浜みなとみらいだった。初めてデートした場所であり、告白を受けた場所だ。きっとラジオに影響されたのだろうなと思いながら、車を降りた。
「少し歩こうか。時間があまりないけど」
 彼は時計を見て言った。今は19時半を少し回った頃、緊急事態宣言の影響を踏まえれば残り時間は30分を切っている。律儀だな、なんて思ったけれど、気分はシンデレラだ。普段とさして変わらないドライブデートだったけれど、一個条件が乗っているだけで気持ちに変化が生じるのは発見だった。
 高いビル、オシャレな建造物、車と声に紛れてかすかに聞こえる波の音。光に誘われるように歩いていく。街は思ったよりも多くて、手を繋ぐカップルやスーツ姿の男性、オシャレなファッションの女性とすれ違った。その全員がマスクをしていることを除いて、変わらないみなとみらいだった。
 私たちは、ずっと思い出話を口にしていた。初めてのデートは正直に言えば散々だったけれど、彼らしさは全開だった。でも忘れられない記憶、抱きしめたくなるほど大事な愛おしい時間だ。
「今更だけど、あのデートひどかったよな」
 ぽつりと彼が言った。
「ひどかったというか、こーちゃんらしさ全開だったね」
「オレらしさって。覚悟決めてたから、空回りしてたよな」
 恥ずかしそうに笑う。私も釣られて笑った。こういうありふれた出来事の積み重ねが、実は幸せなんだろうな。
「あの状態からの告白は、なかなかすごいと思ったよ」
 本音を吐露する。日本丸が停留しているテッパンのデートコースにある芝生に座って観覧車を見つめながら告白されるのかもしれないと、彼の余裕のない横顔を見ていた記憶を想起する。彼も思い出しているのだろうか、近くの自動販売機に向かった。あの時、買ったココアとコーヒーを購入して、ココアを私に渡す。ペットボトルから伝わる温かさで悴んでいた手が生気を取り戻していく。
 私たちは誘導されるように告白の場所へと足を進めた。対岸で輝く観覧車はいつ見ても綺麗で、心が奪われそうになる。そして円の中心に設置された時計が19時50分を示しているのが目に入った。
「久し振りだから、座って観覧車見ない?」
 懐かしさに引っ張られて、私は無意識で彼を誘っていた。彼は静かに頷く。結構寒かったけれど、初めてを再体験したい欲求が口を動かしていた。
 人の少ない場所を選んで、私たちは芝生に腰かけた。観覧車の見える一等席だ。座ってすぐに私は彼の左肩に頭を預けた。こうして外で甘えるのは、本当に久し振りだった。傍から見ればイタイかもしれないけれど、そんなことはどうでもよかった。今は、彼と一緒にいる二人だけの世界を味わいたかった。
 観覧車は時刻を刻むように柱の照明が消えたり、光ったりしている。年甲斐もないけど、この時の私はキスがしたくなっていた。あの頃を模倣するように。あと数分もすれば20時。区切りの時間に始まるイルミネーションがあることを思い出した。彼の言っていた時間がないというのは、このことも含まれているのかもしれない。私はマフラーをずらして、マスクを外してから言った。
「ねぇ」
 私が声を掛けると同時に彼は言った。
「タバコ吸ってもいい?」
 ロマンチックな状況に水を差すようなセリフだ。でも私は頷いた。だって彼がタバコを吸って何かを思索している横顔が一番好きだったから。彼はマスクを外す。そしてポケットからセブンスターの箱を取り出して、一本タバコを抜き取ってくわえた。流れるような行動、不覚にも見惚れてしまった。でも一向に火を点けない。私は彼の様子を伺う。どうやらライターを忘れたみたいだ。私があげたジッポライターを。
「ジッポ、忘れたの?」
「あれ、持ってきたはずなんだけどな」
 彼は両手であらゆるポケットを触っている。その姿は、なんだか滑稽だ。
「こういう時は灯台下暗し。ダウンのポケットに入ってるんじゃない?」
 そういって私は右手を彼のダウンジャケットの外ポケットに突っ込んだ。人差し指が触れる立体の箱。タバコの箱にしては固かった。なんだか気になってしまって、思わず箱をポケットから取り出した。見たことのない箱だった。
「これなに?」
 状況が整理できない状態を解消するために、箱を持った右手を彼の顔の前に差し出す。すると彼は苦笑した表情を浮かべて、そして笑った。
「美加へのプレゼント」
 急に彼は私を正面から見据える。急に見た彼の顔、見覚えがあった。
「結婚してほしい」
 ようやく箱の正体が指輪の箱だと気付いた。そして彼の手が冷たかったのは緊張のせいだったことも。
「はい」
 私は何も考えずに返事をした。決められないストライカーらしくない彼の所作。あの頃から私たちは大人になったんだと自覚的になる。同時に目頭が熱くなっていることに気付く。
 まったく、決められないストライカーじゃないよ、こーちゃんは。
 決めるところはしっかり決めるエースストライカーだよ。
「私からお願いがあるの」
 キスしよう。その言葉の枕詞を言おうとすると彼は安堵した顔を浮かべてから、くわえていたタバコを右手で掴んでからキスをした。
 ホント、私のことをよく分かってらっしゃる。
 彼と唇を交わした瞬間、私たちの初体験を祝福するように観覧車のイルミネーションが鮮やかに輝き始め、幾つもの光が私たちを照らす。
 涙でいつになく幻想的な光を忘れることは無いんだろうなと思いながら、私はゆっくりと目を瞑った。

文責 朝比奈 ケイスケ 

嫉妬【ショート・ショート83】

「悪い、待たせたな」
 顔を赤らめた寿也は開口一番、僕に詫びるように手刀を作りながら言う。その姿は、学生代によく見た姿だった。
「気にすることじゃない」
 周囲を見渡せば、着飾った服装をした老若男女で溢れている。クロークには宴を終えて、荷物を待つ列ができている。その誰もがどこか幸せそうな表情をしており、結婚式の会場は幸せという曖昧な尺度を具体的にする建物のように思えた。
「マツと井出は?」
 寿也は濡れた手を拭いたハンカチを乱暴にポケットにねじ込みながら訊く。あのハンカチもどこかのブランド物なんだろうな、なんてことが頭の片隅を過る。
「マツはタバコ、井出は帰ったよ。なんか子供が熱出したって連絡が入ったらしい」
「そりゃ大変だな。子供の熱は侮れないからな」
 しみじみと寿也は言う。あの頃の何人もの女性を泣かしてきた自分勝手な男も、今や二児の父親だ。子供の体調不良で家路を急いだ経験も多いのだろう。やけに説得力があるように感じたのは、経験談が乗り移った口振りではなく腹回りに付いた贅肉だった。どっしりと構えるという言葉を体現した姿は、日々の運動不足を露呈させている。いや、京子さんの作る料理が美味しくて食べ過ぎているだけかもしれない。どっちにしろ、生活習慣病への注意喚起はしておいたほうが良い気がした。
「今日はいい結婚式だったな」
 寿也はやけに高く吹き抜けになっている天井を眺めながら呟いた。今日の結婚式を回想していると思うと、その動きは芝居じみていて滑稽に映る。
「いい結婚式だったよ」
 寿也の意見を肯定してみたけれど、何が良い結婚式で、何が悪い結婚式なのか。その判断は何度も結婚式に出席しているけれど分からないでいた。どんな基準で判断しているのかを問いたくなる衝動を押さえながら、寿也の次の言葉を待つ。
「なんかいいよな、結婚式って」
 具体的なことについて言及することを期待していた僕は肩透かしを喰らってしまい、行き場のない感情の置き場所に困った。寿也にとってはどんな結婚式も良い結婚式になるのだろう。
生産性のない思索に耽っていると、マツが喫煙所から帰ってきた。気立てのよいスーツを着て、背筋を真っ直ぐ伸ばして歩く姿は画になった。マツが僕らの元に戻ってくると、寿也は胸に潜めていた言葉を口にする。
「この後、どうする?」
 僕とマツは顔を見合わせた。飲みに行こう。その意味を含む誘いは、魅力的でもあったが、朝から着慣れない礼服を着ているからさっさと帰ってシャワーを浴びたかった。
「オレ、パス」
 マツは潔く答えた。
「なんでだよ?」
 寿也は残念そうな表情で尋ねる。
「オレは今日広島から来てんの。これから実家にも行かなきゃいけないし、正直厳しいわ」
 就職活動で旅行代理店に就職したマツは最初の赴任先こそ埼玉だったが、それ以降は石川、高知、そして今は広島と転勤を繰り返していた。広島から横浜までは新幹線で四時間くらいは掛かる。そう考えると、ここで無理強いするのは良心が痛む。折角、再会したのだから時間を共有したいと思ったけれど、詰め込んだスケジュールがあるのだろう。マツはマツで忙しく、あの頃の付き合いの良いマツではないのだ。
「次、いつ帰ってくるの?」
 僕は帰ることを前提にして、次の予定を伺う。僕はともかく、寿也にしろ井出にしろ、家庭があるから以前のように簡単には誘えない。マツを材料にして、集まる口実を得ようとする下心があった。
「次は夏休みかな。実家に彼女連れていかなきゃいけないし」
 予想外の発言に一瞬、時間が止まった。それは寿也も同じだったみたいで、沈黙が三人の間に広がった。
「彼女って、結婚するのか? ようやくお前も」
 寿也は下世話な芸能リポーターのように疑問を投げつける。マツは涼しい笑顔を浮かべて、静かに頷いた。
「オレら三十歳だぜ、結婚するのはおかしくないだろ?」
「おかしくなはいし、むしろ大歓迎だよ。ただ、独身貴族の淳平はどう思うかな?」
 ニヤニヤした表情で寿也は僕の顔を見る。マツが結婚すれば、仲間内で結婚していないのは、僕とアイツだけになる。好奇の目に晒されるのは、もはや宿命めいたものがあるからこそ、受け身を鍛錬する準備は怠っていない。
「おめでとう。これでこのグループもみんな所帯持ちだな、僕は嬉しいよ」
「ありがとう。夏休みには時間作って、お前らにも彼女を紹介するからさ、そん時はちゃんと集まってくれよ」
「勿論」
「ちゃんと連絡しろよ。結婚式が初めましてとか、俺は許さないからな」
「誰が言ってんだか。ちゅうことで、今日はパスでよろしく。駅までは付き合うけどさ」
 華麗な手品師のように話題をすり替えたマツは、見事に帰宅のチケットを手に入れた。その器用さは新鮮で、僕の知らないところで変わっていることに自覚的になる。
「んじゃ、独身貴族は付き合えよ」
 寿也はマツのことは諦めたようで、僕に照準を合わせた。明日、休みだから別に飲みに行くことは構わないことを伝えると、寿也は気分よく出口に向かって歩き始めた。
 桜木町駅の改札前は、別れを惜しむカップルが数人いた。仲良く手を繋いで、改札の先に吸い込まれていく姿もあった。そして僕らと同じようにスーツを身に纏い、赤ら顔で歩く集団にも何度かすれ違った。それぞれの休日が映し出されている中で、僕らはマツと別れた。マツの後姿は、身長の高さとスーツが上手い具合にマッチしていて、なんだかドラマのワンシーンを演じる俳優のように見えた。
「んじゃ、行くか」
 僕らは桜木町を後にして、野毛の方向に向かって歩き始めた。
 結婚式に飲んだ酒が効いているからか、僕らの口を軽くする。結婚式の参列者の話から、料理の味、懐かしい友人の話は尽きることのなかった。その中でも一番盛り上がったのは、マツの結婚の話だった。学生時代、童貞を貫き通し、色恋よりもカメラに熱を上げていた男が、近い将来には結婚するという違和感は互いにおかしかった。
「マツが結婚するのに、お前はしないのか?」
 立ち飲みが乱立し始める道に入ったところで、寿也は不意に話題を変えた。
「結婚する相手どころか、付き合ってる人もいない状況で結婚なんて考えられないだろ?」
「でも三十歳、そろそろいいんじゃないのか?」
「何をもっていいんだよ?」
 寿也の意図、それはよく分かる。このままでいいなんて思ってなんかいない。ただ、愛やら恋やらに盲目になれるほど純粋では無かったし、それ以上に考えないといけないことが多かった。
「ここ、よくね?」
 寿也の指さした先には、赤ちょうちんが僕らを誘うように光っていた。
「だな」
 幸い、店のカウンターが二席空いており、僕らは速やかに生ビールを注文した。土曜日ということもあってか、僕らのようなスーツ姿よりも私服で過ごしている割合の方が圧倒的に多かった。狭い空間にこもる焼き鳥の煙とタバコの紫煙は時代錯誤ではあったが、抗体がある僕らにはむしろ心地が良い。中年男性がくだを巻きながら、政治について語っていると思えば、一人で来ていた若い女性の横で上機嫌でグラスを煽るオッサンと、個性豊かな店内だった。
 僕は胸ポケットからタバコの箱と百円ライターを取り出す。それを見ていた寿也は黙ってライターを右手で掴み、僕の目の前に差し出した。僕は火を点けて、煙を吐き出す。正常に頭を回す潤滑油のように、毒々しい煙が全身に巡っていく。
「何、禁煙止めたの?」
 タバコを咥えたままと尋ねると、「お前の横に居ると吸いたくなんだよ」とこぼしてテーブルに置いたタバコをひったくった。
「やっぱりタバコは美味いな」
「京子さんに止められてるの?」
「京子は特に何も言ってこないよ。付き合ってる時から吸ってるし、京子も喫煙者だったしな。気持ちは分かってくれるんだけど、子どもの事を考えると無駄遣いは良くないって思うんだよな」
 遠くの方を見ながら煙を吐き出す横顔には、父親の輪郭があった。何かを得るには何かを捨てなきゃいけない。誰が言ったかすら定かではない提言が頭の中で踊る。
「はい、生二つお待ち」
 タイミングよく差し出されたビールを片手に乾杯をした。店の中に響く喧騒でもグラスが当たる乾いた音は聞き取れた。
 生ビールが三杯目に入った頃、寿也は素面に戻ったような表情で僕の顔を覗き込むように見始めた。
「なんだよ、気持ち悪い。何か、顔に付いてるのか?」
 タバコの煙を寿也の顔に吹きかける。
「今日の結婚式、どうだった?」
 なんだよ、その質問。
「どうって、良かったんじゃない。僕には結婚式の良し悪しを判断する基準がないから、よく分かんないけど、主役二人は幸せそうだったし」
「オレが聞きたいのは、結婚式全体の話じゃない」
「じゃあ、なんだよ?」
 嫌な予感はした。恐らく寿也は、あのことに触れるつもりだ。
「披露宴の余興前のビデオレターだよ」
 結婚式から真っ直ぐ帰りたかった大きな理由。あのビデオレターには触れてほしくなかった。マツにしろ、井出にしろ、僕が座っていた円卓からの視線はやんわりと感じていた。でも誰も言及しなかった。それが正解だとみんな分かっていたのだ。
「アレ、凄かったよな。それに和義も義理堅いよな。友人の結婚式にビデオレター送るなんて。アイツが写った時の新婦側というか女性陣の黄色い声援には驚いたけどさ」
「確かに凄い歓声で、結婚式の主役喰ってたもんな。でもな、その瞬間、オレは思わずお前を見ちまった」
 箸できゅうりの浅漬けを掴もうとしていた手が止まる。
「一条和義ってカッコいいよね」
 さっきまでオッサンにナンパされていた女性の声だ。視線を寿也にバレないようにテレビに向ける。今、話題になっているというドラマが写っている。主演は一条和義。本名は中村和義。オレらの同級生で、一番の出世株。今日の結婚式で、女性陣の視線を映像越しに一気に受けた張本人。そして僕の親友だった奴だ。
 止まった手を動かし、一気にきゅうりを口に運ぶ。水っぽい味と濃い味噌の味が口の中で広がった。
「お前、すげー寂しそうな顔してたぞ」
「どんな顔だよ? それ」
 こんな顔、といって寿也は両手で目頭を下げた。情けないというよりも今にも泣きそうな顔だった。
「和義には会ってないの?」
「会ってないよ。人気者になり過ぎて連絡するのも億劫になる」
 僕はきゅうりを食べた箸で、テレビを指さした。丁度、和義がアクションシーンを繰り広げていた。しなやかに動く身体は、画面越しからでも力強さを感じさせた。
「このドラマ、人気らしいよな。京子も毎週録画してるよ」
「寿也はさ、和義のことどう思ってる?」
「どう思ってるって、なんだよ急に」
「いや、聞いてみたかったからさ。友人が華やかな場所で活躍してるのは、どう思うんだろうって」
「オレは誇らしいよ。友人、しかも高校時代一緒にバカやってた奴がさ、実力派俳優だ、イケメン俳優だって取り上げられてるのは自分のことのように嬉しいし。淳平は、そんな風には思わないのか?」
「どうだろうな。オレはずっと一緒にいた奴だからさ、実感が湧かないというか、本当に和義なのかって思っちゃうんだよな」
「淳平らしいな。そういうとこ。変わってないよ」
「変わったよ」
 呟くように言った言葉は店の煙に飲まれて消えていった。

文責 朝比奈ケイスケ

星が遠い【ショート・ショート82】

 星が遠い。
 情けないほど陳腐な感想を抱く自分に嫌気が差すけれど、久し振りに見上げた空が遠く感じたのは、まぎれもない事実であり、東京で生活しているのだと自覚的になった。色々なことに溢れ、下を向くことばかり日常が般化していることへの危機感のようなものが胸を染めていく。
 タクシーが横を過ぎていく三車線の幹線道路を横目に歩いていると、マスク姿の人と何度もすれ違う。人工的な光が明るさを確保し、人の発明が聴覚を捉える。嗅覚は文明開化の副作用を嗅ぎ取る。思えば東京での生活は無理をしてばかりだ。憧れと現実の乖離をこれでもかと体験したから、時に逃げたくもなった。でも地元に戻る選択肢は持ち合わせていなかった。
「絶対に成功する」
 根拠のない自信だけを頼りに、啖呵を切って飛び出した地元の田園風景が恋しい。胸に奥に押し込んだ本音だった。全ての感覚が自然に染まる原風景、もう何年も帰っていない。冬の寒さを防ぐようにマフラーで口元を隠す。冷たい風は、未だに成功していない自分に突き付ける逆風のように思えた。あの頃は何が成功か正確には理解していなくて、漠然とした成功の断片を片道切符にしていた。
 何度も落ちたオーディション。何度も負けたコンテスト。店長に罵倒されて仕事終わりに職場で泣いたことも数えることも億劫になるくらいある。でも折れなかった。自分の覚悟を肯定するために、必死に練習を積んだ。時には東京にいた友達に片っ端から電話を掛けては、練習相手になってもらった。ひたすらに仕事に打ち込んだ。そんなことを積み上げたからか、時間の経過によって、拙いスキルは向上して、今では指定客も増えた。道具にもこだわりを持てる程度には収入もある。お客さんから「ありがとう」と言われる機会も増えたし「アナタのおかげで彼氏ができました」と満面の笑みで報告されたこともある。全て大切な財産で、大都会で生きていくための支えになっていた。
「私は私を幸せにできているのだろうか?」
 ふと抱いた想いは、きっと星を見たせいだ。悲しくなるほどに遠い星を。
 深夜未明にも関わらず光を照らし、救いの手を差し伸べてくれる優しさを体現したコンビニに立ち寄り、缶ビールを購入した。レジを打った肌の色が異なる彼は拙い日本語で丁寧に接客してくれた。
「イツモガンバッテマスネ」
 顔なじみになっている彼の言葉には温かさがあって、思わず泣きそうになった。彼にいつかの私の姿を重ねてしまいそうだった。
「アナタも頑張ってますよね。お互い大変だけど頑張ろうね」
 柄にもことを真面目な顔で口にした。すると彼はとびっきりの笑顔を浮かべた。
 ヤバい、泣きそう。
 コンビニを後にしてアパート近くの公園に足を踏み込んだ。都会とは思えない静けさが心地よい。心許ない街灯が照らすブランコに腰かけて、缶ビールのプルトップに手を掛ける。泡が口から少し溢れた。冷たい。缶に流れた液体をハンカチで拭き取って、ビールを飲んだ。苦さが口の中に広がる。
「深夜の公園で寒さに耐えながら一人でビール飲んでるとかヤバいな、私」
 今にも涙を流しそうになって、思わず上を向いた。澄んだ空に浮かぶ小さな星が幾つも目に入る。なんだか遠い、星ってあんなに遠かったっけ。
 カバンの中からスマホを取り出して起動させる。何通か届いていたLINEを流し読みして、返信せずにアプリを閉じる。緊急性というか、今返す気分にはなれなかった。慣れた手つきで音楽アプリを起動させて、ポケットに入れたイヤフォンを取り出して、お気に入りの音楽を流す。最近にハマったバンドのアップテンポが耳元で流れる。でも気分が良くなかったのは少しの間だけで、何だか違うなと思って停止ボタンを押した。まだAメロも終わっていなかった。
 サブスクリプションのおかげで無限にすら感じる音楽の倉庫から、今の気分に合う音楽を探した。まるで答えの無い哲学の問題のような時間。気付けば、高校時代に聴いていた音楽に辿り着いていた。今はめっきり聞かなくなったアーティスト、あの頃は神様のような存在だった。懐かしいメロディで始まったバラードを聞きながら、再び、顔を上げた。
 無数の星を指でなぞるように見えない線を引いていく。地学の勉強なんてちゃんとしてなかったし、もう十年以上経っているのに詰まることなく、正確に繋ぐことができる星座。冬の大三角を作り出した時、一人の男性の姿とボロボロで狭い部屋が浮かんだ。懐かしいな。あのプラネタリウム。
 高校時代、受験や将来など思春期に抱く言葉にならない不安から逃げるように入り浸った場所があった。市が運営していたプラネタリウムだ。小さくてボロボロだったけれど、天井には必ず目視できる星が浮かんでいた。最初は何でプラネタリウムなんだろうと疑問を持っていたけれど、気付けば通い詰めていた。それに興味はなかったけれど、毎回同じアナウンスだったから、知らぬ間に知識は身に付いていた。
 プラネタリウムを見た帰り道、さっき得た知識を確認するように夜空を眺めていた。星が近くに見えて、はっきりと目視できたから、星座を探すのには苦労しなかった。こんな風に英語の問題も解ければいいのにと本気で思った。スカートから伸びる素足に鳥肌を作りながら、時間も忘れて繋いだ星座。今思えば、現実逃避以外の何物でもなかった。でも音楽を聴きながら、眺める夜空は私が抱く不安を軽くしてくれた。
 そんな日々を過ごしている時に、私は彼に出会った。確か模試の結果が返ってきた日だ。第一希望の結果はC判定。教室の窓から見える曇天の風景を眺めながら、いち早く逃げたくなった。放課後、仲良しの友達の誘いを断って、自転車を漕いだ。15分も漕げば辿り着く避難場所。今日も静かに営業していたプラネタリウムのチケットを購入して、お気に入りの席に腰かけた。開演までは時間がって、見たくないのにカバンの中から模試の結果を取り出していた。C判定。変わらぬ結果にため息が出る。冷静過ぎる辛辣な指摘が綴られた評価は、今の私には鋭い刃物にすら見えた。
 そんな私の前に差し出されたハンカチ。伸びる腕は細くて白かった。私は思わず視線を腕の先に動かした。見覚えの無い顔と学ラン姿がそこにはあった。
「なんですか?」
 私は少し怖くなって、怒気を含んだトーンだった。でも彼は顔色を変えなかった。
「ハンカチですよ。アナタ、泣いてるから」
 彼は映画に出てきそうな紳士の振る舞いだった。思わず自分の瞼や頬を右手で触れる。指先に付いたのは、まぎれもなく涙だった。急に恥ずかしくなった。この場所から離れたいと思った。でも目の前に差し出されたハンカチ、いや優しさにすがりたくなった。
「ありがとうございます」
「それ、使ったら捨てていいから」
 そう言って彼は私の前から離れようとする。その姿を見つめていると、不思議と口が動く。
「あの、良かったら隣で見ませんか?」
 飛んだサイコ野郎だ。自分の不安を名前も知らない誰かに背負ってもらおうとしている。狂っている、今ならできない。絶対、こんなナンパみたいなこと。
「でも」
 ハンカチを差し出した紳士とは思えぬ狼狽した彼の姿は、ディズニーのキャラクターのような愛らしさがあった。
「今は一人でいたら、もっと泣きそうだから」
 何度でも思う。私は飛んだサイコ野郎だ。
 彼は戸惑いながら、そして諦めたように私の横に座った。そこからは沈黙の時間が流れ、そして部屋が暗くなった。聞き慣れたアナウンスが始まり、低い天井に星空が映し出される。私は人工的な空を眺めながら、時より彼を見ていた。髪が長くて目に掛かる前髪。くっきりとした鼻は横顔からでも存在を主張していた。彼は人口の空を眺めながら、時よりノートに何かを書いていた。
 上映時間30分のプラネタリウムがいつもより短く感じた。明るくなる室内。私と彼以外誰も居ない空間、部屋に鎮座する機械が今日はやけに存在を主張している。
 彼はノートを閉じて、立ち上がる。意外に背が高かった彼は、高身長を台無しにする猫背で歩き出そうとする。私は思わず彼に声を掛けた。
「あの、またこの場所に来ますか?」
 彼は戸惑った表情を浮かべながら「来週も来ると思う」と手短に答えた。
「そしたら、次会った時にハンカチ返します。今日はありがとうございました」
 私は頭を下げる。汚れが目立つカーペットが目に入る。もっと掃除すればいいのにと条件反射で思った。
「別にいいよ。ハンカチはあげる」
「でも」
 次の言葉が見つからない。こんなことなら、もっと男子生徒と話しておけばよかったと後悔した。私が言葉に詰まっていることを察したのか、彼はその場に立ち止まり、優しい口調で言った。
「時には泣いてもいいんじゃない?」
「えっ?」
「オレはアナタの事を知らないし、何があったのかも知らない。でもこんな誰も居ない避難場所みたいな場所で人目を気にせず泣いていた。なんか泣いてる人に何もできない自分が嫌だっただけだからハンカチを渡したけど、泣ける場所があるのは幸せなことだと思う。どんな理由だったのか、正直言ってどうでもいいけど、下を向いた分、いつか、ちゃんと上を向きなよ。そしたら星が見えるから」
 そう言い残して彼は踵を返して歩き出した。その背中は同世代とは思えないほど大きくて、逞しかった。
 曲が終わる。でも懐かしい青春の記憶は鮮明に残ったままだ。手に持っていたビールを口にする。さっきよりも炭酸が口に残った。
「何やってんの?」
 プラネタリウムのアナウンスの声よりも聞いた声が耳に届く。私は声の方に顔を向ける。短髪になって顔のパーツがハッキリとなり、くっきりとした鼻の持ち主が、ゆっくりと私に近づいてくる。
「星見てるの」
「こんな寂しくて星が遠い場所で?」
 私は開けずに地面に置いたままだった缶ビールを彼に向かって放った。こうなることを予測していた自分の用意周到さがおかしかった。
 夜の公園に描いた放物線。彼は左手で缶ビールをキャッチする。その薬指には私と同じ指輪をしていた。こんな寂しい場所でも誰かと星が見ることができるのは、きっと幸せなんだろうな。そう思ったら、自然と頬が緩んだ。

文責 朝比奈 ケイスケ

一室【ショート・ショート81】

 有線放送から流れる聞き覚えのあるナンバーで、我に返った。机に置いたスマホを手に取り、時刻を確認する。深夜十二時半。サヤカが部屋を出てから十分も経っていなかった。座り心地の良い自分には分不相応なソファーに腰かけながら、ぼんやりと部屋を見渡す。部屋の大部分を占めるキングサイズのベッドのシーツは乱れ、着ていた服は床に散乱している。人間という生き物でなく、一つの生命体として満たされないものを十個も下の女性に補ってもらったことを想起し、快楽を得た高揚感と背徳感とブレンドした感情を胸で処理する。
 金で全てが解決するとは思えないけれど、大抵のことは補えることを成長するにつれて実感する機会が増えた。給料日の今夜もそのことを実感する。良くも悪くも大人になった。でも胸に空いた穴を完全に塞ぐ方法を知らないまま過ごしている。一ヵ月に一度は生きていることに絶望し、全てを放棄したくなる衝動を収める為、女性を利用する。利用を始めた頃は、自分の感情やそれに類するもののはけ口にする行為に対して抵抗感を抱いていたが、気付けばいつの間にか消えていた。経験が生み出す慣れが、正常だったはずの思考回路を狂わす。揚句、生命活動の一環として捉え始めている節があって、救いようがなかった。
 でも事実として、自己肯定の低い俺はサヤカの存在に救われていた。同じように自己肯定が低いと嘆くサヤカもまた俺やその他の男が口にした肯定的な言葉、一般的なバイトでは稼ぐことのできない賃金によって救われていたのかもしれない。
 需要と供給。見事に噛み合って成立する関係性は、野ざらしにしていた金属バットよりも冷たかった。
 窓のない自分の部屋よりも広く清潔に保たれた空間の中で、一番の汚物は自分自身であるような気がする。ため息をこぼし、タバコを取り出そうとカバンの中を弄る。殆ど物の入っていないカバンは自分を投影しているようで応えた。タバコを取り出すタイミングで右手が財布に触れた。財布に入れた数枚の福沢諭吉は、ものの数時間で消え去った。代わりに増えた小銭の重さが現実を突きつけることを知っていたからこそ、すぐに距離を取った。クシャクシャになったソフトパックからタバコを一本取り出して、ジッポーライターで火を点す。先端から延びる紫煙を見つめ、どこで判断を誤ったかを振り返る。そしていつになったら、このジッポーライターを返すことができるのかを本気で考えた。
「これ、約束の証な」
 十年前、青臭い言葉を口にした友人から手渡されたジッポーライター。年々、本来の重さよりも重くなっていく。何一つ成果を挙げられないままに歳だけ重ねて、気付けば友人との距離は心理的に遠くなっていた。
 タバコが半分以上灰になった頃、LINEの通知が部屋に響いた。滅多に鳴らない通知音、誰からの連絡かはすぐに分かった。灰皿にタバコを押し付けてから、スマホを操作する。予想通りの相手からメッセージが届いていた。
『今日も呼んでくれてありがとうね。サヤカはね、ケンちゃんと会えるの楽しみにしてるんだ。だからまた呼んでね。ケンチャンからの宿題は次に会った時に伝えられるようにしておくね。明日からも頑張ってね。もし寂しくなったらいつでも呼んでね』
 スタンプや絵文字で映えるように編集された営業メールを読みながら、別の男の所に行く途中で文章を綴っているのだろうと思った。夜の店を通じた出会いでなければ、サヤカのことを独占したいという欲求に駆られるだろう。金で繋がる関係が陳腐で青い恋愛感情を抑止する。この関係も残り僅か、サヤカは来春にはOLになると話していた。そうなれば、きっと会うことはない。仮にどこかで再会したり、OLになってからLINEで連絡を取ることができれば状況は変わるかもしれない。けれどそんなことを期待して待つという選択肢を取れるほど若くはなかった。
 一瞬の快楽と自己肯定を得たとしても、魔法が解ければ形状記憶を施された負の感情によって元通りなる。不毛だと自嘲しても、手放すことはできない。
 俺は返信をすることなくスマホを机に戻し、ゆっくりと立ち上がった。そして少し湿ったタオルを片手に歩き出す。浴室の扉を開ける。シャンプーとサヤカの香水が混じった匂いが嗅覚を刺激し、部屋を後にしたサヤカの背中が脳裏に浮かんだ。

文責 朝比奈ケイスケ

昼下がりの逃避行【ショート・ショート80】

 聡との関係が本当の意味で始まったのは、トーテムポールの腰巾着こと藤村教諭の下手くそな朗読を聞いていた五限目のことだ。退屈のあまり居眠りを試みるも身体にまとわりつく蒸し暑さのせいで、なかなか眠ることができなかった。
 午前中勢いよく降っていた雨は午後になった途端止んでしまい、真っ青な空と暑さが代わりにやってきた。教室の窓から見えるグラウンドには、幾つもの大きな水たまりが出来上がっている。それを埋めるところから部活が始まる屋外で活動する運動部に対して、少しばかり同情してしまう。陸上部に在籍していれば、オレも汗をかいていたと思うと、退部して良かったと自分の選択を肯定してしまう。
 そんなことを考えてしまう程度に授業は退屈だった。持ってきていた小説も読み進める気が起きなくて、手持無沙汰を弄ぶように過去を回想することにしたが、五分とも持たなかった。そこには明るい将来への期待も、諦めたことへの未練が一切ないことを意味しているようだった。怪我も理由の一つだったけれど、それ以上に自分の為では無く、記録を塗り替えるだけ、言ってしまえば学校と自らが得る名誉の為に走ることに嫌気が差していた。怪我を押して出場した大会で準優勝して、表彰台に登った時に抱いた感情。帰り道に痛みがやってきて、結果的に今まで通りに走れなくなったけれど、準優勝が決まった時点で燃え尽きたのだと今になっては思う。
 走るという単純明快な行動を肯定できなくなった。我ながら情けない言い訳だと思う。本当は走ることでしか、自分自身を表現できない愚かさが情けなくなって、捨てただけ。ライバルがいれば変わったのかもしれないが、不幸なことにそんな奴は目の前に現れることはなかった。インターハイで優勝した川端は、将来を嘱望されるスター選手。住む場所が違う。そのことが分からないほどバカではなかった。
 短めの回想を終え、カバンから取り出した文庫本を机の下で広げた。残り十数ページしかなくて、あっさりと読み終えてしまう。広げ過ぎた風呂敷を半ば強引に畳み、無難な場所に落ち着いた結末。作家の個性を感じたが、それ以上の感想を抱くことはなかった。傑作を生み出す力量を持つこの作家は、三作に一作は駄作を世に放つという極めて分かりやすい方程式を持ち合わせていた。正直に言えば、読んでいる中で感じていた。結末を読む限り、今回の物語は見事にハズレだった。
 再びやることを無くしてしまい、教室内を見渡した。大半の生徒が眠りにつき、僅かなに朗読会に耳を傾けている生徒が見えた。窓側の一番後ろの席は、狭い箱の中を見つめるには絶好の場所だった。
「なぁ、ガイロジュってどう書くん?」
 隣に座る聡が小声で尋ねた。山中教諭の朗読よりも気になる似非関西弁が気になって仕方がなかったが、ノートを破って『街路樹』と書いた切れ端を聡に渡してやった。
「おお、こう書くんか。ありがとな」
「そこはおおきに、じゃないんだな」
 疑問に思ったことが口からこぼれた。
「だってニワカやし」
「そこは認めるんだ?」
「認めるも翼は見抜いている訳やろ? そんな細かいこと気にしてんと疲れんで」
 なんだろうこの自信は。理解を越えた何かが聡にはある気がして、その正体を暴きたくなった。
「街路樹すら書けない奴に言われててもな」
 今日初めて出会った転校生に対して、気兼ねなく話していることを自覚してしまい気恥ずかしさといつか怒られるかもしれないという不安が頭を過った。でもそれ以上に漫才のようなやり取りに不思議と居心地が良さを抱き、このまま続いてほしいと思った。
「しゃーないやん。忘れてんやから」
「携帯で調べればいいじゃん」
「お前、天才か」
「いや、聡がバカすぎるんだよ」
「ゆーなや。さっきから確信を。お前は東の名探偵か。古畑任三郎か」
 なんだろう、この感覚。こうして思った言葉を言っても良い相手と久し振りに出会った。中学校に上がった頃に抱いた他者恐怖、正確には自意識過剰のせいで、知らぬ間に言葉を選んでいたことに気付かされた。下手な言葉で刺激されたら、暴力やイジメがひどくなることを恐れていたのだろうな。なんだか情けなくなってしまう。違う場所、登場人物が異なれば、あの頃の自分とは違う自分に成れる。一世一代の賭けに出て良かった。
「ところで何書いてん?」
 アホなやり取りしている間、聡はペンを止めることはなかった。話しながら、何かを書いていた。同時に二つのことに取り組める器用さは、オレにはないものだった。
「翼も関西弁使ってるやん。しかもオレよりも流暢に」
「イントネーションの問題だろ。関西弁の教科書で勉強すれば、流暢に話せるようになるよ」
「まさか勉強してたんか? わざわざ地方の方言を。なんや、最年少の民俗学者なんか?」
「小学校の頃、東京弁って関西でなじられたからな」
 わざと下を向き、落ち込んでいるような演技をしてみた。事実、父親の転勤のせいで関西に行くことになり、言葉の違いに苦しんだ過去があった。今に思い返せば、れっきとしたイジメと定義できるだろう。その自覚症状よりも、どうせ大人になったら東京弁と罵った言葉を使う羽目になってしまう未来が待っている可能性を微塵も感じさせない純粋さをバカにしていたのかもしれない。同級生達の想像力の無さを見下して、自己擁護に走っていた。多分、自意識過剰の根源はあの頃に根を張っていたのかもしれない。
「……。わりぃ。考えもしなかった答えで掛ける言葉、見つからんかったわ」
 ヘタクソな演技に影響されたのか、それとも単純に申し訳なく感じたのかは定かではないが、聡はひどく神妙な表情を浮かべていた。ただ、この表情が演技であるようにオレの目には映った。
「探さなくていい。遠い過去だ」
「達観してんなぁ」
「で、何書いてん?」
「リリックや、リリック」
 数秒前の神妙な表情は嘘だと言わんばかりの嬉しそうに言うの顔は、純粋な少年と表現できた。十七歳になって、こんな表情ができる人生が少し羨ましい。
「わざわざ英語にしなくていいだろ。歌詞で伝わるんだから」
「リリックってカッコ良くない?」
「はぁ?」
「だから、カッコ良くないって聞いてんねん?」
「リリックにカッコ良さを感じる時期は、遠の昔に過ぎ去ったよ。洋楽にハマってるっていう背伸びした中一か? それとも遅くやってきた思春期か?」
「いや遅すぎるもなにも、今思春期真っ盛りやん」
 当然の返しに一瞬、言葉に詰まった。
「……あぁ」
「そうやろ?」
 首を右に捻り聡の顔を見る。勝ち誇ったと言わんばかりの顔は、満足そうだった。オレは苦笑を浮かべ、黒板に目線を移した。知らない間に、白とピンクのチョークで幾つかの言葉が描かれていた。朗読会の題材についての解説、述語の使い方など別に書くほどでもないものばかりで、緑の板は半分埋まっていた。
「で?」
 板書するフリをしてペンを持った左手を動かしながら言った。
「でっ、てなんや?」
「なんで歌詞書いてんの?」
「歌詞やない。リリックや。魂のリリックや」
「リリックって言いたいだけやん」
「ちゃうし」
 否定した声には、プレパーラートくらい薄い怒気が含まれていた。
「じゃあ、何のために?」
「曲作り」
「何のために?」
「シンガーソングライターやから」
「そのワードで全てが丸く収まるのは、有名アーティストだけやけど?」
「有名アーティストの卵やからかまへんやろ?」
「自分で言うか?」
「自分で言わな、誰も言わんしな。しゃーないねん」
「貴方たち、授業を聞く気あるのか?」
 藤村教諭の声が、オレらのしょうもない会話に割り込んできた。折角の会話を邪魔されて苛立った。彩りのためだけに置かれたパセリを見るような目で、藤村教諭の顔を見た。不満げな気色の悪い顔が目に映る。
「起きてるだけ、机に突っ伏して寝てる奴よりかはマシだとは思いますけどね。そこんとこどう思ってるかで、オレらの反応変わるんですけど?」
 聡は躊躇うことなく言い放った。藤村教諭の顔が歪み出す。
「キミが噂の転校生か? 山下先生が言ってたのも納得だな」
「オレ、噂の転校生なんですか? それは名誉ですけど、今関係ないっすよね?」
「授業を聞いている人の迷惑は考えたことないのか?」
「おもろい授業なら聞いてますって、先生。教科書に書いてあることをお堅いニュースを読むアナウンサーみたいに読まれてもシンドイっすやん。本当に大事なことは教科書には載ってないし、好きなら勝手に勉強しますって。それにどうでもいい自己顕示の為に、授業が止まることにイライラする生徒のことを考えたことないんですか? まぁ誰も聞いてないんで、気にすることじゃないっすね。すんません」
「ふざけるな」
 聡の流れるような煽り文句に藤村教諭は年甲斐もなくキレた。教科書を机に叩きつける音が教室にこだまし、溜め込んだ怒りが爆発した放課後によく聞く怒号が教室に響き渡った。平成には、そぐわない昭和感が漂う空間に染まっていく。二つ騒音で、眠りについていた数名の生徒が目を覚ました。急に背筋が伸びた生徒も数人おり、それは部活動に所属する生徒が主だった。恐怖政治が顕著に表れている様は滑稽だった。また寝ぼけている生徒の多くは、起きている事態をしっかりと把握している様子だった。部活動で鍛えられた瞬時の判断力、状況把握能力が見事なほど発揮されている。この学校の部活動の強さを垣間見た気がした。
「せっかく部活に向けて休んでいた何人か起きちゃったやないっすか。先生。前途ある若者の睡眠を妨害したらあきませんって」
「それはお前らがうるさいからだろう」
「先生が、今一番うるさいですよ」
 藤村教諭は、聡の席へと大股で向かい始めた。面倒な展開になることは想像に用意であり、思わずかなり大きめのため息をこぼしてしまった。我ながら失策だった。 藤村教諭は、オレのことを殺気が滲んだ鋭い眼光で睨んだ。その金剛力士像を彷彿とさせる顔は風呂上がりみたいに真っ赤になっている。このまま煽り続けたら、頭の血管が切れてしまうのではないか。心配になってしまうくらいには俯瞰で状況を見つめていた。
「未熟な若者を恐怖で押さえつけるのは時代錯誤もええとこやし、そんなんはバブル崩壊時においてこや。自分の力量の無さを棚に上げて怒りをぶつけられるとか、気分悪いわ。オレと翼は外に出るんで。ほな行くで、翼」
 急に立ち上がった聡は、そう言い残して教室から出ていった。名指しで誘われてしまったら仕方がないし、このまま居ても標的になることは容易に想像できたので、藤村教諭に何故か一礼してから聡の背中を追い掛けるように教室を後にした。

「しっかし、行く場所ねぇな」
 オレらは居場所を求めて校内を亡霊のように彷徨った。同じような風景ばかりの校内を歩き回っているうちに、出口のない迷路に足を踏み入れてしまったような恐怖に苛まれてしまう。でも隣に風間がことでで、なんとかなるだろうと楽観視できた。
「そうだね」
「どした、急に?」
 オレの顔を見ながら不思議そうに聡は言った。
「何が?」
「さっきまでのオレと話していたテンション、どこ行った?」
「いや、あんなフィクションみたいな現実を見てたら、我に返ったよ」
 オレは笑って答えた。そういえば聡と話していた時は、何も考えずに飛んできた言葉を打ち返していた。藤村教諭の授業を抜け出すという非日常的さが、自然と興奮していた頭を冷却し、無口を貫き通していた普段の姿に戻っていた。
「新参者のオレが言う事じゃねーかも知んねぇーけど、翼はさっきみたいに思ったことを口にしてたほうが良いと思うで。普段は辛気くせぇ顔して他人を寄せ付けないようにしてるけど、翼の本音はさっきの姿だろ。相手の腹の中を読もうとして、嫌われないように最善の手を打ちまくって、最終的にはお堅い大御所みたいな雰囲気かましてキャラを成立させているけどな、数日しか見てないけどシンドそうやったで」
「なんだよ、それ」
 心臓が激しく鼓動している。聡の言葉に動揺している。すでにオレの腹の内を見透かしているような感覚。幾つもの可能性を頭に浮かべ、次の一手を思索する。嫌われないように。日々が穏やかに過ごせるように言葉を選んでいた。あの頃みたいには絶対になりたくなかったから。
「世界恐慌に頭を抱える銀行員みたいな顔すんなや。こっちまで、明日の景気が気になってくるやん。……まぁ、オレに対して遠慮なくツッコむお前と関わりたいなって思ったから言うただけやから。気に入らんようなら、無視してええで」
 聡は自分に正直な奴なんだと思った。裏表のない性格は、数時間の間で知ったつもりだった。けれど隣で真面目な顔、真っ直ぐな目には亮廣の一本気な性格を再認識せざるを得なかった。
「でさ、翼。図書室も音楽室、屋上にも入れない今、どうしたらええと思う?」
 困っているというより、何かを期待しているようだった。恐らく翼はオレのポケットの中にある鍵の存在を認識している。昼休みに後をつけられていたのだろうか。一瞬迷ったが、乗り掛かった舟から降りるような真似はしたくなかった。気付けば、左手をポケットに入れていた。
「お前が言ってんのは、これのこと?」
 取り出した一本の鍵。廊下の蛍光灯で鈍く光っている。それを見た聡は、パチン、と指を鳴らした。綺麗な高音が静かな空間で響いた。
「んじゃ、案内よろしく」
「物好きだな」
 そう言ってオレは歩き始める。聡はオレの背中を叩いてから駆け出した。「どこまで青春感出すんだよ」と呟いてからオレも走り出した。もしも映像に残せれば、使い勝手のいい素材になるのにな、なんて思いながら。
 理科室や被服室などの移動教室がメインの校内の西側に目的地は存在している。ドアには『演劇部部室』と明朝体で印刷されたコピー用紙が貼ってある。創造性が求められる部活の割にクリエイティブな要素は全くもって感じさせない。いつ見ても、失笑してしまうのに、未だ変わらないのは部員の怠慢でしかなかった。
「にしても、なんで演劇部?」
 教室に入るや否や聡は訊いた。
「なんとなく」
 本当の理由を隠した。聡はオレのことなど気にせずに、部室にある衣装や照明などの技術道具に興味が向いている。
 部室の奥に置かれた机に腰かけた聡に倣い、オレも手前にあった椅子に腰かける。不意にやってきた沈黙。別に話すことなどなかったので、得意技の無言を貫いていると、聡は一冊のノートに手を掛け、おもむろにページを捲り始めた。ぼんやりと眺めていたが表紙を見た時、血の気が引いた。手に持っているのはオレの思考を綴った創作ノートだった。
 気付けば立ち上がって、ノートを奪おうとしていた。しかし聡はそれを許さなかった。「うるさい」と言い返される有様だ。それでも奪おうとしたが体格的に勝ち目はなく、結局取り返すことはできなかった。
「なぁ、これって中学の時に流行った映画だよな? ヒロイン、白血病で死んじゃうんだよな?」
 オレは観念して黙って頷いた。
「これを演劇にするん?」
「まぁ、そんなとこ」
 ため息を吐き出して、観念するようにオレは弱々しく言った。
「ヒロインと主人公の立場が入れ替わってんやな。んで白血病に侵された主人公がヒロインに振られるんやな。んでヒロインは別の男に向かってく。これ救われへんな」
「そうだよ。可笑しかったら笑えよ」
「誰かが一生懸命に作ったものを笑う奴はクズだと思もおてるさいか、何も言わんよ。でも発想が歪んでておもろいやん」
「面白いか?」
「配置の入れ換えだけでもおもろいと思うで。あとな、ヒロインがふてぶてしく生きている冒頭は、映画を知ってるさかい、どしったってなるわな。……言い方、悪かったな。引き込まれるわ。なんで原作の立ち位置を書き換えたん?」
「今の時代、涙や感動を誘う小説とか映画って、大抵ヒロインが死ぬだろ。そんで、その事実を受け入れられない男の弱さばっか取り上げられているから、単純に逆行っただけ。でも書いてみたら、万人受けしない内容が出来上がっちゃったけど。男は女々しく、女はふてぶてしいってのは、オレの勝手な偏見だよ」
「まぁ、間違ってはいないんちゃう?」
 そう言って聡はノートをオレに差し出した。
「やっぱり、翼もオレと一緒の人間だったんやな」
 オレがノートを手に取った時、しみじみした口調で聡は呟いた。
「一緒じゃないだろ?」
 即座に否定する。一緒のはずがないのだ。主役と脇役の差は顕著だろう。
「翼が今何を思っているかは知らんけどな、自分で作った何かで消化できない感情を吐き出そうとするのは一緒やで」
「聡もそうなのか?」
「創作の原動力って、案外そんなもんだろ。翼が作り上げた舞台、オレは必ず観に行くわ」
「ありがとう」
 生まれて初めて授業をボイコットした日、青臭い言葉で言えば友達になった。

文責 朝比奈ケイスケ

無駄な努力か?2020年を振り返って。

 2020年もあと僅か。
 世間が東京オリンピックに染まって、街を歩けば例年以上に外国人とすれ違う。メダルの数に一喜一憂して、スターが生まれるはずの一年だった。でも気付けば、全世界が別の、得体のしれないウィルスと戦う羽目になった一年。きっと世界史には確実に掲載されるだろう。一年前に想像していた景色とは、明らかに異なっていたし、初めて触れる肌触りに戸惑い、真偽不明の情報に踊らされるなんて夢にも思っていなかった。そんな世界で、僕も漠然と存在していた。そう、端役にも端役なりの物語があった。
 
 冬休みすらまともに取れないてんやわんやだった年始。ご褒美だと言わんばかりに詰め込んだ予定の殆どが白紙になった。野球観戦も高橋優や下種の極み乙女。のライブも軒並み中止になったからだ。辛うじて残った2月のイベント山里亮太の1024とCreepyNutsのラジオイベントのライブビューイング、そして友人のワンマンライブに行けたことが数少ない救いだった。
 2月後半、夜の下北沢を歩いた記憶は今も鮮明だ。
 3月は未曾有の社会情勢を眺めながら、仕事に従事していた。そんな中、新たに告げられる人事によって、今までとは異なる仕事に従事することになってしまった。もはや自分の意思ではコントロールできないような流れが存在しているのかもしれないと感じるしかできなかった。背中を向ける選択肢は持っていた。でも行使しなかった。きっと何かが変わると思ったから。今ではないと思ったから。
 予想通り4月は初体験の連発で心身ともに疲弊した。街から消えたマスクは恐ろしい高値になったし、すれ違う誰も顔を隠すようになった。報道では毎日のように感染者の数を公表し、専門家や有識者、その他多くの人が不安を煽っていた。世界全体が出口の無い迷路に迷い込んだようだった。
 地に足のついていない中、僕自身は仕事において、できないことの多さを痛感していた。積み上げてきたはずの武器があっさりと壊れていく。もう弱さをこれでもかと突き付けられた。精神衛生が極めて危なくなった時期でもあったけれど、それでも歩みを止めなかった。愚か者の意地だった。
 そんな中、緊急事態宣言が発令された。国から家から出るなよというお達しだ。その頃には、テレワークやらZOOM、新しい生活様式など聞き覚えの無い単語が飛び出すようになった。街から人が消えた異様な映像が画面には映し出される。おうち時間なる過ごし方を提唱され、誰もが家で生活をすることを余儀なくされ、ストレスが溜まっているようだった。こんなことになるずっと前から、ある意味自粛生活のような休日を過ごしていた僕には、ストレスが蓄積されていく人が少し羨ましく思えた。きっと、家以外の場所に楽しいことがあったのだろう。羨望と呼べばいいのかな、ちょっと眩しく見えたんだ。
 年休処理が根元にありそうな不意にやってきた休日を過ごしている時、ふと思った。何かしよう。今だからできる痕跡を残そうと思い立った。真っ先に浮かんだのは、小説だった。自分のホームページに掲載していたショート・ショートを軒並みnoteに移植して、そして新たな小説を書き始めた。もう何年もピリオドの打てる作品を書くことができていなかったから、ちょっと不安だった。でも書かないと嘘だと思って、駄作だろうがなんだろうが、書き続けた。
 続けることが美徳。解釈が変わりつつあるかつての国民性が僕の中に残っていたかのようだった。今の時代、同じことを続けることは評価の対象にならない風潮があるように思える。変わりゆく時代の波にうまく乗ることのほうが、きっと人生を謳歌できるのだろう。分かっている。時代錯誤だと嗤われても構わなかった。続けることが美徳だと自分が証明すればよいと開き直った。

 余談になるが、僕は4年前からTwitterで140字小説を書いている。140字小説というのは、Twitterの文字数制限である140文字の中で、物語を綴るというハードルの低い創作活動の一つだ。これを考え付いた時には名案だと思ったけれど、当たり前のように先人は存在していた。140字小説に見合ったタグも存在していた。別にそれでもよかった。書くことができる環境があれば、それでよかった。のめり込んだ結果、去年からは、ほぼ毎日更新している。4年間という時間を元に単純計算すれば、1000作品以上の物語を作っていたことになる。我ながら狂っていると思う。そして、その4年間で、色々な気付き、そして出会いと別れがあった。顔も本名も知らない中で、繋がっていく。想像できないような世界観で物語を編む人がいた。横に寄り添ってくれる物語を描く人がいた。単純に凄い場所に足を踏み込んだなと危機感を抱いたこともあった。それを証明するかのように、誰にも見られない作品がタイムラインに載っては消えていく。それを繰り返すようになった。同時に書き手が増えては消えていくサイクルも見るようになった。今でこそ書けば読んでくれる人、反応してくれる人は増えたけれど、僕の初期の作品を知っている人はごく僅かになった。
 有名人の引退宣言のように言葉を残してアカウントが消した人。
 飽きてしまったのか、更新が止まってしまった人。
 書くことを止めて、本来のTwitterの使い方をする人。
 色々なものが溢れている昨今を踏まえれば、140字小説よりも面白いものを見つけたのだろう。感傷に浸るほど、人間はできていないから、勿体ないなと思うくらいだった。でもその出会いと別れを繰り返すと気付くことがあった。
 誰かから評価されることは嬉しいこと。
 あれ、もしかして続けることって案外難しいのかな? ってこと。
 そして今、読んでくれている方がいる。本当に感謝です。
 
 こんな経験があったからこそ、書き始めるなら続けなければ。単純で隙間を探すことが得意な高校皆勤賞の僕は続けることを軸に少し長め、掌編小説の世界に足を踏み込んだ。掌編小説とは400字~1200字、原稿用紙4枚くらいに収まる小説の種類で、ショート・ショートとも呼ばれていたりもする。中長編用に書いた未完の文章というストックもあったけれど、なるべく新作を書くように心がけた。これはよく書けたと思える作品もあったし、これはひどいなと思う作品もあったけれど、書き上げた作品は目に触れる場所に出した。そんなことを繰り返しているうちに週に1度、土日のどちらかに投稿する習慣が身に付いた。最新作を投稿した際にはnoteの機能が反応して、画面には38週連続投稿と表示された。38週、1ヵ月を4週とすると10か月。10か月連続で何かを繰り返すことが今まであっただろうか。思わず、問い掛けてしまった。色々なことを三日坊主で終えてしまう僕にとっては、その記録はインパクトが強かった。
 もう年の瀬。4月から街は今も未曾有の出来事にてんやわんやしている。ニュースでは感染人数を発表するのが使命だと言わんばかりに伝えている。色々ない弁が中止になり、開催しても人数を減らしたり、アクリル板を設置したり、手指消毒や体温計測、マスクの義務化と変わっていた。堪えることばかりが溢れているのに、心身が疲弊していたのに、できることが一つ成果になって目視できるようになった。気付けば、投稿作品は80作に迫る勢い、不思議な感覚だ。
 誰かは無駄な努力と呼ぶかもしれない。
 誰かは続けることなんて簡単だよと笑うかもしれない。
 誰かは気が狂ったと蔑みの目で見るかもしれない。
 実際そうなのかもしれない。でもそれでも構わないと思う自分がいる。
 世間が変容を遂げようとしている中、新しい生き方を探し出せと訴えかける中で、ホコリを被った過去の自分が残した置き土産が最終的に背中を支えてくれているなんて嘘みたいだった。背を向けたはずなのに。でも振り返ると、確かに残っていた。それが少しだけ嬉しかった。でも課題は山積み。ため息が出てしまう程、見えている。ある文字数を越えるとダレること、単純な実力不足。そして認知度が低いこと。現段階で自分の作品に絶対的な力があるとは思っていない。絶対的な力があれば、きっと今は有名作家の仲間入りをしているだろう。そうなっていない時点でたりないことが多い。面白くないのかもしれない。組み立てがヘタなのかもしれない。考えるだけで止めたくなる程度だ。ただ、魅力はあると信じている。自分が面白いと思えることを誰かにとっても面白いと思ってもらえるように腕を磨かなければ。
 振り返れば最低な1年だったし、やりたかったことはほとんどできなかった。行きたい場所にもほとんど行けなかったし、会いたい人にも会えなかった。悲しいこともあった。最低だ、思い出したくない思春期に肩を並べるくらいに。
 悲観的に物事を見つめることはできるし、それが僕の視点でもあった。だけど、生粋の天邪鬼が顔を出す。こんな悲観的な世の中だからこそ、いつもの視点で見てしまったら、つまらない。それは量産型でしかないし、個性が死んでいる。
 かつて手放そうとしたことをしっかりと握り直すことができた。
 できなかったことができるようになった。
 結果的に、なんだか前向きに物事を捉える自分がいる。今年から地続きなのが来年だ。年が明けて何かが劇的に変わることはないだろう。きっと春先、いやもっと先までは息の詰まる日々が続くだろう。出口の見えない迷路から抜け出すのは遠い未来かもしれない。仮に今が最低だとしたら、あとは上がるしかない。
まだまだ底まで遠いかもしれないけれど、きっと未来は良くなる。それに自分の視点次第で良くすることはできる。延々、綴ったこの文章の僕みたいに。
 できなかったことに目を向けて悲観するのは簡単だ。厄介ごとは決まって重なってやってくる。悲しみの底なし沼に嵌って悲劇のヒロインを演じれば、誰かがやってくるかもしれない。実際は助けてと叫んでも助けてくれない。人との関わりが試されている時期だからこそ、できることを数えてもよいのではないかと思うんだ。前とは違う自分で、会いたい誰かに会いに行く。なんか王道ジャンプマンガみたいでワクワクしませんか。
 きっと未来は良くなるよ。だからそれまで社会や人の歩幅に合わせている自分を振り返ってみよう。思わぬ発見があるかもしれないからさ。

来年は、久し振りに賞レースに向けて書こうと思います。

文責 朝比奈ケイスケ

先制パンチ【ショート・ショート79】

 子供からの脱皮、そして大人への変態が求められる次なる空間の記憶はやけに鮮明に覚えている。身体の各所に変化が現れ、心が揺れ始める思春期の始まりに足を踏み込みながら、漠然とした形無き社会という化け物に取り込まれる準備及び、化け物で生きる為の順応力を鍛えることになる新たな場所。妙に大人びた思考回路は、読み漁ってきた小説と見続けてきたドラマ、所謂フィクションによって形成されていた。それによく遊んでいた近所のあずさちゃんが、大人の人のように変わっていく姿を見ていたからだろうし、彼女を見る度に感じる言葉にできない心の揺れを感じていたことも影響していた。
 幼馴染の友達から片思いの相手へ。多分、当然の変化だった。大学生になったあずさちゃんは、もうこの街にはいない。何か大切なものが手からこぼれ落ちていく切なさは、なんだか初恋が失恋に終わったようだった。
「翼、制服のボタン空いてるぞ」
 窓辺の席で考え事をしていると話を掛けられた。声の主は、小学校五年生からの付き合いである国分武彦だった。この学校で唯一、中学時代のオレを知っている友人は学ランに坊主という姿で笑顔だった。ただ、中学から見ているから新鮮味がなかった。
「別に良くないか? 空いてたって」
「いや一番上まで留めておいたほうがいいぞ。先輩に目を付けられる」
 今までそんなことを気にしなかったはずの武彦が、やけに神経質に言うから驚いた。別にそんなことで何かが変わるなんて思ってみなかった。
「目を付けられるとマズいか?」
「ボコられるぞ」
「ボコられるって言われてもな。武彦は不良マンガ読み過ぎじゃないか? もう平成も二十年近いんだぞ」
 先輩に目を付けれると面倒なことになることは、何となく知っていた。でも実感は湧かないし、仮にボコられる場面になっても逃げ切れる自信があった。おごりでもなく、つい最近まで県内有数のランナーだったからだ。暴力から逃げる為に毎日走り続けたことが、こんなところで活きるなんてと自嘲してしまう悪い癖にも、最近は慣れ始めていた。
「不良マンガの読み過ぎって、お前な。野球部だった吉沢さんがイライラしててな。周りに当り散らしてるから気を付けたほうがいい。でもまぁ、翼の足なら逃げられるか」
 くしゃっとした笑顔を見せる武彦は、制服を着ても昔から変わらない武彦だった。少し安堵した。子供と大人の間にある目には見えないけれど、確実に存在している得体のしれない何かに不安を抱いていたことに気付く。頭と身体はいつだって噛み合わない。
「そう言えば、このクラスには転校生がいるらしいぞ」
「転校生?」
 転校生が来るというワードに違和感を覚えた。頭の片隅には、高校になってから転校する事態は稀有なものであり、現実味を得なかった。
「そうだよ、転校生。どうやら関西の方から来るらしい」
「関西だろうが、隣町だろうが、あと一年余りの付き合いだ。もしかしたら関わることもないかもしれない。そんな異物を意識してペースを乱すのは御免だ」
「そうかもしれないけどさ。お前は中学卒業したくらいから、大人び過ぎだわ。それに不必要に尖り過ぎ。いや斜に構えすぎ、ビザの斜塔か」
「悲惨な時間を知っているだろ? あれを経験すれば勝手に大人びるし、性格も歪んで尖ってくるんだよ。だから別に気にすることでもないさ。ところで武彦、野球部は甲子園に行けそうか?」
「当たり前だろ。甲子園はオレの夢だ」
「甲子園目指すなら、もっと良いとこ行けよな」
 苦笑交じりに言うと、武彦は呆れたように言った。
「お前、知らないのか。ここ昔は県立の星って言われてたんだ」
「遠い昔だろ? 地元から離れた辺鄙な古豪に入ってどうするよ?」
「勿論、オレらで輝きを取り戻して私立の野球バカを倒すんだよ」
「悪いことは言わない。今すぐ、読んでいるマンガを読むのを止めて現実を見ろ。お前は国見比呂でもなければ、茂野吾郎でもない。ましてや山田太郎でもないんだよ」
「知ってるわ。んなこと。入学した瞬間に思い知ったわ。でもな、転校生が何かを起こすかもしれないだろ? もしかしたらプロ注目の奴かもしれないだろ?」
 武彦のポジティブな思考回路が羨ましかった。ボクに決定的に欠けている側面。生きた過程の中でどこかに置いてきたソレは、今後の人生で取り戻すことはないだろうなと思った。自覚した瞬間、なんだか尊いものを捨てた気がして、後悔の念が心を染めていく。
「仮にそうだとしたら、野球バカのお前が知らないのはおかしいだろ?」
「冷静な分析はいらねーんだよ。ってか、翼は陸部に戻らないのか? なんだか演劇部に入ったって聞いたけどさ」
「陸部には戻らないよ。走っても快感が無いんだ」
 右ひざに嫌な感覚が巡る。怪我の代償は思ったよりも深かったと自覚的になる。走ることが生きる意味の一つだったのかもしれない。そんなことを考えているうちに、キーンコーン、カーンコーン、と十年くらい聞いているチャイムが教室に響いた。演劇部の件について追及されずに済み、胸を撫で下ろした。
「んじゃ、またな」
 そう言い残した武彦は、三塁からタッチアップするランナーのようにオレの席から離れ、自分の教室へと駆け出す。その背中は青春を体現していた。
 チャイムが鳴ってから、一分もしないうちにジャージ姿の長身の男が教室に現れた。バレーボール部の顧問であり、担任である山下だ。通称、無能なトーテムポール。担任という立場を放棄して、部活動に人生を捧げているような脳筋野郎。厄介なのは、放棄している割にやたらとオレに干渉することだ。中途半端な態度は見ているだけで反吐が出る。
 教卓の前に立ち、長身と発達した筋肉で覆った形だけの威圧感を与え始めた。どうしょうもない朝の儀式。時間の無駄という概念を教えてくれる反面教師ということ以外に何の意味も持たない。まさに無意味の産物だ。
 半ば惰性で読みかけの小説を手に取り、身体と机の間にできた空間で静かにページを捲った。走ることを失ったオレに残された快感。誰にも邪魔されない静かであり激しい世界。絶望から抜け出すことのできたささやかなきっかけ。
「灰谷」
 まるでピアノの旋律のように美しく、ジェットコースターのようにワクワクし、知らなかった世界を知ることのできるツール。
「おい、灰谷」
 窮屈な場所にいてでも感じる救い。いつかオレもそんな世界を描きたい。
 隣の女子生徒にシャーペンで脇腹を突かれ、物語の世界から現実に戻った。横を向くと、合図をくれた女子生徒は気まずそうな表情を浮かべている。目線を正面に移すと、トーテムポールが般若のように顔を歪ませて立っていた。
「声が聞こえなかったのか?」
 至近距離の威圧は、恐いというよりも権力を振りかざす愚か者に見えてしまい、笑いが込み上げる。必死に耐えて、神妙な面持ちを咄嗟に作る。
「聞こえていませんでした」
 怪我によって溜まったフラストレーションが爆発した結果、尖った人格を作り出し、力のある者に対してやけに挑戦的な態度を示してしまうようになった。
 トーテムポールの顔は、さっきよりも怒りに満ちている。胸倉を掴まれるのだろう。面倒だなと思った瞬間、教室の扉が開く音がした。
「なぁ、先生。こんな茶番の為に待たされてるんちゃうよな? もしそうなら、さっさと終わらせてくれへんか? 意味なく待たされる奴の気持ちを考えてぇな」
 指定の学生服とは異なるブレザーを着た短髪の男子生徒が、退屈そうな表情をしながら教卓の前まで歩いていく。左肩にはギターが入っているケースを背負っている。傍から見れば、腫れ物に触る極めて危機的状況にも関わらず、揺らがない姿に誰もが言葉を失っている。当事者であるオレとトーテムポールでさえ、呆気にとられている。
 男子生徒は後ろを振り向き、チョークで何かを書き始めた。まるで少年時代に見た学園ドラマを彷彿とさせる。
「進藤聡や。これからこのクラスで共に学ぶクラスメイトになるんで、みなさんよろしくな。とりあえず彼女はいないんで、女の子は積極的に声かけてな。音楽はブルーハーツなんか聴くんで、ロック魂持ってる男もよろしく。勿論、それ以外も大歓迎や、まぁよろしく頼んます。ってか先生、オレどこに座ればいいや?」
 黒板には派手に自己主張した登場をかました奴とは思えない綺麗な漢字が並んでいる。フィクションの世界でたまに遭遇する登場人物みたいで、再びボクに欠如している逞しい姿を突き付けられる。
「おぉ、そうだな……」
 あまりの自己主張に戸惑っているトーテムポールの姿は、見ていて滑稽だった。再び、笑いそうになってしまう。
「どこでもええんか? んなら、そこの空席でええか? ってか、そこに座るように空席用意してんやろ。じゃなきゃ、登校拒否の奴がいるんか?」
 トーテムポールが言葉に詰まっていることなど無視した様子で、進藤はオレの右の席までやってくる。机にカバンを置き、何もなかったかのように席に腰かけた。
 しばらく沈黙が教室を包んだ。
「えっ、今から朝礼するんちゃうんすか?」
 さっきから進藤しか言葉を発していない。不思議な時間だった。トーテムポールは、首を傾げながら教卓へと向かい歩いていく。その背中を目で追っていると、右方向から声がした。
「自分、おもろいな。名前なんていうん?」
 進藤は顔だけをオレに向ける。左耳にはリングピアスが装飾されており、蛍光灯の光に反射して光っている。
「灰谷翼」
 普段なら好戦的な態度を取ってしまう場面なのに、何故かフラットな心境で平然と答えていた。
「翼って珍しい名前やな」
 進藤は鳥が羽ばたく様子を両手で表現しながら訊いた。オレはため息をひとつ吐いてから、ノートに灰谷翼と書き殴って、進藤に見せた。
「覚えやすい、名前やな。これで顔と名前を覚えたわ。よろしくな。オレのことは聡でええからな」
「それじゃ聡。早速だけど一つ言っていいか?」
「おう、ええで。なんでもこいや」
「その似非関西弁、なんとかならないか?」
 オレは笑って言ってやった。怒るだろうという予想を反して進藤は頬を緩めて答えた。
「いきなり核心やん。やっぱ、自分おもろいわ。もしかして関西出身か?」
 それからオレらの出会いのきっかけ。あのイントネーションがおかしい似非関西弁の言葉は、今でも心の奥深くにしっかりと刻まれている。

文責 朝比奈ケイスケ

すれ違い【ショート・ショート78】

 キッチンから聞こえる『Bitter Sweet Samba』のメロディが、夢の世界から現実の朝へと戻した。楓はもう起きているようだ。ベッドの上で眠気眼を擦りながら、今朝の出来事を思い出す。楓に甘えてしまったことに恥ずかしさを抱いてしまうけれど、充実感が全身を巡っていた。ベッドから起き上がり服を探す。折り畳みの机の上に綺麗に畳んであるラジオ番組のオリジナルTシャツとスエットが置かれている。思わず頬が緩む。クローゼットから下着を取り出して、机の上の衣服に袖を通す。洗面所で最低限の身だしなみを整えてから、キッチンに向かう。壁掛けの時計の針は十六時を過ぎていた。
「おはよう」
 楓を見るなり声を掛けた。外出用の恰好をしている彼女は、キッチンで忙しない様子だ。
「おはよう。うなされてたけど、大丈夫?」
 不安そうな表情で尋ねるので、寝ている間に心配を掛けていたことに後ろめたさを感じる。
「大丈夫だよ。心配かけてゴメンね」
「大丈夫ならいいんだけど。朝からちょっと様子が変だったから、気になっちゃったよ。悩んでることがあったら言ってよね」
 楓が片手で割った卵がフライパンに落ちる。食欲をそそる音が耳に届き、眠気が冷め始める。適度に塩コショウをまぶすと、香ばしい香りが嗅覚を刺激した。フライパンを片手に持ちながら、目線はオーブンに向いている。器用だなと毎回感心してしまう。それに手際良く料理をこなす楓の一挙手一投足は、見ていて飽きない。普段、どこか抜けている印象を受けるけれど、キッチンでは人が違うかのような動きを見せる。同棲して初めて気付いた長所は、今のところ独り占めだ。
「うん、ありがとう。コーヒー、淹れるね」
 胸に秘めた感想を口にせずに、極めて平静を保って言った。二人しかいない秘密の空間なのに、一体何を演じているのだろうか。
「ありがとう。甘いやつが良いな」
「分かった」
 楓の横に立ち、コーヒーメーカーを起動させる。棚からコーヒー豆を二種類取り出して、ミルで削っていく。ガリガリ、と音を立てて粉末状になるコーヒーの香りが、ゆっくりと朝を実感させた。実際は夕方だから、互いの体内時計は確実に狂っている。
「今日もね、オープニングから若ちゃん節全開だよ」
 楓はスマホを操作して、オープニングトークから再生した。いやぁー参ったよ。そんな導入から会話を組み立てていくオードリー若林に適度に相槌を打つ相方の春日の小気味よいやりとりが耳に届く。
 顔を見なくても楓の声が弾んでいるので、笑顔であることは想像できた。客観的によくできたワンシーンだと思うけれども、オードリーのオールナイトニッポンが心地よい朝に深夜の風を送り込む。なんだか変な感じだ。
「一昨日、聞かなかったの?」
「うん。寝ちゃった。昨日もバタバタしてて聞けなかったから」
「ゴメン」
「ん? 謝ることなんてないでしょ。帰ってくるまで忙しかったし、帰って来てからは翼くんと一緒だったけど、聴くタイミングなかったし」
 楓は少し恥ずかしそうに言う。頬が僅かに赤くなっていて、まだ彼女は少女の心を持ち合わせているようだ。
「そうだね」
 今朝、もしも楓の描いた絵通りにならば、一緒にコレを聞いていたのだろか。それはそれでラジオで繋がったボク達らしいし、楽しかっただろうと想像してしまう。
「でもタイムフリーで聴けるから助かるよね。昔だったら、YouTubeとかで探さないといけなくて大変だったし」
「そうだね」
 お互い定期的に深夜勤務のあるシフト制という共通点があり、日常に溶け込んでいた。
「今日も仕事だよね?」
 コーヒー豆を入れたフィルターにお湯を注ぎながら訊く。
「うん。それに昨日も言ったけど、急きょ研修が入っちゃったんだよね。帰ってくるの9時過ぎちゃうかも。それになんだか嫌な予感がするんだよね」
 楓はため息をこぼしてから呟いた。そういえば「嫌な予感」という言葉によって今までも何度もデートの予定がつぶれていた。
「今日も代打?」
「かもしれないんだよね。一昨日の話なんだけど、高橋さん調子悪そうだったんだよね……」
「楓の予感当たるからな」
「そうなんだよね。翼君は休みだよね?」
「うん。明日の夕方から仕事」
「折角の休みだからって遊び過ぎないようにね。また国分さん誘って、日が変わわるまで飲み歩かないでね」
「国分は所帯持ちだから大丈夫だと思うよ」
「絶対だよ。私も代打に指名されないように逃げるから」と返事した楓は何度も頷いていた。のんびりとした幸福の断片に触れたような時間。気付けばブラックコーヒーとカフェオレが出来上がっていた。

『予感当たっちゃって今日宿直になっちゃいました。変な予感は口にするもんじゃないね。だから夕飯一緒に食べれないや、ゴメンね』というメッセージの後にクマのキャラクターが謝っているスタンプが届いている。その後、他愛もないやり取りを繰り返して、時間を共有し続けた。ボクが電車に乗っている時間と楓の休憩時間が重なった稀有な展開だ。
 看護師というのは激務であり、予想していないことが度々起きる。付き合い始めてから思い知ったけれど、今では慣れてしまっていた。一緒に時間を過ごせないことよりも、楓の身体や精神が限界を超えないかと心配になる。何度かその件について話したことはあった。でも楓はいつも笑って言うのだ。眩しい過ぎる笑顔で。
「大変だけど楽しいこともあるから大丈夫だよ。それに子供の頃からの夢だったからね、頑張れるんだ。それに、恥ずかしいんだけどね、心配してくれる翼君がいてくれる。頑張って仕事して疲れても、凄く嫌なことがあってもね、翼君は真剣な顔で話を聞いてくれるし、私には勿体ないくらいの優しい言葉貰えるから、大丈夫。一緒にいると不思議とね、すぐに元気になれるんだよ。だから私のことは心配しないでも平気だよ。弱った時はすぐに甘えるから、その時は優しく頭撫でてね」
 人生という道で大きな過ちを犯したボクには勿体ないくらいよく出来た彼女だと思う。何より好きになった女性にこんな言葉を言われるなんて夢にも思っていなかった。だからこそ、自分は幸せ者だと自覚的になることができた。しかし、幸せだと感じれば感じるほどに胸が苦しくなる。フラッシュバックする映像は、全身から暖色を奪う。
『今日は帰れないから、久し振りに夜遊びしてきてもいいよ。でも他の女性と遊びに行ったりしたら、すっごく怒るからね』
 返信を打っている最中に再びラインが届いた。こんなに良い彼女がいるのに浮気まがいなことをする奴なんているのだろうか。世の中にはいるのかもしれない。けれど少なくともボクは、そちら側の人間ではなかった。
 楓以外からのラインも会社からの電話やメールも届いていない。年齢を重ねていくことに疎遠になっていく友人たちがいることに、一抹の悲しさと寂しさをブレンドした複雑な気持ちを抱いてしまう。年末や夏休みに会える喜びが増すことを知ってしまったからこそ、顔を出せない現実は苦しい。
『ありがとう』
『優しい私に感謝してよね。明日は夕方まで休みだよね? 私が帰ってからは、ユウ君の淹れてくれたカフェオレとおやつ食べながら旅行の話しようね』

 時計の針が進むにつれて次第に乗車客が増え始めた。二十分が経過した頃には身動きが取れない程度に込み始めていく。社会の縮図のような狭い箱の中は、加齢臭とアルコール、そして化粧品や香水が漂っている。誰かが開けた僅かに開く窓から届く外気によって辛うじて吐き気に負けないで済んでいる。もしもジップロックのような完全密閉空間であれば、耐えきれずに胃の内容物を戻していることだろう。そんなどうでもいい想像を浮かべてしまい、気持ち悪くなった。楓と過ごす時間に酔える自分もいるけれど、作業着を身に纏い昼夜逆転日々を過ごすが、生活の一部として馴染んできている。不思議だなと思う反面で、安定なんて抽象的なもの求めてやりたくもないことに勤しんでいる日常が般化して、楓のために大義名分を掲げて身を投じている自分自身に情けなさを抱く。多分、昔描いた未来図との誤差のせいだ。それともあの音楽番組のせいだろうか。あの時の映像とメロディを求めている自分がいた。気付けばYouTubeの検索窓に『オーバードライブ 醒めない夢』というワードを打ち込んでいた。
 車内にアナウンスが響き、歓楽街が近くにある駅に電車が停まった。ダムの放流のように勢いよく飛び出す乗客はおらず、代わりに下車する人達は足に鉛でも埋め込まれているかと思うくらいに重たい足取りだ。
 帰宅ラッシュで賑わうホームを歩く。でも発車時に駆け込んだ元気は、もう無かった。まるでアルコールを摂取し過ぎて、自我を失いつつあるどうしょうものないような大人の姿を体現しているようだった。まだ飲んでいないのに、と自嘲してしまう。
 改札を抜けて、一目散に向かったのは喫煙所だった。喫煙所内でタバコを吸っている人間で溢れていた。その場所に辿り着けずに区画外でタバコを吸う人間も同じくらい溢れている。そういうマナー違反のせいで、愛煙家が窮地に陥っていることを自覚してほしい。
 名ばかりと言っても過言ではないパーティション四枚で囲われた喫煙所のヒップバーに腰かけ、ポケットからタバコを取り出す。クシャクシャになっている箱は、どこか哀愁のようなものが漂っている。慣れた手つきで、一本取り出して火を付ける。ホタル族と揶揄される儚げな光が口元で灯った。タバコの煙は体内に入り込んで、血管を収縮させていく。身体が重たくなり、毒々しい煙に身体が犯されていく感覚に浸る。吐き出した煙は、静かに星の見えない空へと立ち上り、そして夜空に溶け込んだ。
「さて、行こうかな」
 掠れた呟きは、タクシーの走行音にかき消された。吸っていたタバコを煙の上がる灰皿に入れて、喫煙所を後にした。待ち合わせの時刻には余裕がある。暇を潰せる場所なんて知らなかったからこそ、夢遊病者のようにあてもなく歩き始めた。
今を表現するのであれば逃避行動だろうか。それ以外に今の行動を形容する言葉など持ち合わせていなかった。どうやら本気で捨てることができない一念が、再熱しそうなんだと実感した。
 おもむろにスマホを取り出し、ツイッターを開く。久し振りに裏アカウントで感情を清算するかのように拙い詩を紡いでいた。
 いつの間にか住み着いた習慣。夢や可能性と自分を繋ぐか細い糸は、もう十年くらい切れていない。覚悟の無さを思い知る残骸だと思い込んでいた。でもフリック入力で紡ぐ文章にワクワクしている。そして会いたいと思った人の顔が浮かんだ。でも一人で行く勇気は持てなかった。空白の時間は距離を遠くするものだ。
「国分に連絡するかな」
 ラインを開き、国分に向けたメッセージを送った。

文責 朝比奈ケイスケ


胸騒ぎ【ショート・ショート77】

「ねぇ、今度京都行こうよ」
 夕食で使った食器をキッチンに持っていくタイミングで楓は呟くように言った。今日は僕が当番なのにと思ったけど、そのことには触れずに「いいね、京都」と答えるボクはきっと幸せ者だ。
「本当に? じゃあ、桜が綺麗に咲く時期に行こ。絶対だからね、約束だよ」
 キッチンの向こうから無邪気な声が聞こえる。水道が流れ落ちる音も聞こえたから、どうやら今日の洗い物は免除らしい。意図しているのか、天然なのかは未だに捉えきれないけれど、手持無沙汰になったボクはテレビの電源を入れた。
 画面に映し出されたのは、平日昼間に見なくなったサングラスを掛けた芸人と落ち着いた表情で番組進行を行なっている女性アナウンサーだった。この情報だけで、金曜日の二十時台と分かるくらい、この音楽番組は国民的な番組だ。子供の頃から、どんなに忙しくても、好きなアーティストが出ている時は欠かさず観ていた。青春時代を彩った音楽の多くを教えてもらったし、翌日学校の話題にもなっていた。今ではネットが発展して、探そうと思えば時間が経ってからでも見ることができるから、生放送ということを忘れがちになってしまうけど、生放送だからこその魅力は健在だった。そんな思いれのある番組の時間帯が変わるニュース記事を読んだのは少し前。未だに信じられないけれど、これも時代なんだと飲み込めるくらいには大人になっていた。
「翼君らしくない番組見てる」
 コーヒーカップを二つ持った楓がキッチンから戻ってきた。当たり前のように、僕の座るソファーの横に腰かけて、青いカップを僕に差し出した。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 カップの中にはコーヒーとミルクが混ざったカフェオレが丁度良い量で注がれている。少し息を吹きかけてから、口へと運んだ。甘さが口の中に広がっていく。楓は両手でカップを包んでいる。思わず可愛いなと思ってしまったのは、惚れた男の性のようなものだろうか。
「どうしたの?」
 楓は不思議そうな表情を浮かべて尋ねた。
「いや、なんか可愛いなって思って」
 本音を言うか誤魔化すか一瞬迷って、前者を選んだ。
「そういうことは、もっと言ってほしいな」
 甘えた口調で呟いた楓は僕の左肩に甘えるようにちょこんと頭を乗せた。髪の毛から漂うシャンプーの香りが、不意に胸を高鳴らせる。条件反射のようにキスしたいと思った。
「洗い物、ありがとう」
「うん。でも今日は、私の当番だから当然のことだよ」
「やっぱり」
 僕は思わず笑ってしまった。テレビのスピーカーからは、アイドルグループのキャッチーなメロディが流れ、テンポの速いダンスを舞っている。毎回アイドルの歌っている映像を見ると、踊りながら歌うという離れ業を平然と行なっていることに感心してしまう。カメラが向けば、ウインクなどのファンサービスも怠らないあたり、相当な努力をしているのだろうとなと素直に凄いと思う純朴さは残っていた。
「何、急に笑い始めて。ねぇ怖いんですけど?」
「今日の当番はボクだよ。気付いてないのかなって思ってたら、本当に気付いてなくて笑っちゃった、ゴメン」
「もう言ってくれればいいのに意地悪。明日と明後日は翼君が洗い物当番だからね。絶対だよ。サボったら怒るからね」
 全然怖くない楓の強迫に笑みを浮かべながら、黙って頷いた。
「同棲してからボクが当番をサボったことあったっけ?」
「ないから信用しているよ。それに私の方がサボってるし」
「確かにそうだ。一年半の間に楓と当番を何度変わったことか」
「それは言わないでよ。私だって働いてるし、疲れることもあるんだから」
「知ってるよ。無理して当番やるくらいならさ、変わるからね」
「うん、ありがとう。ユウ君は優しいし、約束を守る人だから甘えちゃうかもしれないけど、私もあんまりサボらないようにするね」
 約束を守る人。楓の言葉に引っ掛かった。確かに間違ってはいない。今までの人生の中で、止む負えない事情を覗いて約束を破ったことは一回しかない。その一回があるからこそ、より約束という単語に敏感になっていることは想像に容易だった。たまに思い出すあの瞬間、約束を守る準備を本気でしていれば、と後悔することもある。寝る前、夢の中、一人でタバコを吸っている時。不意にやってくる後悔は、ある意味ボクの核であり、日常に般化されたものでもあった。
 楓に視線を移す。彼女は上目使いで僕を見つめていた。肩に頭が乗っているから普段よりも至近距離で、その破壊力は未だに言語化できない。ボクは慣れた手つきで左手で髪の毛を撫でる。この距離感は、僕らが付き合って三年、同居して一年半の関係性を表している。恋愛経験が乏しかった僕には、恋人の当たり前とされている行為や行動が当たり前にならなくて、いつだって試合開始時に受け取る真新しいボールのような綺麗さを含んでいる。それが浮かれない要因だと自己分析する気持ち悪い側面もまた変わらないままだったけれど、それでもいいと時間は掛かったけれど飲み込めた。
「好きなアーティスト出るの?」
 甘い雰囲気が流れる部屋の中で、唐突に楓は訊いた。キスしようと画策していたボクは、彼女の質問を聞いて一時的に断念した。感情に従って行動を起こす積極性は、身に付けきれていないようだ。
「そういう訳じゃないんだけど、テレビ付けたら流れててさ。なんか懐かしいなとか思ったら、チャンネル変えられなくなっちゃった。あとゴメン、タバコ吸うね」
 頭の中を整理するために、テーブルの上に置いたラークに手を伸ばし、ジッポーで火を付けた。煙が立ち昇る。頭がクラッとした。楓はボクの肩に預けた頭を戻し、立ち上がって窓際まで歩いた。
「そっか。センチメンタルなお年頃?」なんて言いながら、窓を開けてから再び座っていた場所に戻った。
「センチメンタルって、もうそんな年齢でもないだろ? お互いにさ」
「私ね、よく観てたんだ。ミスチルとかポルノとかハマったのもこれきっかけだし。今だとYouTubeとかで簡単に見れるけど、昔はそうじゃなかったから凄く大事な番組だった。紅白とかと一緒で欠かさず観てたかも」
「ボクも一緒だよ」
「同い年だもんね」
 楓が笑ってカップを口に運ぶと同時にアイドルの曲は終わり、ボクは短くなったラークを灰皿に押し付けて完全に火を消した。そのタイミングでトークへと画面が切り替わる。他のチャンネルを変えようとリモコンを手に取り画面に向けた瞬間、全身が硬直する感覚が襲ってきた。
「それではオーバードライブで『醒めない夢』」
 ダサい名前だなと毒づく。しかし、画面に映し出された映像を見た瞬間、えっ、と動揺した声が口からこぼれてしまった。そして目を疑った。画面の向こう側に、見たことのある立ち姿が映っていたせいだ。まるで体内の神経系への指示が途絶えたかのように、指一本すら動かせなくなった。金縛りとは違う硬直。原因はテレビの向こう側にあると理解するまで、時間が掛かってしまった。数秒で身体の硬直が解けたボクは、気持ちを落ち着かせるために再びラークに火を付けた。頭が重くなった感覚が巡ってきて、余計に状況を把握するのに時間が掛かった。他人の空似である可能性は否めず、防犯カメラの映像を検証する警察捜査官のように映像を見つめた。
 ギターの音で演奏が始まると同時に、暗かった舞台に照明の光が差した。明るくなった中心にアイツに似た男が立っていた。シンプルな舞台の上、ドラムとベース、キーボードという編成の中心で構えるボーカル・ギタースタイル。右手で弦を押さえ、左手で弾き始めるボーカルの姿を映し出す。曲が始めると顔がアップになり、左耳で光るピアスが目に入った。そのどれも見覚えがあった。背中に冷たいものが走り、再び動きが止まる。左手に持ったラークはゆっくりと燃え、灰の量が増えていく。自然と意識は、酒が無くても熱くなれるものに視野狭窄になっていた淡い想いが詰まった過去へと飛んでいきそうになる。だが必死に堪えた。親友かもしれない男が晴れ舞台に立っているのだ。見逃すわけにはいかない。でも腑に落ちずに他人の空似の疑いは拭えない。ボクの知っているアイツであれば、決して取ることのない選択肢だったからだ。
「オレはオレにしかできない音楽を貫きたい」
 高校生だった彼はバンドを組むことを拒み、ギター一本で路上に立っていた。そして自分の音楽だけで世界と向き合い、全力で戦っていたからだ。
 仮に目の前に映る男がアイツであるとして、男の演奏は大学生最後の日に新宿の路上で歌っていた時よりも上手くなっていた。確かに学生時代から歌唱力には定評があったことは知っている。勿論、同級生やライブを見た見知らぬ人たちの感想だ。プロの目から見れば違った印象を受けるのかもしれないけれど、それでもバンドを組んでいた同い年くらいの奴らと比べれば頭一つ、いや三つくらいは飛び抜けて巧かった。 
 その歌声の代償と思ってしまうくらい音楽を始めた頃のギターはひどかった。ろくにメロディを刻めず頭を悩まして、弱音を吐いていた記憶は今でも覚えている。しかし画面に映る男のギターの音色は、あの頃の面影は全くない。むしろ同一人物とは思えない程上達している。素人のボクでも分かるくらいに。会わなくなった期間に彼が積み上げてきた努力の成果なのかもしれない。だとすれば時間の使い方や密度の違いを見せつけられた気がした。でも聞けば聞くほど他人のような気もするボクは、冷静は判断ができなくなっていた。
 ダセーバンド名だな、なんてバンド名を見た時に抱いた邪なことなど忘れ、気付けば叫ぶように歌う姿に見惚れていた。言葉にできない違和感を胸に抱えながら。
 何かを話していた楓の声が耳に入らないほど、ボクはテレビ画面を見つめていた。雰囲気や顔つきに年相応の変化はあった。でも間違いない。直感と言えば、恐らくそれであるけれど、正確には長年肩を並べてきた親友の姿に反応するスイッチみたいなものが知らぬ間に埋め込まれているのかもしれない。
 音楽を生業にする人が出演したいと口にする音楽番組にアイツが出ている。嬉しいけれど、素直に喜べない複雑な感情が胸を染めていく。心の中で呟いた声には嫉妬心が混ざっていた。そして無理矢理押し殺した一つの感情が、溢れだそうとしていた。
「ねぇ、翼君?」
 楓がボクの肩を揺らしたことで、我に返った。
「あっ、ゴメン」
「大丈夫だけど、どうしたの?」
「いや何でもないよ。あのさ、このアーティスト知ってる?」
 ボクは画面を指さして問い掛けた。すると楓は不思議そうな表情をしながら頷いた。
「知ってるよ。最近、よく深夜の音楽番組とかフェスとかにも出てるよ。この前行ったフジロックにも出演してたから聴いたよ。凄くカッコいいバンドで、多分これから今以上に有名になると思ってるバンドの一つなんだよね。どうしてそんなこと聞くの? あんまりバンドとかに興味がないのに」
「いや、単純にカッコいいなって思ってね」
「今度ライブ会ったら行こうよ。でもその前に京都で桜を見に行くのが先だけどね」
「うん、そうだね」
 この瞬間、楓が横にいてくれて良かったと改めて思った。手に入れられなかったガキの絵空事の代償で失った幸せの断片は、一定期間影を落とし続けていた。レントゲンや超音波検査といった医療技術でも発見することのできない穴が胸の辺りにできた気がした。決して目には見えない大きな穴だ。でも塞ぐ術を知らなくて、自然治癒を期待するかのように開きぱなしのまま放置していた。その期間は、過敏になり過ぎていて治っていないキズみたいに掛ける消毒液みたい色々な感情が染みて不甲斐ない自分を責め続けた。そんな壊れかけていたボクを救い、心にできた穴を埋めてくれた彼女という新しいピース。手に届く幸せのおかげで、ボクはなんとか立っていられる気がした。
 楓。ボクは無意識に彼女の名前を口にしていた。楓は普段と変わらない笑顔をして、まっすぐボクを見つめた。楓を左手で引き寄せて静かに顔を近付ける。何をするのか悟ったのか、何も言わずに目を瞑ってくれた。楓の優しさに甘え、自分勝手なキスをした。唇の柔らかさと温かさに涙がこぼれそうになった。
 同時に頭の中でこだまする声が響いた。
「幸せって、自分の好きなことを感情に純粋にやることだと思うんだ」
 果たして本当にボクは幸せなんだろうか。計ることのできない感情への疑問符を抱きながら、楓の温かく柔らかな身体を抱きしめた。

文責 朝比奈ケイスケ